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六、

コハク語り

 カイヅノ鼻というのは、最初は島のように見えたのだが、そのうち、右と左につづきの陸地も見えてきた。おれたちは、とうとう湖の北のはしに着いたのだ。
 カイヅノ鼻がだいぶ近くなったところで、ベニサギはゆっくり三回空の上をまわり、それから翼をひるがえして、南にむけて戻っていった。サクヤは舟の上から手をふって、ありがと、ベニジョによろしくっ、と言った。その言葉がベニサギにきこえたかどうか、おれにはわからない。たぶんもう、遠すぎて聞こえなかったのではないだろうか。

 ベニジョがおしえてくれたとおり、おれはカイヅノ鼻を左に見ながら舟を押した。水はだいぶ浅くなって、顔を水につけると底の地面がよく見えた。底はさらさらした白砂だ。ときどきその上を小さい魚のむれが通った。

 水から顔を上げると、カイヅノ鼻の上からぶわっと煙が上がった。白い煙がもくもくとまっすぐ空にのぼっている。
「む、何の煙だろうかあれは?」
「……のろしだ、たぶん」
「のろし?」
「煙の合図。あれで遠くの誰かに何かを伝えるんだ」
「では、あれは遠くの誰に何と伝えているのだ?」
「知らない、そんなことは」
 サクヤが首を横にふる。
「でも、なにか嫌な感じだ。あたしたちのこと、誰かがあそこで見てるんじゃないか?」
「ではあれは敵の煙なのか?」
「わからない。どっちにしても急がなきゃダメだな。うかうかしてると、また追っ手がくる。ねえコハク、もう少しだけ急げるか?」
「む、そうだな。ではもう少しだけ急ぐぞ」
 おれは足のバタバタをさっきより大きく速くした。水が高く遠くはねあがった。舟はぐんぐん速さを増した。とちゅう、ちょっとだけうしろを見たが、さっき見た煙はだいぶ少なくなって、空にちょろっと煙のはしが残っているだけだった。

 そのあと進むにつれて、湖はどんどん細くなり、やがて川のようになった。その川を、さらに進んだ。川の両側は崖になっていて、崖の上には竹や木がたくさん生えていた。しばらく行くと川はまた広くなって、まるくて大きな池に出た。どうやらここで、ビワの海はおしまいのようだ。ヨゴノ池、とベニジョは言っていた。ここで舟を捨てろとベニジョは言った。おれは舟を岸に近づけて、池のふちにぐいっと舟を押しつけた。舟が止まると同時に、サクヤは岸の上にとびおりた。でもすぐにころんで土の上にベタッとすわった。

「あー、舟ではずっと座ったままだったから、足がしびれてダメだな。あたたたた」
 サクヤは自分で自分の足をもんだ。
「いやー、だけど思ったよりはやく着いたな。ありがとうコハク。体は大丈夫? つかれてないか?」
「それほどつかれてはいない。では、走るか。シオツ村まで、もうすぐだろう?」
「でも、どっちだろう? 方向があまり、わからないけど」
 おれはそのへんを見まわした。池のまわりにはたくさんの木と竹と草と、ところどころ、雪のつもった原っぱがあった。雪の下になってよくわからないが、たぶん、その下は田んぼか畑なのではないか。むこうのほうには、百姓のつかう物置小屋も見えた。
 おそらく、近くにヒトがすんでいるのだ。ならば、近くにヒトの通る道もあるだろう。その道をすすめば家や村もある。そこでシオツまでの道をきけば良いのではないか。おれがそう言うと、それもそうだな、意外とアタマいいよなコハク、とサクヤは言った。

