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一九二六年 三月十日 果穂子

《気力が保たないとでも云ふのでせうか、普段は気丈を振舞っている果穂子も時折本当に駄目になってしまいます。そんなとき昱子姉様やテイさんに弱音でも吐けると好いのですが、果穂子は甘え方ひとつさへ碌に分からないのです── 》


水はどこまでも透明なのに、多くの人は水を絵に描くとき、何故青い色を使うのか。そんな疑問を昱子に投げかけたことがある。
「この池を見るたび不思議なの。水って透明でしょう。全然色は付いていないでしょう」
小枝で水面を突ついていた昱子は疑問顔でこちらをじっと見た。
「だのにどうして、大体の人の頭の中には“水は青色”と云う概念があるのかしら。学校で絵を描かされるとみんな水のところは青で塗るし、勿論わたくしもそうしたわ。だけど別に深く考えてそうしているわけでは無いの。特に考えているのでもないのに何故青色なのかしら」
どちらかと云うと、絵を描くために突き詰めるならば果穂子にとって水の色は濁りや影も含んで大抵昏い色の印象だったのだ。この金魚池だってそうだ。覗いた水の底は果てしなく暗く、黒色(こくしょく)に近い。
けれども昱子はあっさりと予想外のことを云い放った。
「あら、海は青いじゃない」
その発言に果穂子は息を呑む。そうか、海は青いのか。
「空が映り込んで自然と青く見えるわ」
昱子は持っていた小枝を無造作に放って、面白いことを考えるのね、と果穂子に笑いかけた。生活の中で普段見る水辺が池や川だけで、海をまったく念頭に置いていなかったことに果穂子は漸く気が付く。きっと昱子のこういうところに果穂子は惹かれているのだと思う。同じような歳で同じ地域に住んでいるのに、一つ所に考え方を固定せず、広くて自由な見方が出来る昱子。云いたい事があれば変に遠慮したりせず自分の意見を気持ちよく発する昱子。そんな性格に憧れて、自分もそのようにありたいものだと思った。
病身になって思う。普段の生が、平坦な日々の生活がなんと得難いことか。
ほんの小さな幸せと思っていた事々がなんと大きな幸せだったことか。






微熱や怠さも手伝ってか、こうして休んでばかりの毎日だと今が何日なのか何時なのか、だんだんぼんやりと分からなくなってゆく。現実の世界から、遠のいてゆく。しかも、ひとり布団に潜り込んでいると悪い考えがふと(よぎ)るのだ。
──果穂子はそもそも、だれに必要とされているのだろう。
これは果穂子を掻き乱す呪文として酷く良く効いた。そうすると、病気なぞ何が何でも治そうとしなくとも別段好いような気になってくる。考えてはならぬとは思うのだが、如何してもそちらの思考に強く引かれてしまう。果穂子は布団の中で歯を食いしばって身体を丸めた。そうやってじっと固まって遣り過すのが習慣になった。
けれども生きる意味が判然としなくなるのとは別に、“残したい”という衝動は体が弱っていくにつれ却って果穂子の中で日に日に強くなるのが自分でも不思議なのだった。

