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八、

そして、

 雪の山野を切りさいて疾風のように駆けるモノがある。
 それは二つの巨躯なるケモノの影。
 一頭は鮮やかな黄金色の毛皮を雪の上にさらし、
 もう一頭は雪と見まがう純白の毛を風になびかせながら、
 北へ北へとひた走る。


コハク語り

「にしても、見事にボロボロだな、おまえ。」
 イオウが、背中の上のおれに向かって声をかけた。
 その顔は、ひたすらに、ずっとずっと前の、遠くの雪の原を見すえたままで。
「相当手ひどくやられたな。相手はあれか、ヒスイ、だな?」
 そうだ、とおれは答えた。
 答えるおれの顔に、雪と氷の粒がばしばしとぶつかってくる。
 イオウは相当な速さで駆けている。おそらくおれが本気で駆けるよりも二倍くらいは速いようだ。さすがにイオウだ。

 そしてその左側、少し離れて、同じ速さでシロガネが駆けている。シロガネの背にはサクヤがつかまっている。風にあおられないように顔を伏せて、かたくシロガネの背にしがみついている。無理もない。ヨウコのおれならこの速さにも慣れているが、サクヤにはこれは少し速すぎる。落ちないようにしがみついているのが精一杯だろう。おれとしてもサクヤに何かをしてやりたかったのだが、かといって、とくにできることがあるわけでもない。ただ、落ちるなよサクヤ、と。心の中で何度もそれを言うことくらいしかできなかった。イオウがまた何かをたずねた。風の音に押されてよく聞こえなかったので、今なんと言ったのだ? とおれはもういちど聞き直した。

「たいしたもんだ、って言ったんだ。あのヒスイ相手に、ぶち殺されるどころか、逆にこてんぱんにぶちのめしたと聞いたぞ」
「こてんぱん、とは何だ?」
「さあな。それはおれも意味は知らん。」
 イオウが鼻を鳴らして笑い、ははは、いいな、正直だなおまえは、と言った。
「まあ、とにかく、ムチャクチャにやっつけたとか。そんな程度の意味だろう。褒めてるんだぜ、おれは」
「褒められるほどの、何かではなかったのだ。おれもあと少しで、殺されるところだった。勝つと負けるとは、ほんの少しの差しかなかった。おれはただ、少しあそこで運が良かったのだろう」

「ふん、」
 イオウがうなって、ゴフゴフッ、と野太い声で喉をならした。おそらく咳をしたのではないだろうか。風にまじる雪はさきほどよりは減って、北の空は少し、さきほどよりも明るくなってきた。だが雲はまだ厚い。遠くの山も雪の原っぱも雪をかぶった木立も、すべてが冬の、寒々とした灰色の下にある。
「まあだが、運も実力のうち、とも言う。とりあえずおまえ、よくやったってことだよ。だが、なんでまた急にだ? いきなりおまえまでがイナリに反旗とは、おれも最初、耳を疑ったぞ。あれか、あのアケチの姫に、心底、惚れちまったってくちか? ん?」
「惚れたのは、たしかに、そうだろう」
 おれは正直に認めた。おれがサクヤを好きと思う気持ちは、ほんとうだ。それをいまここでごまかしても仕方がない。本当のことは本当だ。おれはだから、本当の言葉を今ここでイオウに言うほかない。

「だが、それだけでもないのだ」
「それだけでも?」
「それはおれの、こころの声なのだ。おれは自分のこころに、従ったのだ。おれはそれまでずっと、自分のこころの声を聞かずに、ただ、怖くて、イナリさまがやれと言うことだけをそのままにやってきた。それしかおれは知らなかったのだ。そしてイナリさまは、怖いのは怖いのだが、それでもやはり、おれの育ての親でもあるのだから――」
「まあ、それは違いねえ」
「だが、親でもやはり、間違うことはある。それが今ならわかるのだ。おれには今は、イナリさまがやれと言うことが、どれほどに正しくて、どれほどに良いことなのか。少しわからなくなってきたのだ。サクヤを殺せとイナリさまは言う。アケチマンシューを殺せ、とも言った。じっさいクロガネがマンシューを殺した。サクヤの父親だ。だが、その理由が、それをやることの正しさが。今ではおれには、わからないのだ。よく、わからないのだ。おれはそれまで、正しいかどうか、などということ自体をマジメに考えたことがなかった。だが、サクヤと出会って―― おれは急に、そういうことも、なぜだか少しは、考えるように、なってしまったのだ。初めてのことだ。だからおれは――」

