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36.杯を上げよ

 目が覚めると既に吉岡は起きていてネット検索の真っ最中だった。
「おはようございます。風呂が沸いてるから入ってきたらどうですか?」
昨晩は家に帰るなり離婚話になり、そのまま家を飛び出してきたから風呂にも入っていない。
異世界での日数も合わせるともう一週間も風呂無しだ。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
風呂に入ってさっぱりすると、朝食が用意されていた。
ミネストローネとポーチドエッグ、オリーブの入ったフォカッチャ(平たいパン)などが並んでいる。
「ここはイタリアか!」
俺が突っ込んだらカプチーノまで出てきやがった。
相変わらずマメだよね。
「次は吉岡と結婚しようかな」
「バカなこと言ってないで食べて下さい」
絵美のいるマンションに住むわけにはいかないので当面は吉岡の家に引っ越させてもらうことになった。月曜日になったら転出転入届を出しに行くのだ。
結婚はしないけどとりあえず同棲は決定だな。
なるべく早く出て行くからそれまでよろしく頼む。
今夜は黄金の指(ゴールドフィンガー)で癒してあげるからね。
いざとなったら自動車の中でも平気で暮らせるタイプなので、あんまり深刻には考えていない。
どうせ日本にいる間は買い物くらいしかしないだろう。
自動車は近くのコインパーキングに停めてある。
精神的痛手が残っているらしく食欲はあまりなかったが、せっかく用意してくれた吉岡に気をつかって全部腹におさめた。
「吉岡」
「どうしたんですか?」
「ありがとな」
礼の言葉に吉岡はただ微笑んで見せるだけだった。


 ザクセンス王国では派手で細密な絵柄がこのまれるようだ。
伯爵家の人たちもそういった意匠に心惹かれていた。
それを踏まえた上で傾向と対策を練って商品を仕入れていく。
1脚14万円のカップ&ソーサーか。
12掛けで168万マルケス……。
本当に売れるのだろうか?
「大丈夫ですって。キリがいいから170万マルケスで提示しちゃいましょう」
人見知りの癖に値段をつける時は強気なんだよね君は。
どうにも気力の湧かない俺は、吉岡に流されるように500万円分の買い物をした。
それにしても現金で高額商品をいくつも買うのって大変だと思う。
100万円の束はポケットに入れにくい。
いつかはクレジットカードの最高峰、ブラックカードが欲しいものだ。
きっとお買い物が楽になるだろう。

 銀座の街中に立って召喚時間を待っていた。
次回も買い物をする予定なので高級店が集まるこの地域にいる方が便利だと思ったからだ。
だけど、銀座のど真ん中でガソリン携行缶を両手にぶら下げた俺は周囲から浮きまくっていた。
このままだとお巡りさんに職務質問されそうだ。
だって空間収納に入りきらなかったんだもん! 
それに万が一商品にガソリンが付いたら大変だもんね。
「あと3分です。それまで我慢してくださいよ」
「うん」
でもそんな俺を注目する人はほとんどいない。
都会の人はいい意味で冷たかった。
母ちゃん、やっぱり俺、都会さ馴染めないかも。
久しぶりに郷里の山形へ帰りたくなった。
あ、でも俺の母親は京都出身なんだよね。
父親は長野県出身だし……。
そして俺は山形出身のザクセン王国人になる予定なのだ。


 狭間の小部屋でガソリン缶を床に下した。
旅の邪魔になるので一つはこの場所にストックしておくつもりだ。
エンジンオイルなども部屋の隅に置いておく。
もしダメならイケメンさんに注意されると思うんだけど、今日も現れない。
さて今日もちゃっちゃとスキルカードをひきますか!

スキル名 植物図鑑 入門編
ユラセア大陸でよく見かける植物500種の知識を得る。
わかりやすい写真と図解で丁寧に解説します。
このスキルでフィールドワークに乗り出そう!