金魚邸は蔵と母屋が一つに繋がっている造りだった。勝手場にある、開けにくく重たい木の引き戸から先が蔵になっていて、やや狭くはあったが本邸で使わなくなった家具などをいくつか置くだけの用途なので別段不便はなかった。蔵内の明かり取りはかなり高い所にある小窓のみで薄暗く、いつもどこかしら冷気を纏っている。その中で特に場所を占めているのがマボガニー製の長方形をした大机で、長い辺を下にして裏面が此方側に来るように立て掛けられたそれは蔵の面積の大部分を占めているのだった。果穂子は此処に移されて間もない頃から、その机の裏にこっそり日記を記していた。ただ紙に書いたのではきっと誰かにいつか処分されてしまうという危機感を抱いたのは、無意識に環のことを思い浮かべたからだろうか。テイだけが果穂子のその習慣を承知していて、尚且つ許してくれた。普段は埃除けの大きな布が被さっているので一見しただけでは気付かれない。
苦しさや恐ろしさの分だけ、体力の許す限り果穂子は大机の裏に文字を連ねる。書きたい衝動は病が重くなるにつれいっそう熱を帯び加速してゆく。テイがあんまり心配して止めることもあったが、構わなかった。そうしないと居られなかった。あの八木重吉という詩人の詩のように、残すことだけが果穂子に与えられた使命のように思われたのだ。そうしてそれと同時に、ここまでして残した果穂子の生きた証を誰が守ってくれるのだろうと不安にもなった。
──留根千代。
もう逢うことの叶わない瞼の裏のその面影を追う。留根千代なら、果穂子のことを覚えて、一緒に果穂子を連れて行ってくれるかしらん。
留根千代は自由だ。果穂子と違って、望めばなんでも出来る。何にでもなれる。
果穂子にはもう留根千代の他いない。他の人は頼れない。留根千代。いとしい留根千代。わたくしを忘れないで。わたくしを死なせないで。死んでなんにも無くなってしまうのはどうしても嫌なの。肉体的な辛さより、そちらの方が(こた)えるの。
──かあさまもこんな事を思われたのかしら。
ふとそんな事を思う。臨終の間際、あなたはどうやって耐えていたのですか。あなたが縋った救いは何でしたか。そしてあなたに、残せたものはあったのですか。







もうずっと昱子の顔を見ていない。とは云っても彼女は此処へ相変わらず訪ねて来てくれる。昱子は襖の向こうで声だけ掛けて、果穂子の体調の良い時だけ他愛もないお喋りを幾らかしては帰ってゆく。
昱子の心遣いは嬉しかった。しかし、テイから聞くところによると、昱子は父親から金魚邸への訪問をいよいよ強く反対されているのらしい。彼女のことだから大いに反発しているに違いないが。
結核と診断されてから、果穂子の体の調子は良くなったり悪くなったりの繰り返しである。気分が良くて外に出られるときもあれば、熱が下がらず何日も寝込むこともある。最近では喀血も何度かある。罹ってから一年半近く、一向に好くなる気配がない。一通りの治療や対策は試みたが、おそらく治りはしないのだろう。同じ病であったかあさまを見ていたから分かる。TB(テーベー)は不治の病なのである。
──何時(いつ)までもこんな事ではいけない。
昱子姉様は、未来のあるお方だから。感染でもして果穂子のような思いなど決してして欲しくはないから。


寝床を替えて貰ったばかりの布団に横たわると、白い敷布の上に果穂子の下ろしっぱなしの黒い髪がパッと広がった。それは艶々と生命力に溢れ、日毎(ひごと)に弱ってゆく果穂子とはまるきりの対象をなして豊かに輝くのだった。
果穂子はテイの視線に気がつくと出来るだけ穏やかに微笑み、それからふと気づいて廊下の引き戸から見える庭に視線を移した。
「山茱萸の花、」
布団から青白くしなびた手を出して外を指差す。
「もう咲いているのね」
くすんだ枝先にやわらかな黄色がちらほらと灯っていた。山茱萸は、春一番に咲く花。これが咲いたあと他の木々が一斉に花ひらく。
「桜は見られるかしらね」
「ご覧になれますでしょう、それは」
テイは質問の意味を確認することもせず何でもないことのように返した。口周りを手拭いで覆っているので表情が分からない。
「テイさん」
呼ばれた彼女は花瓶の底の水滴を拭いながら何ですかと応じる。
「わたくし、もう昱子姉様に此処には来ないでと云うわ」
束の間、テイの手が止まる。止まったのはそのひと時だけで、再び仕事を再開し始めた。
「──そうですか」
暫し沈黙が訪れる。では、と云ってそのままテイが出て行こうとするので果穂子は起き上がって彼女の背に問いを掛ける。
「テイさんは怖くはないの。ずっとわたくしの世話をされて。テイさんまで感染されたら──」
「お嬢様」
思いの外強い声に、果穂子は黙った。
「わたくしはわたくしのやりたいようにやっているのです。なに、婆ですからこの歳になってそれ程恐ろしいものなんて大してありはしませんよ」
言葉を継げない果穂子にテイは言い添える。
「果穂子お嬢様ももっと気持ちを強くお持ちなさいませ。大丈夫ですから」
そう云ってテイは半分隠れた顔のままにっこりと笑い顔になった。
果穂子は薄情な娘だ。テイにはそのまま居てもらう癖に、昱子の方は捨てるのだ。与えて貰った愛情や友情に対して何も返せてはいないのに、一方的に捨てるのだ。