 歩きはじめてすぐに、四、五人のオサムライが近くの竹やぶからかけだしてきておれたちの前に立ち、止まれおぬしら、と言った。誰なのだおまえたち? とおれは言った。だまれだまれ、そこにおるのはアケチマンシューのムスメか。アケチのヒメだな? 
 いやちがう、とおれはウソを言った。ウソをつくでない、とオサムライたちは言った。おれはだまった。おれはあまりウソが得意ではない。いつもすぐにばれてしまうのだが、今回もやはりそうだった。
 そのムスメの首をもらう、とオサムライは言った。首はやらないとおれが言うと、ならば死ねといって、すぐに切りかかってきた。おれが腕をふると、そいつの剣はかんたんにおれて、そいつは体ごとぶっとんで池の中に落ちた。わああああああっと言いながらもうひとりが槍でついてきたから、こんどはそいつをけった。そいつのあばら骨はかんたんにくだけて、そいつは血をふいて倒れて動かなくなった。それを見て、のこりのオサムライらは「あああああっ」とさけんで、槍や剣をそこらに放りだしてむちゃくちゃに逃げ出した。おれはそのあとを追った。やめろコハク、ほっとけ、むだに殺すなとサクヤがうしろから言った。だからおれは追うのをやめた。オサムライたちは竹やぶの中に逃げこんで、そのあとはもう戻ってこなかった。

「まずいな。もうここまで追っ手がきているというわけか」
 サクヤがむずかしい顔で言った。オサムライが捨てていった槍をひとつ拾い上げ、ぶん、ぶん、と軽くふった。
「ま、つくりの安い槍だけど、こんなのでもないよりはましか」
 サクヤはひとりでつぶやいた。
「さ、じゃ、行こうか。あんまりのんびりもしてられない。行こうコハク。シオツ村までの道を探そう」

「そこにいるの、コハクね?」

 女の声がした。
 はっとして、おれとサクヤは声の方を見る。
 むこうの木の間から、誰かが雪をふんで走ってくる。
 わかいムスメだ。桃色の服を着ている。肌は白い。髪の色は、燃え立つような、赤。ひと目見て誰だかわかった。

「ルリ」

 そうだ。ルリだ。
 まさかここで会うとは。ルリもまた、おれを追ってきたのか?
 ルリは、少しはなれた雪の上でしずかに立ち止まる。
「ルリか」
「バカコハク、」
 ルリが、すねた顔で言った。
「バカバカコハク。なんでこんなことしたの? おまえ、自分が何したかわかってる? 何とか言いなさい、バカコハク」
「おれはバカではないぞ」
 おれは、むっとして言った。
「おれは、サクヤとワカサに行くのだ。そこをどくのだ、ルリ。おれはお前と戦いたくはないぞ。戦えば、おそらくおれの方が勝つのだ。だから戦うのは、やめにするほうがいいぞ」

「ねえ、あれは誰?」
 サクヤが、うしろからおれの袖をひっぱる。
「あれはルリだ。おれの知り合いだ」
「へえ。きれいな子だな」
「そうだろうか? おれにはそれは、あまりわからないが――」
「きくのよバカコハク、」
 ルリが、こわい顔をつくって言った。しかしおれは、ルリのこわい顔は、あまりこわいと思わない。ルリは、心のやさしいムスメだ。おれはそれをよく知っている。
「いますぐそこのニンゲンを、こっちにわたすの。それでおまえは、助かる。ルリからも、姉様によく言ってあげる。イナリ様にも、よくよく言ってあげる。おまえも地べたにアタマをついてよくよく謝りなさい。ルリもいっしょに謝ってあげる。今ならまだ、遅すぎはしないの。ねえ聞いてるのバカコハク? ちゃんと聞いたの?」

「ルリの話は、きいたのだ」
 おれは少し困って、ルリの足もとを見る。
「しかしサクヤは、わたさないのだ。おれはサクヤをまもる。おれは自分で決めたのだ。だからどけ、ルリ。おれたちは、行く」
「行かせない」
 ルリが、半分泣きそうな顔で、おれをにらむ。
「行ってはいけないの。もうすぐ姉様がくる。そしたらおまえ、殺される。死んではだめだ、コハク。ルリの言うことを、きいて。ルリは、ルリは――」

 ぽろり。

 ルリが、泣いた。ルリは、立ったまま、おれをにらんだままで、ぽろぽろ、ぽろぽろ、泣いている。おれはルリが泣くところは何度も見たからとくにおどろきはしなかったが、なにしろルリはとても泣き虫だから、しかし、おれは――