「ははは。恋ってやつだな、それは。若いなおまえ、」
 イオウが、がははは、と大声で笑った。
 左を走るシロガネが、ちらり、とこっちを見た。
 イオウが急に笑い出したから、一体何かと思ったのだろう。
「逆におれはイオウにききたいのだが、」
「む? 何だ? おれにか?」
「そうだ。おまえにだ。イオウはどうして、イナリさまにしたがわないと決めたのだ? なぜ、どうして、その、タケダというトノサマのために働いている? そこのところが、おれにはまったく、よくわからないのだが」
「ま、それを最初から全部話すと長くて夜になっちまうが、」
「夜まできくぞ、おれは」
「ばか言え。おれが疲れるわ。まあ、てっとり早く言えば、政治だな。」

「セイジ?」
 おれはよくわからなくて聞いた。
 その言葉は、いろんなモノがいろんなときに口にする気がするのだが、おれにはいつも、その言葉の本当の意味がわからない。セイジ、とは、いかなるものなのか。
「ああ。政治だ。この乱世を、どう切り開くのか、っていう。てっとりばやく言えばそれが政治よ。だが、まあおれもじつを言えば、そこまで深く世のことを考えてるわけじゃない。」
「そうなのか?」
「ああ。そうよ。自慢じゃねえが、おれもそれほど頭は良い方じゃあない。それほどひどく悪くもねえとは思っているが―― おれよりは、むしろ、シロガネのやつがな。」
「シロガネ?」
「おう。そうだ。あいつが、いろいろ、深いところを考えている。おれはあいつの話をいろいろきいて、いろんな話をきくにつけ、なるほどもっともだ、と。そう思っただけよ。それであいつと動いている。アケチの姫にしたってそうだ。おれは正直、あの姫がどうなろうが、生きようが死のうが、ぶっちゃけあんまり関係ねえ。どうでもいいと思っている。が、シロガネがな。アケチの姫は、使える。いま死なれては困ると。強くそう言うものでな、だからまあ、おれも。それならそれで、護ってやろうかと。その程度のことよ。がっかりしたか?」
「ふむ… がっかりは、別に、してはいないのだが――」
「まあ要するに、だ。イナリを支えるよりも、タケダと組んで、別のやり方を貫く方が、あとあと、ずっとずっと良い世が作れる。そこのところを信じて、ま、おれはただ、シロガネのやり方を手伝っている。とまあ、その程度よ」
「なるほど。ではあれか? イオウはシロガネに、惚れているのか?」

「ぶはっ、」

 イオウがいきなり咳き込んで足取りを乱したから、おれはもう少しで背中から落ちるところだった。あぶないだろうイオウ、とおれが怒ると、イオウはイオウで、バカ野郎。てめえが妙なこと言いやがるからだぞ、それは。と言って怒った。
「お、おれは、べ、べ、べつに、シロガネに惚れたとか―― そ、そんなんじゃ、まったく、ねえ、っつう、その、」

「こら。そこ二人。さっきから全部きこえてますよ、それ」

 横からシロガネが言った。
 声が少し笑っている。こっちを見ずに、ひたすらに脚を前に進めながら。

「あと少しで着きます。ですからそういう脇道のおしゃべりは、タケダの城下に着いてから、ひとつわたしのいないところで存分にやってもらえると助かるわね」

「うむ、わかった。では、着いてから、おれはまたイオウと存分におしゃべりをするのだ」
「ば、ばっか野郎! お、おれの方はべつに、てめえにこれ以上話すことなどこれっぽっちもねえっつーわけで――」

