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湧水の道⑤

「今から5年ほど前のことを覚えておるか?」

「……いや」

随分と引き延ばされイライラしていたのもあり、ぶっきらぼうな答え方になってしまう。
しかし、この爺は表情を崩すことなく、僕を見つめる。
「10秒か、15秒ほど目が合うと、相手に一目惚れをしたと錯覚させることができる」とイーアンにいた頃に読んだ心理小説に書いてあったのを思い出す。そしてすぐに目線をそらし、天井をチラッと見上げる。
この爺に一目惚れをするのは御免だ。されるのはもっと御免だ。

僕の否定の言葉に、爺は隣に控えている女の人にまた相談する。
何を喋っているのかは分からない。口元もうまく手で隠されており、大体の内容さえも掴めない。
おそらく、ラウアとの関係あたりを探っているのかもしれない。もしかしたら、ラウアのお気に入りだからと、ロヴェルに引き戻されるのかもしれない。
それだけは遠慮願いたい……というよりは、このギルドを壊してでも遠くへ逃げるだろう。

「君は……君が過去になにをやっていたか、覚えておるか?」

「過去に……? いや、分からない」

昔のことなど記憶にない。壮絶なものだったのだろうが、記憶には刻まれていない。
過去と言ってもまだ子供だ。……いまも子供だが、それでも過去になにかをやったとはいっても、家業があるならその手伝いだろうし、それ以外ならやんちゃをしたことだろうか。どちらにせよ、分からないことには変わらない。
覚えていないものだから、ここで「お前はこんなことをやっていたんだ!」と言われても納得する気はない。

話は変わるが、さっきから妙に引っかかる……。なにかを忘れている気がする……。

「君の昔のことだが……」

いまは昼。今朝はいろいろあって頭の回転が悪かった。
いつもは絶対忘れない日課。ここに着いて、宿に泊まっているから忘れてしまうこと。
そうだ。
馬への餌やりを忘れていた!

重大なミスだ。こんな時間の取られる昔話なんかより、相棒に餌を与える方がよっぽど大切だ。
あとからお咎めがくるかもしれないが、そんなことを気にしている暇はない。
あの相棒に離れられてしまっては、もう移動手段がない。

「朝食を忘れていた。 帰るっ!」

「おっ、おい!」

いきおいよく扉をあけ、ギルドの一階まで駆け下りる。一段一段下りるのは面倒だ。踊り場までいっきに飛び降り、短縮する。
ギルドの外へと飛び出し、桟橋へ駆け寄る。

「急いでっ! 宿に!」

「は、はいぃ!」

必死な形相に驚いたのだろうか、舵手は桟橋を思いっきりおし、いきおいよく船を水路へと押し出す。
そして舵手2人で、必死に漕ぎ、普通では考えられない速度で水路を漕ぎぬけていく。
風も強く吹き付け、フードが靡く。
この時ばかりは優雅に景色を眺めている暇もなく、とにかく舵手に「もっと、もっと」と焦らせることしか出来なかった。

□■□■□■□

「おいおい、あんな速度で飛ばしおって……。底の汚れが巻き上がって汚くなったりはせんだろうな?」

窓際にたち、後ろに控える秘書へ文句をつけるように話す。

「レウアは……失礼しました。この街の水路は一つの神聖な湧き水によってもたらされたものでございます。そもそも汚れなんて存在しなかと存じ上げます」

「ほっほ、そうだったな。……少し非礼が過ぎたか」

「あの方はお気づきになられていない……。名に対しては非礼ですが、あの方にはまだ非礼とは言えないでしょう。それで機会を逃しましたが、追わなくてよろしいのですか? すでに衛兵も揃えておりますが」

扉から数名の衛兵が入ってきて、秘書の後ろで膝をつく。私の指示を静かに待っている。

「……追わなくてよい。もし思い出されたときに、兵を向ければ解雇されかねないからのぉ……。この大きな街を抱える管理人であっても、あの街組合総司令官どのには逆らえんからな」

「齢、幼きにして、全てをまとめ上げた小さき王。腐れ切った街組合を立て直し、全てが終わった時に攫われた……と。たった数年前の話ですが、あの方は忘れられてしまったのですね」

「そうだ……。誘拐した家には男女が1組。すでに刑は執行されておるのだったな」

「はい、2人はいま土の下におります」

攫われて3年が経ったころ、ついに街組合総司令官直属、つまりナギどのの直属の親衛隊が、さらわれた先を発見した。随分と時間がかかったのは、足取りがつかめるような証拠が各地に散乱しており、どれが正しい痕跡なのかを把握する手間が膨大だったからだ。
その家の一部屋。明かりは付けられていないが、窓が少し開けられた部屋。
その部屋の中に1人の少年がいるのを親衛隊が遠くから望遠鏡で気づいた。総司令官のいない現状、街組合のトップはナギどのの補佐官が務めていた。
しかし補佐官は親衛隊に同行しておらず、突撃の指令を受けるには最低3日はかかる。早馬を出し、指令を請うたが、遅かった。

指令の届いた日、部屋の窓はいつものように開いていたが、誰もいないようだった。
念のため、家に突撃し、あの男女を捕まえたが問題の部屋にはやはり誰もいなかった。警戒中に人影が見えたと言っていた隊員もいたようだが、肉眼ではなにかを判別することが出来ず、迷いの末追うことはしなかった。
おそらくその人影がナギどのだったのだろうが、いまそれを悔やんでも仕方がない。

「ヨナからの通行履歴は届いていないのか?」

「えぇ、明日届くと思われます。ロヴェルのラウア様からは頂いておりまして、通過していることはご存知かと思われますが、わたくしめの対応が遅く、関門で止めることが出来ませんでした。不甲斐ないです」

「構わん。……それに今は静かに旅人として生きておるんだろう? しばらくは好きにさせてやらんか?」

「ですがっ……。いえ、レウア様が仰るならば」

「迷惑かけるのぉ。じゃが、ナギどのに伝えても信用はしてもらえん。それなら記憶を取り戻した段階でまた呼び寄せればよい。あの方は総司令官としての職務を嫌がるような方ではない。いずれ戻ってくる」

「はい。分かりました……。組合に伝えますか?」

「そうだな。任せた」

「かしこまりました。提案を通達しておきます」

あの方が本当に記憶を無くしてしまわれているのかは分からない。しかし、もし忘れていないのならば、あの方は必ず戻ってこられる。
それまでは我慢だ。
組合の方には立派に生きておられると方向しよう。そして、あの方が自ら思い出し、自らの意志で、自らの今後を決めて頂こう。
そこに我々が関与するのは、あの方の生き方を否定するも同然だ。

さぁ、まだ仕事は残っている。
今日はなんだか、捗りそうだ。

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