「ルリ」

 ルリのうしろから、声。
 もうひとり、女があらわれた。
 緑の服をきている。流れるような緑の髪。
 さっきまでおれの中にあった明るい気持ちが、みるみるしぼんで消えてしまった。
 緑の女。おれはそいつを知っている。
「ヒスイ」
 おれは、とてもいやな気持でその名前を言った。いちばん会うのがいやな女だ。イナリ様の次くらいに、会うのがこわい。
「姿が見えないと思えば、そんなつまらない話をしていたの? つくづく愚かな妹」
 ヒスイが、ルリとならんでそこに立った。ヒスイはルリを見ていない。まっすぐおれを見ている。氷のような、おそろしく冷たい目だ。
 ルリが青ざめた顔で、横に立つヒスイを、おそるおそる見た。

 パン!

 大きな音がして、ルリの体がとんだ。
 打たれたルリは、雪の上を転がり転がり、水辺に倒れた。
「何? 何? いきなり仲間割れ? いったいどうなってるんだ、あれは? え、どうしたコハク? おまえまさか、震えてる?」
 サクヤがおれの背中にふれた。
「少し、ふるえているのだ」
「誰なんだいったい、あの緑女?」
「ヒスイ」
「ヒスイ?」
「下がっていろサクヤ。あれはヨウコだ。とても強い。おれのうしろで、いつでも逃げられるようにしておけ」

「こわがるなコハク。あたしも戦う」
 サクヤはおれの横に立ち、さっき拾った槍をかまえた。
「やめろ。死ぬだけだ。サクヤはヒスイを知らないからそう言うのだ。とてもこわいオンナだぞ、あれは」

「ふうん? それがおまえの駆け落ちの相手?」

 雪の原っぱのむこうからヒスイが言った。顔がすこし笑っている。
「わたくし、まったくわからない。そんな女の何が良いの? そこにころがっている馬鹿な妹のほうが、まだしもましだと思うのだけれど。馬鹿は馬鹿どうしおとなしく睦みあっていればよかったのでは? あなた、ルリでは不満だった? だめね、馬鹿の考えることは、わたくしには難しすぎてわからない」
 もう、かなり近くまできた。あと少しで、牙の間合いに入る。

「何度もバカと言うな。おれはその言葉がとてもきらいなのだ」
 おれはひざをやわらかくして戦いにそなえる。いつ飛びかかってきてもおかしくはない。ヒスイはいつも、刀も槍もつかわない。使うのは牙だ。おそろしくよく切れる。ヒスイはぜったい、かげんをしない。ヒスイはぜったい遊ばない。すぐに全力で相手を殺す。だからとてもおそろしい。ぜったいに相手にしたくない相手だが、だけどいま、それがおれの相手だ。
「それに、言っておくが、ルリはバカではない。ルリは、心のまっすぐなムスメだ。姉のおまえなどより、よほど心がきれいでまっすぐなのだ」
 ヒスイは雪の上で立ち止まり、つめたい緑の目で、じいっとおれを見た。雪まじりの風がふいて、メノウの緑の髪がざわっと舞い上がった。
「なに? いま何か言った? 馬鹿のたわごとはわたくしにはわかりません。さいごに一度だけきくけれど、その女をこちらにわたす気はない?」
「ない」
「そう。きくだけ無駄でしたね。では、いま死になさい」
「おれは死なないぞ」
「死ぬのよあなた。では、行きます」

 言い終わる前に、ヒスイは変わりはじめた。ほそくて弱そうなニンゲンのムスメの姿は見る間にくずれて、中から真っ白いキツネの毛がもりあがる。完全にヨウコの姿になりきらないうちに、ヒスイはもう、目の前にきていた。ヒスイの爪がのどもとをかすめる。おれはそれをよけたあと、おもいきり息をすって一瞬でヨウコにかわった。地面をけってヒスイの首に牙をたてようとしたが、かんたんにふせがれる。ヒスイはうしろ脚でおれをけった。おそろしく強いけりで、それをふせいだおれの前脚の骨はミシミシと鳴った。後退しながらおれはとんだ。雪をけってヒスイにむかった。むかったつもりだったが、もうそこにヒスイはいない。
 うしろから牙がくる。おれは体をふってその牙をかわすが、かわしきれない。雪と血と肉がとぶ。体のどこかが裂けたが痛みは感じない。自分の血をまきちらしながらおれはヒスイの腹をおそう。が、おれの爪はヒスイをとらえない。