 嫌いじゃない。
元々アウトドアが好きで植物図鑑は何冊も持っている。
離婚に際して家から持ち出した本の中にも数冊あるくらいだ。
でもあちらの世界の植物って地球上のそれととてもよく似ている。
これまで何種類かの野菜を食べてきたけど、ジャガイモもニンジンも玉ねぎも品種は違うようだったが基本的には一緒だった。
俺の知らない野菜もあったがグルメ吉岡によると外国で普通に栽培されているものと一緒だそうだ。
「植物図鑑ですか。先輩が好きそうですよね」
「うん。食べられる植物とか薬用になる植物とかも載ってるよ。毒の原料とかもあるな」
フィーネは狩りの時に痺れ薬を矢に塗るそうだが、その原料になる植物も記載されていた。
ちょっと面白い。
ぜひ入門編以降のシリーズも揃えたいものだ。



 訓練用の槍が鎧の胸を突き、コウタは大きく後ろに倒れた。
戦場だったら致命傷を負っていただろう。
「どうした? 随分と注意散漫だぞ」
「申し訳ありません」
本当にどうしたというのだ。
今日のコウタは全く訓練に集中できていない。
普段は何事も真面目に取り組む男が心ここにあらずといった感じだった。
「今日はもう止めだ! 気持ちが乱れたまま続けても怪我をするだけだからな」
私は厳しく言い放つ。
「はい」
な、なんだその悲しそうな顔は。
私が悪いのか? 
それとも誰かに何かをされたのか? 
言葉と態度は厳しくしたが、心の中では激しく動揺してしまっている。
かつて私が飼っていた愛犬のヴォルケを思い出した。
あの子が父上に激しく叱られた時にもあんな顔をしていた。
心が傷ついて鼻の横が円形に禿げてしまったくらいだ。
コウタは大丈夫だろうか。
禿げたりはしないよな?
……とっても心配だ。
「クララ様、お話があります」
「どうしたアキト」
コウタが去ったのを見計らってアキトがやってきた。
「実は……」
アキトが知っていることを全て話してくれた。
……。
…………。
………………。
どうすればいいのだ。
卑劣なこととわかっていながら私の心が喜びに染まっていく。
これでは悲しんでいるコウタに失礼だ。
だが、私は私の気持を抑える術が分からなかった。
そう、私はコウタを愛しているのだ。
心の中で初めてはっきりと言葉にした瞬間から、その思いは加速度的に膨れ上がっていく。
だが騎士として、エッバベルクの領主として、せめて自分の行動だけはきちんと抑制しなければ。
たとえコウタが独り身になったところで私を愛してくれるわけではないのだ。
もし、二人が惹かれ合ったとしても……私たちは結ばれることはないだろう。
私には貴族としての責務があるのだ。
いつかはしかるべき婿を取り、アンスバッハの家を存続させていく責務が。
そしてエッバベルクの領民たちが安心して暮らせるように、この身を捧げていくのだ。
だから、この愛は私の内に秘めて決して外に出してはならないものだ。
身勝手だとは思う。
決して結ばれえぬ男が誰のものにもならないことを喜んでいるのだから。
こんな醜い心は外に出してはならない
いっそ心に鎧を着せてしまおう。
どうせ私は騎士なのだから……。


「きょ、今日はブリッツの休息日だ……ワインでも飲もうではないか」
昼食の席で突然クララ様が言い出した。
クララ様はワインが好きなのは知っているが昼間に飲むのは珍しい。
でもブリッツのお休みとワインは何の関係もないと思うんだけど。
「そ、そうですね。私もいただいてよろしいですか?」
「遠慮しないでフィーネも飲みなさい。コウタも飲むといい」
なんか会話がぎこちないな。
二人の会話があらかじめ決められたセリフに聞こえる。
「どうしたんだろ?」
コッソリと吉岡に聞いてみた。
「多分、先輩を励まそうとしているんですよ」
ああ、そういうことか。
吉岡から話してくれたのね。
「ええと、もうご存知みたいですね。吉岡からお聞きになったと思いますが、このたび妻との間に離婚が成立いたしまして独身に戻りました」
場が静まり返る。
かえって緊張してしまうではないか。
「コウタ、それは私のせいなのか? 私がお主を長く側にとどめ置いたせいで……」
クララ様が心配そうに聞いてくる。
「違います」
即座に否定した。
「もっと前に、多分クララ様と出合うずっと前に俺たちの関係は終わっていたんです」
喋っている内になんかスッキリしてきたぞ。
「で、ワインを戴けるんですか?」
「う、あ、ああ! もちろんだとも」
俺が笑いかけるとクララ様はびっくりした様なお顔をされた。
「ではご主人様のご厚情に甘えるとしましょうか」
今日は昼からクララ様がワインを振舞ってくれた。
気が付けばこの酸味の強いワインにもだいぶ慣れてきている。
その国の環境に馴染んでいくことを「水に慣れる」なんて表現するけど、俺にとってそれはワインなのかもしれない。

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