もうやめて欲しいの、と午後に訪ねてきた昱子に切り出したとき、果穂子は声の震えを抑えるのに大変苦労した。襖一枚隔てて二人の距離はおそらく頭一つ分も開いていないだろう。襖に寄り添って果穂子は続ける。
「中途半端に優しくして頂いても、困るだけなの。傷付くの」
「何を仰ってるの」
昱子は困惑した声音で返した。
「全然意味が分からないわ」
「では、後腐れないようにハッキリ云うわ。もう此処には来ないで頂きたいの。御免なさい、今までありがとう」
出来るだけ明瞭に、出来るだけ冷たい響きになるようにそう告げる。しかしこの程度で容易く折れる昱子でないことは果穂子も知っていた。
「あなた、我儘よ」
昱子はピシャリと返す。
「あなたが何を考えているか知れないけれど、ご自分の考えだけで勝手に結論を出して、他の人に黙って従ってくださいと云うのは傲慢なのではなくて」
果穂子さんはわたくしの気持ちを考えたことがお有り、昱子の声は普段より低かった。時折深呼吸のような息遣いが聞こえる。怒っている。
「果穂子さんがどう思われているか知れないけれど、わたくしは」
「どうせわたくしたちは遅かれ早かれ離れてしまうのよ」
感情を含めぬように、気持ちを空にするように、それだけに集中して果穂子は声を出す。
「それが現実よ。ずっと今のままがいいって、わたくしと一緒がいいって前に昱子姉様は仰ったけれど、そんなの綺麗事でしょう。じきに昱子姉様もお嫁に行かれて今のままではいられなくなるのだわ。その前にもしわたくしの病気が感染(うつ)ったりしたらどうするの。お家同士の揉め事になるわ。そんなのは嫌よ」
「果穂子さんあなた変よ! どうしてそんな風に考えるの」
「説明したって無駄だもの。誰からも愛されて育った昱子姉様には分からないことよ」
その一言が昱子には効いたようだった。昱子には分からない。昱子には果穂子と心を通じあわせることなど出来ない。親友などではない。果穂子はそう云ったも同然だった。襖の向こうでは暫く沈黙が続き、やがて洟をすする音が聞こえた。
「──馬鹿よ」
馬鹿よ、昱子は()さい()のような泣き声で只々そう繰り返した。
「果穂子さんは、馬鹿よ」



昱子が帰ってから果穂子は身体中の力をすっかり失った。
襖にもたれたまま布団に戻ることすら出来ずに、ボンヤリと廊下を隔てる障子の枠を見つめる。果穂子は昱子を一体どれ程傷付けただろう。どれだけ非道いことをしたのだろう。けれど、ここまで強引でないと果穂子は流されてしまいそうだった。自分の感情と、昱子の優しさとに。けれどきっと、この別れかたは模範的とはとてもいえないものだっただろう。恐らく果穂子のやり方は色々正しくなかった。間違ったことをした。あれほどしてくれた昱子の心を滅茶滅茶に傷付けた。
ほんとうはもっと美しくて、もっと優しい別れ方をしたかった。
──あなた、我儘よ。
──果穂子さんは馬鹿よ。
その通りで云い訳も出来ない。自分の方がずっと非道いことを云ったのに、こんなありきたりの言葉に傷付くなんて、笑ってしまう。
──もう会えない。
今更その現実がズシンと重くて、急に死への恐怖が濃くなって、いつのまにか頰に涙が伝っていた。
テイが廊下側からやって来て、そっと声を掛けて障子を開ける。
「あんまり上手な断り方では御座いませんでしたね」
歯に絹着せぬテイの物言いに果穂子は不意を突かれて笑う。ほんとね、と云った弾みに新しい涙がもうふた粒零れて落ちた。
「わたくし、ちっとも分かっていなかったの。人をわざと傷付けるのは辛いわ。独りは怖いわ。死ぬのも怖いわ」
泣き顔を見られて気が抜けた。決して吐くまいと思っていた弱音も思わず漏れる。
「わたくし、大人にもなれずに死ぬのかしら」
昱子を苦しめたままで。たった独りきりで。
まだ、全然。
わたくしは全然。
一人前でもなく、生きている意味も全然なにも残せてはいないのに。
「──大人なぞ居ないのです。本当は誰もが大人にもなれずに死ぬのです」
その場に座ったままぽつりと穏やかに、テイは応えた。
「きっと誰もがそうで御座いましょ。わたくしだってこんな婆ですけれど、心はずっと娘のままなのですから」
「そうなの──」
果穂子は縋るようにテイを見つめた。何の答えにも、解決にもなってはいなかったけれど、それでも果穂子の奥の方の何かが少し満たされる心地がした。