 ぐ、
 はげしい痛み。おれは体をひねってうしろに逃げる。背中をえぐられたようだ。しかしまだまだ、戦える。おれは左へまわりこんだ。が、そこにもうヒスイがいた。白い長い毛がざわざわ逆立ち、冷たい緑の目が、おれを見ている。その目はまっすぐおれの首をねらっている。おれはあとずさって、こんどは右に逃げた。が、そこにもヒスイ。はやい!
 ヒスイが脚でおれをけった。けりはおれの横腹をとらえた。ギシギシと骨が鳴り、おれは雪の上に血を吐いた。ヒスイがまた、目の前にきた。おれは口から血をとばし、ぎりぎりのところでヒスイの牙をかわし――


サクヤ語り

 ものすごく大きな白のケモノと、ものすごく大きな茶色のケモノが、はげしく組みあい、戦っている。二匹の動きはどんどん速くなって、あたしの目には、もう、茶色のかたまりと白のかたまりがぐるぐる位置を変えながら地面をころげまわっているようにしか見えない。ときどきグッとかガァッとかいう身の毛のよだつ咆哮があがる。そのたびに赤いものが、パッ、パッと雪の上に散る。どちらがどちらを傷つけたのか。あたしにはぜんぜん見えない。ただなんとなく、茶色の方が、しだいにつかれてきて押され気味になってきているということ、それだけは、なんとなくわかった。そしてたぶん、その茶色い方がコハクだろうということも。

「コハク!」

 あたしは叫んだ。
「コハク! がんばれ! 負けるな! ぜったい負けるな!」
 あたしは叫んだ。だけどすごい。ほんとにすごい。これがヨウコ。これがヨウコか。これが本当の、コハク。これが本当の――


ルリ語り

 コハクはけして、弱くはなかった。いつのまにこれほど強く速くなったのだろう。
 強くなった。でも、それでもまだ、ヒスイが相手では足りない。
 一寸。
 わずか一寸であるけれど、コハクの牙はねらいをはずす。コハクの牙は、何度かヒスイの皮膚をやぶった。ヒスイの血がとんだ。でも、どれもぜんぶ浅い。ほんのかすり傷。
 いっぽうヒスイの牙は、コハクを深く傷つける。あと一寸深く牙をたてれば、コハクは死ぬ。あぶない。あと一寸。その一寸で、かろうじてコハクは、命をつないでいる。
 だけどそれも、時間の問題。ヒスイの牙を、そんなに長くは、かわし続けられない。あぶないコハクッ。あ、だめ、うしろに逃げて!

「ふ、思いのほかやりますね。感心しました」

 ヒスイが、足をとめて余裕の声を出した。でも、それはじつは演技で、そこまでの余裕はヒスイの方にもない。わたしにはわかる。あれは演技だ。いつもの姉の演技。そういう演技も、ヒスイにとっては戦いのうちなのだ。
「では、そろそろわたくしも、少し本気を出しましょうか?」
 ヒスイが言い終わる前に、コハクが右に跳ぶ。ヒスイも右に跳んでそれをさえぎる。ヒスイはそこから左に跳ぶとみせかけて、跳ばない。動きにつられて無防備になったコハクの横腹をねらう。

 あ、いけない!

 ヒスイのねらいは、わずかのところではずれた。
 ほっと息をつく。
 あれ? 
 気がつくとわたしは、コハクのことばかり応援している。
 コハクがあぶなくなると、わたしの胸はさわぐ。
 あぶない! ちがう、右だコハク! あ、だめ、それはヒスイのねらいどおりよ!
 コハク。コハク。コハク。
 だめ、やられる。コハクがコハクが、殺される。
 だめ、姉様、やめて。もうやめてください。
 にげてコハク。にげて。
 おまえはヒスイには勝てない。最初からそんなのムリだったの。
 うしろよコハク! あ、足がすべった!
 かわしてコハク! まだもう一度来る! あ、あ、だめ、だめよコハク!
 そっちに跳んではだめ! あぶない!