 雪をかぶった丘をひとっとびで越えると、
 その向こうに、あたらしい広い雪の原っぱがひらけた。
 そこにはもう山かげはなく、広い広い白い雪の原だけがある。その野のはるか先、
 そこにおおきな城のカタチが見えた。どうやら町もあるようだ。
 ワカサの国。タケダの城下。おれたちの目指す場所が、もう、そこに見える。

「もうすぐだなサクヤ、」

 おれがシロガネの背のサクヤにむかって言った。
 サクヤが、「え?」と言ってこっちをふりむいた。
 どうやら風の音に消されて、おれの声が届かなかったらしい。
 だからおれはさっきより声を張り、もうすぐ着く、とサクヤに言った。

「ああ。もうすぐだ」

 サクヤは言って、おれにむかって笑った。
 その顔は少し疲れているようだったが、それでもおれは、その、笑うサクヤの顔をひさしぶりに見られてとても嬉しかった。サクヤは笑っていないときもなかなかに美しいのだが、笑うと、さらに美しい。おれはサクヤにもっともっとそのまま笑っていて欲しいと思ったのだが、サクヤはすぐに笑顔を消し、少し厳しいもとの顔に戻った。その、鋭く厳しい目つきで、ずっと先の何かを睨んだ。おそらくサクヤは、とくに雪の原っぱの上の何かを見ているのではなく、
 そうではなくて、未来を。
 この先の、未来のことを考えているのだろう。おれにはそのように思われた。おそらくそれは当たっているだろう。  

 その未来。
 そこでは恐らく、またたくさんの戦いや、危険なことや、難しいことも多くある。なにしろイナリさまは、まだ今もあのシチジョウ山のゴテンに生きている。トヨオミヒヨシデという、アケチを負かした敵の強いトノサマも、そのままどこかに生きている。イナリさまは、おそらくおれたちのことを、このあとずっと、裏切り者の敵としてどこまでも狙ってくるだろう。それを考えるとおれはやはり恐ろしい。恐ろしいのだが。
 
 だが、
 おれにはいま、サクヤがいる。
 それがまず、何よりも、前とは違うところだ。
 サクヤが、いま、そこにいる。
 おれはサクヤを支える。支えるのだ。おれがサクヤをまもるのだ。
 それが大事なことだ。それこそが一番なことだ。

 そしていまおれには、味方もいる。
 イオウに、シロガネ。
 とても強いヨウコの仲間が、いま、おれとサクヤに味方して、
 おれたちを護り、おれたちを乗せて雪の中をどこまでも走ってくれている。
 おれはひとりではない。もう、ひとりではないのだ。
 その、ひとりではないの気もちが、おれの心を、少しだけ強く、まもってくれる。
 そのようにおれには感じられた。おそらくその感じは本当だろう。
 雪風がびゅんびゅんと耳のそばを通りすぎる。
 雪の粉がぶわっ、ぶわっ、舞い上がっては後ろに飛びさってゆく。
 おれたちはいま、北をめざし、北へ、さらに北へ、
 とにかく先へと、かけてゆく。
 
 今はただ、そこまで。

 いま見える限りの、そのところまで。
 いまここにいるサクヤと、仲間と。
 いっしょになっておれは走ってゆく。それだけなのだ。
 それしかおれには、思いつかないのだ。
 それより先のことは、また、その先できっとわかるだろう。

 未来をおれはまだ知らない。それがどうなるかはわからない。
 おそらくサクヤにも、まだそれほど先までは見えていないだろう。
 わからない。まだ先のことなど。誰にそれが見えると言うのだ。

 だが、それでもだ。
 それでもおれたちはゆく。
 ゆくだろう、どこかへ。
 それがどこであったとしても、それがどんな場所であるとしても。
 おれはもう、かまわない。おれはサクヤとゆく。今ここにいるサクヤとゆく。
 それだけだ。おれはただ、もう、本当にそれだけなのだ。



      (琥珀伝 序   おわり)

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