昱子の夢を見た。夢の中の昱子はなぜだかいっそう綺麗だった。果穂子が冷たく突き放したことも果穂子の病気も無かったことなっていて、仲良さげに二人して何処かを歩いている。
昱子の薄桃色のワンピースは強風ではためき、フレアのスカートが緩やかにひらめく。果穂子の赤い着物も落ち着き無く揺れている。
──金魚みたい。
揃いのリボンや帯は背びれ、そしてスカートの裾や着物の袖は尾のように。昱子は風を楽しむかのようにクルクルと回る。
──ねえ。果穂子さん。
昱子の声が水の中みたいにぼんやりと耳に響く。
──知っていらっしゃる? 永遠を願うことは我儘なんかではないの。歳を取りたくないって云う気持ちもよ。

──────────

何処かで聞いた言葉で目が覚めて、次に自分が涙を流していたことに驚く。心臓がわくわくと落ち着かない。果穂子は床から起き上がった。外は春の嵐なのか、先ほど見た夢のように風が唸っている。
居ても立っても居られず、果穂子は灯りを点けて久し振りに文机に向かった。そうして便箋を取り出して貪るように筆を執る。書き始めるともう止まらなく、取り憑かれるように筆を走らせた。


昱子姉様へ
こんなに長い間一緒に過ごしてきたのに、これがわたくしから昱子姉様への最初のお手紙です。
わたくし達が初めてお会いしたときを覚えておられるでせうか。まだお邸に来たばかりで緊張し通しだった果穂子に、昱子姉様は妹が出来たみたいと云つて受け入れて下さいました。あたりまへのやうに手を繋いでくだすつて、亡くしたかあさまに手を握られてゐるやうでした。それがどんなに嬉しかつたか知れません。
思えば、果穂子はいつも受け身ばかりでした。みんな昱子姉様にして頂いて成立するものばかり。いつか恩返しが出来ればとずつと思つてゐたけれど、それが叶わず申し訳も御座いません。却つてあの日、昱子姉様を酷く傷付けてしまつたこと、本当に御免なさい。

いつかわたくしに永遠のお話をしてくだすったことを憶えておられるでせうか。
永遠を願う事は我儘ではないのよ、と貴女はわたくしに教へて下さいました。近ごろのわたくしにはようやつとその言葉が深く染み入ります。
わたくしが望むのは、永遠に残る証です。
佐伯果穂子がこの場所この時に生きていたといふ、存在の証が欲しいのです。

死とは一体何なのでせう。死とは、生き返らないもののことを呼ぶのせうか。もしもそうならば、果穂子はきつと生き返つてみせます。そうしたら、死んだことにはならないのでせう。
ですから、わたくしのことで悲しまないで。わたくしのことを忘れないで。でも、もしもお辛くなるのならわたくしの事はわすれてくださいな。そうしてどうか御幸せになつて。いつか素敵な結婚をなさつてください。可愛いあかんぼを生んでください。

昱子姉様はわたくしの宝石のやうな方でした。貴重で、憧れで、お会ひするたび魅了されるのでした。貴女と居ると、わたくしまでもがなにか素敵な人間に思へてきて夢のやうなのでした。
頂いたリボンと御写真と、あの日の二人だけのパーティはずつとわたくしの一番の宝物だつたのよ。
貴女のようなお方は他にはいらっしゃいません。

昱子姉様、大好き。







大好き。

──果穂子より


胸に鉛が詰まったようだった。
書くだけ書いたその手紙を果穂子は畳んで、畳んで、畳んで、畳んで、最後に手の中できゅっと握り締めて緩めた手から滑らせてくずかごの中にそっと落とした。

しおり