 わたしはもう、どきどきして、どきどきしすぎて、
 もう、うまく息が吸えない。
 コハクが。コハクがやられる。コハクが殺される。
 また、血が飛んだ。コハクの皮が大きく裂けた。
 ヒスイが高く跳躍した。コハクの真後ろの雪の上におり、すぐに向きをかえてコハクの首をねらう。コハクが体をひねってその牙をかわした。
 だけど足をすべらせた。
 コハクが倒れた。
 ヒスイはそれを見のがさない。
 牙をむいて、上からおそいかかる。
 コハクは雪の上を転がる。なんとかかわした。
 またヒスイがおそう。
 またかわした! でもまだ危ない。
 ガアァ! 
 ヒスイが牙をむいた。
 コハクは今度は動けない。ヒスイはまっすぐ首をめがけて――
 だめ!


コハク語り

 いきなり何かがおれの上にかぶさってきた。
 血がとんだ。
 が、それはおれの血ではない。ヒスイの血でもない。
 なんだ? どういうことなのだ?
「ばかめ」
 ヒスイが牙をぬいて、ぺっ、と口から血を吐きだした。
 どさり。
 たくさん血を流しながら雪の上にたおれたのは、

「ルリ?」

 ふさふさした白の毛並、その首の傷から、どくどくと血が流れている。
「ルリっ。しっかりしろ!」
 ルリの目が、おれを見上げて、少し、笑った。
「………」
「なに? なんと言った?」
「……バカコハク」
「む、」
「……死んでは、だめ。バカなバカなコハク……」
「ばか。ばかはおまえだルリ、おまえこそ――」
「いき、て、コハク。まけては、だめ」
「ルリ。息を吸え。しっかりしろルリ。目をあけろ」
「いくさ、とか、ない場所で、会いたかったの……」
「………」
「そしたらまた、い、いっしょに、カニを、つかまえて」
「ルリ」
「こんどは、ルリは、もっとうまく、コハクよりも……」
「ルリ。もう話すな。もう話すなルリ」
「ルリは、ルリは、コハクが、コハク、ルリの、コハク、コハ……」

 ぐらりと首がゆれて、
 ルリはもう、動かなくなった。
 動かない。
 ルリはもう、息を、していない。

「愚かな。ここまで愚かだとは思いませんでしたよ」
 ヒスイが、一歩、おれの方に。
「出来の悪い妹だったけれど、まさかここまで不出来だったとは――」
「ヒスイ」
「なに?」
「それ以上、言うな」
「ん?」
「それ以上、ルリのことを、言うなと言っている」
「ふ、何なのそれは? おまえそれ、泣いているの? ふ、これだから馬鹿は――」

 ヒスイは最後まで言えなかった。
 おれが、言わせなかった。
 おれは跳ぶ。
 くらいつく。
 ヒスイがかわす、が、おれは逃がさない。

「な?」

 ヒスイがうろたえる。血がとぶ。それはヒスイの血だ。
 おれは、おれは、
 おれはこれほど腹が立ったことは、たぶん、ないのではないか。
 おれは、おれは、こいつが、
 この、この、こいつが、にくい。

 肉が裂ける。骨が割れる。
 苦痛にうめくのは、おれではない。ヒスイだ。
 だがおれは逃がさない。
 まだ終わりではない。
 立てヒスイ。立て。まだ終わっていないぞ。
 
 なぜだ。なぜなのだ。こたえろヒスイ。
 妹だろう。妹だったのだろう。
 なぜだ。なぜ笑えるのだ。なぜ愚かなどと笑えるのだ。
 ルリが何をしたのだ。ルリが何をしたというのだ。
 心のまっすぐな、とてもよいムスメだった、ルリは。
 戦など、とてもむいていないのだ。
 なのになのに、おまえらはルリをあちこちつれまわし、
 あちこち、いやがるルリを、つれて、戦とか、そんな、
 ルリが好きでないことを、たくさんやらせて、
 おい、おまえ、

 こたえろ、

 なんなのだそれは。
 そしてなぜおまえは笑うのだ。おまえに笑う資格があるのか。
 なんなのだ。おまえはいったいなんなのだ。
 ルリはルリでありたかったはずだ。
 ルリはルリとして笑いたかったはずだ。
 だがなぜ、こんなことになるのだ。
 ルリは、遊ぶのが好きな、ただのムスメではないか。
 それはヨウコかもしれないが、だが、ヨウコならなんだ。
 ルリはルリだろう。ルリはルリだったのだ。
 なのになぜ、こんな場所つれてきたのだ。
 なぜ、こんなことになるのだ。
 おれはおれはおれは、
 
 だからおれは、おまえがとても、にくい。
 おれはおまえをゆるさない。
 おまえだけはおれは、ゆるさないのだ。
 
 立てヒスイ。
 まだだ。 
 こい、ヒスイ。こい。
 逃げるな。下がるな。
 ヒスイ。
 おれはおまえを、ゆるさない。
 いたいのか。そうなのか。
 だがルリは、もっともっと痛かったはずだ。
 ルリはもっと、苦しかったはずだ。
 こい、ヒスイ。立て。
 ヒスイ。ヒスイ。
 おれはおまえを、にくむ。 
 おれはおれは、おれはおまえが、

「き、きさま、う、ぐ、お、よくもわたくしの体を、」

 よろめきながら、ヒスイがまた後ろに下がる。
 おれは前につめる。
 ヒスイが下がる。おれはつめる。
 ヒスイがおれを見た。緑の目でおれを見た。
 そこにははっきりと、恐れがあった。
 はじめて負けるかもしれない、恐れがあった。
 はじめて自分が死ぬかもしれない、恐れがあった。
 ヒスイは下がった。下がって、

「む、まて!」

 ヒスイはとつぜん背をむけて、雪を蹴って走りだす。
 おれは追う。
 が、足が、すべった。
 おれは雪の上にひざをつく。
 ヒスイの姿が遠ざかる。
 雪の野のむこうに、傷ついた白いヨウコが走ってゆく。
「お、おぼえていなさい」
 一度立ち止まり、ヒスイは吠えた。
「わたくしに恥をかかせたこと、おまえ、死ぬまで後悔させてやります」
「逃げるなヒスイ。こい。おれはまだやるぞ」
 おれは吠えかえす。
 だがヒスイは、ふたたびおれに背をむけ、雪の野のむこうに遠ざかる。やがてその姿は
遠くのヤブの中に消えた。
「おぼえていなさい!」
 声だけが、雪の風にのっておれのもとに届いた。
 やがてもう、なんの音もしなくなる。

 ヒスイは去った。おれはたぶん、おそらく、勝ったのだ。
 おれは負けなかった。
 いや、
 おれひとりでは、おそらく負けていた。
 あのときルリがおれのかわりに牙をうけなければ、
 あのときおれは、やられていたかもしれない。

「ルリ」

 雪の上で動かなくなったルリの体に、おれは、舌でふれた。
 とてもなつかしい、ルリの毛の味がした。ルリのにおいがした。


「ははは、いいざまだな。いや、長生きはするもんだな」

 声。
「あの嬢ちゃんのあんなボロボロなとこ、おれは初めておがませてもらったぜ。ぶはははは、ったくよ、愉快すぎて笑い死にそうだぜ、おいおい、こいつはけっさくだな、なあコハクよ?」
 むこうから近づいてくるあの軽い笑い、あれは、まちがいなく――
「なんだ? そこに倒れてるのはルリか? おいコハクよ、おまえまさか、ルリまでやっちまったのか? おい、そうなのかよ?」

 雪の原のむこうから、半笑いをうかべたクロガネがくる。
 いつものムラサキの着物。ニンゲンのオサムライ姿で、なにかそのへんを散歩するみたいにひょこひょここっちに歩いてくる。
「ほう、いやはや、ルリが逝っちまったか。いや、たまげたなこりゃあ。んでからおまえコハクよ、おまえもボロボロじゃねえか。ちっとばかり、ヒスイに力をつかいすぎたな。まさかそのあとに、本命のこのおれが控えてるとは――」
「だまれ」
 おれは立ちあがり、牙をむく。
「お、おこったのか? なんだこら? やるのか、おら?」
「だまれ」
 おれは、ムラサキの着物にむかって吠えた。
「おれはいま、おまえと話す気持ちではない」
「ああ?」
「いいからだまるのだクロガネ。だまらなければ、おれは、おまえを殺す」
「はははっ。やれんのかよ? そんなボロボロで?」
「もうだまれ」
「なんだ? 本気でやるか? お?」
 
 ぶんっ 

 風をきる音がして、クロガネが、一歩うしろによろめいた。
「お? なんだ?」
 クロガネがおどろいて三歩下がる。
 槍を前にかまえ、クロガネをにらみつけて立つのは――

「サクヤ?」

 おれはおどろいて叫んだ。
 サクヤ?
 サクヤなのか?

「そこにいろコハク。ひどい怪我をしてる。あまり動くな。こいつはあたしがやる」

 サクヤはそう言って、ぎゅ、と、一歩、クロガネの方につめた。
「やめろサクヤ。おまえの勝てる相手ではない」
「いいからコハクはそこにいろ。あたしがやる」
「ほお、こいつはおもしろい」
 クロガネが太刀をぬき、半笑いしながら、中段にかまえた。
「いさましい姫さんだ。このおれとサシでやるってのか。いい度胸してんなあんた」
「だまれ。口数の多い男。こい。こないなら、あたしから行く」
「やめろサクヤ。もどれ」
「ほう。じゃ、おれから行かせてもらうか」

 ブンッ

 太刀が、空をきる。
 そこにもう、サクヤはいない。
「な?」
 うしろだ。
 うしろにまわったサクヤの槍が、クロガネをつく。
「お?」
 ぎりぎりのところでかわした。
 クロガネの頬が切れて、血が雪の上に落ちる。
 サクヤがふみこむ。とてもはやい!
「お? お? お?」
 クロガネが、さがる。
 クロガネが、さらにさがる。

「お、おいおいおい、なんだこれなんだこれ。話がちがうじゃねーか。あ、おい、ちょっとまてよ姫さん。お、くそ、ちっ、」
 クロガネが大きく後ろにとんだ。
 サクヤもとんだ。
 槍がつく。太刀がはらう。
 槍が攻める。攻める。太刀が防ぐ。防ぐ。
 おどろいた。 
 つよい。とても強い。
 あのクロガネが、押されている。

――あたしの槍の腕を知らないのか?

 いつだったかサクヤは言った。そのときおれは笑った。
 だがおれは、どうやら、まちがっていたようだ。
 サクヤの槍は、強い。
 さがりきれなくなったクロガネが、たまらず横に逃げた。

「やるじゃねえか」
 ぷっ、と唾を吐いて、クロガネが太刀を構えなおす。
「こいつは本気でおどろいたぜ。おい姫さん、あんた何者だ?」
「あたしはアケチサクヤだ」
「知ってるぜそりゃ。だがあんた、その身のこなし、その槍は、ただのアケチの――」
 クロガネは最後まで言えず、体をねじってかわした。
 サクヤがふみこむ。攻める。攻める。
「サクヤ」
 おれは跳んで、サクヤのとなりに立つ。
「動くなと言ったろコハク。ひどい怪我だ。足、折れてるんじゃないか?」
 まっすぐクロガネをにらんだまま、サクヤが言った。
「おれも戦うぞ」
「そう? だったら二人でやる?」
 おれは牙をむいてひとつ吠えた。サクヤが槍をふり、とがった先をまっすぐクロガネにむける。

「お、おいおいおい、そいつは反則だろ。ふたりがかりってのは、さすがに卑怯じゃねーか?」
 クロガネが半笑いをうかべる。顔には汗が光っている。
「おいコハク、サシでやらせろ。これはおれと姫さんの――」
「だまれ」
 おれは吠えた。
「もうだまれクロガネ」
「っち、ったく、しょーがねーなこればっかりは」
 太刀をおれにむけ、それからサクヤに向け、
 じりじりと、クロガネが下がる。下がる。

 ざんっ!

 雪が舞った。
 蹴ったのか、雪を。
 一瞬、前が見えなくなる。
 くるはずの一撃にそなえて身構える。
 くる。

 いや、

 雪の粉がまうのをやめて、また見えるようになったとき、
 おれたちの前に、もう、ムラサキの着物はない。
 ずっと遠くの雪の中に、逃げていくムラサキの影が見えた。
 む、
 逃げ足の速い男。
 いつも都合が悪くなるとすぐに逃げる男だが。
 しかし。
 おれはほっとして、体を少しゆるめた。
 息を吸い、息を吸って、
 おれはまた、ニンゲンの姿に戻る。
 右の脚が、折れて、変なほうに曲がっている。
 が、それほど痛むこともない。左足は大丈夫だ。む、これならまだ、足を引きずれば歩けないことはない。

「あいつ、逃げちゃったな」
 サクヤが、おれの前に立っていた。
「無事だったかサクヤ」
「ああ。そしておまえは、あまり無事ではないね」
 サクヤはそう言って、くくっ、と声を殺して笑った。
「しかしおどろいたぞサクヤ」
「なにが?」
「その槍だ。どこで習ったのだ? あれだけのことをできるニンゲンを、おれはあまり知らないのだが――」
「だから言ったろ? あたしの槍の腕はそこそこだって」
「言った。だがしかし――」
「とりあえずわかったろ? アケチの姫が、どれくらい強いかってこと。おまえほどじゃないにしても、あたしもただの、弱いなよなよした女ではないということ」
「む、」
「痛まないか? 大丈夫? ほんとにひどい怪我だ」
「ケガのことは大丈夫だ。サクヤが無事なら、それが何よりだ」
「だけどあの子――」
 サクヤがちらりと、むこうを見た。
 雪の上に、ルリのなきがらがぽつんとひとつあった。
 さらさらと雪が降っていた。雪は、ルリの上にも、さらさらと落ちていた。

「……死んだの?」
「死んだ」
「友達… だったのか?」
「そうだ」
「そう」
「そうだ」
「そう……」 
 そう言ったサクヤの目のはしに、ちいさな涙がうかんだ。
「? どうして泣く? どこか痛いのか? ケガをしたのか?」
「そうじゃないよ。そうじゃない、」
 サクヤは片手で涙をふいた。
「コハク、」
 サクヤは両手をおれの背中にまわし、ぎゅっと力をこめた。
「む、着物が汚れるぞ。いまおれは血だらけだからな」
「いいよそんなのは」
「そうか? それならば良いのだが」
「コハク、おまえは強いね」
「まあな。ヨウコだからなおれは」
「おまえ、強い。ほんとに強い。でもだけど、ああ、なんなのかなこれは」
「なんだ?」
「なんでだ? なぜこんな、戦とか、死ぬとか、そんなのばかりなんだ?」
「それは、いまが、戦の世だからだろう」
「父上も死んだ。おまえの友達も、死んだ」
「そうだ」
「どうして? なぜそんなことになる?」
「さあな。それはおれにもわからない」
「ひどい世だ」
「そうかもしれないな」
「ほんとにひどい世の中だ」
「そうだな」
「コハク」
「なんだ?」
「おまえは死ぬな」
「おれはまだ死なないぞ」
「死ぬな。ぜったいぜったい死ぬな」
「おれはまだ死なないから大丈夫だ。サクヤをワカサに送るまで、おれは死んだりはしないのだ」
「ワカサでも死んだらダメだ」
「では、ワカサでも死なない」
「うん。それでいい。どこにも行くなコハク」
「サクヤの近くにいるぞおれは」
「うん。知ってる」
「サクヤは、おれがまもるのだ。だから大丈夫だ。安心しろ」
「うん。わかった。もうどこにも行くなコハク」
 そのあとサクヤがまた何か言ったが、声が小さくてわからなかった。サクヤはまだ泣いていた。だからおれは、そのあととても長いあいだ、サクヤを抱いていた。やがて雪がまた、強くふりはじめた。

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