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一九二五年 八月ニ十一日 果穂子

《かあさまはご覧と云ひ乍らわたくしの眼の前にその金魚を差し出して下さつたけれど、幼かつたわたくしはもう(こは)くて夢中でイヤイヤと首を振るばかりなのだつた。そんな様子(やうす)をご覧になつて、かあさまはおかしさふにお笑ひになつて居られた──》

つるつると流れる水の音が耳に心地好かった。

湯船で聞く音と似ている。ほんの幼い頃かあさまと通った銭湯のことを思い出す。
お湯から上がったばかりのかあさまの上気したお顔は、まるで金魚の『さくら』のようで、いっそう少女めいて見えて、お化粧を施されたときよりずっとお美しい。そんな内容を幼い語彙でかあさまにお伝えしたことがあったけれど、かあさまは可笑しなお話でも聞いたように屈託無くお笑いになっただけだった。
帰りの道中歩くときは必ずふっくりと白い手指で果穂子の手を包んで下さって、もう片方の手に持ったお風呂の道具を揺らしながら、ほうら果穂子さん、虫が鳴いていますよ、あれはきっとコオロギね、などといつでも楽しそうにしておられた。
かあさまは、幸せな方なのだと思っていた。日頃よりご自分でもそう仰っておられた。かあさまは果穂子さんと一緒だから迚も幸せなのよ、ありがたいことね、と。
果穂子はいつも歩きながら見上げるかあさまの綺麗に結い上げられた長い髪が羨ましくて、かあさまのお風呂上りのなんてことのない絣の浴衣が憧れで、自分の髪もあのように早く伸びるように願い、大きくなったらかあさまの浴衣をいただく約束を取り付けた。

苔むした岩の間を縫うように流れる小川を通じてつるつると新しい水が常に入り込んで来るので、この池は淀むことがない。古い水は別の箇所から排出されて、常に少しずつ循環している。金魚たちは、あるものは素早く、あるものはちまちまと思い思いに池の中を巡っている。
夏は金魚の季節だ。あまり暑さが続くと弱ったりもするけれど、他の季節にも(まさ)って金魚たちは夏の空や風景によく映える。住処や環境を変えるのならば体力のある夏の終わりか秋が良いのだと、いつか父が云っていたように思う。それに、金魚売りが出歩くのも、お祭りの金魚すくいも、この季節だ。
かあさまとお祭りで初めて金魚すくいをしたのはたしか四つの頃のはずだ。
よく分からぬまま針金で出来たぽいを握らされて、かあさまや他の知らない大人たちに何やらわあわあ急かされて、桶の中の赤いちろりと動く変なものを指差されるのだけれど、果穂子は何が何やら訳が分からず口を固く結んで不機嫌になってしまった。
かあさまが手を引いて桶に近づけてくださったとき、果穂子はその赤いのが怖くてとうとう大声で泣きだした。
かあさまは果穂子を(なだ)めるのに回り、困ったようにお笑いになりながら(しゃが)み込んで頭を撫ぜる。果穂子はかあさまの着物の胸元に涙や鼻水をべったり付けながらしがみ付き、もうひとしきり泣いて不服を訴えたのだった。
その後、かあさまが果穂子に金魚すくいをしているところを見せて下さって、かあさまも見ている果穂子もおっかなびっくり、四苦八苦のすえ金魚を一匹だけ掬い上げることに成功した。
「果穂子さん良おく御覧なさいな。可愛らしいのよ」
帰り道、掬い取った金魚の容れ物を大事そうに手のひらに包んでかあさまは云う。
「ほうら、ご覧。ほうら」
かあさまは嬉しそうに、果穂子からもよく見えるよう容れ物をこちらに近づけてくださったのだけれど、果穂子には金魚の心臓そのもののような腹の動きが得体も知れなく思えてどうしても恐ろしく、かあさまの後ろに回って藍染の着物にしがみ付いた。
(うごめ)く、蠢く、
紅い紅い金魚。
「なあに、そんなに怖がって」
と、かあさまは笑った。

成長に伴って果穂子も金魚の魅力を知るようになった。母が何度も「ご覧」と促されたのも今なら分かるように思う。池の(ほと)りの沙羅の木陰で涼みながら、水音と金魚たちの色彩とを愉しむ。
庭に次々と白い花を咲かせては落としていく沙羅の木は、この季節には夏椿と呼ぶのが相応しい。完成された花の形ごと池面にも落ちるので、さながら金魚池を引き立てる装飾のようになる。だから果穂子は毎日の庭掃除の際に、池に落ちたものだけは形の良いものをわざと二つ三つ残したままにしている。繊細で軽やかなつくりの薄い尾と、ぬめって光る腹部。赤や墨色、浅葱に薄桜(うすざくら)紅緋(べにひ)色の金魚たち。対して夏椿はしっとりと肉厚の質感で艶のない純白色なので互いが互いを引き立てて見目が良い。
あの後、母は金魚をどうされたのだったか。金魚鉢に入れたのだったか、白い広口の器の方だったか。もう思い出せない。本人にお訊きすることも出来ない。ご自分が掬ってきた金魚より先にお亡くなりになってしまうなど、そんなおかしな話があるだろうか。父が母を放って置かないで、もっとお身体のあんばいなど細やかに気遣って下さっていれば今もお元気でおられただろうか。
母は幸せな方なのだと思っていた。
けれどあの方は呆気なく死んでしまった。
病がいよいよ重くなった頃、そのときから果穂子の世話をしてくれたテイに連れられて久方振りに面会の許可が出た母に会いに行った。母の弱った姿は不思議と憶えていない。病室の風景も、匂いも気候も色彩も記憶に無い。ただ、その時の母の言葉は(そら)んじることが出来るほど一字一句耳に残っている。
気高く生きなさいと母は云った。
笑顔でいなさい、背中をしゃんと張って出来るだけ美しく装いなさい。そうすれば惨めにならずにいられるから。自分は幸せだと、事あるたびに口に出しなさい。
それから、かあさまが果穂子さんをずっと愛していることを片時も忘れては駄目よ。
母はその後しばらくして亡くなられたのだったか。お葬式の時の様子はどんなだったか。これも不思議と思い出せない。
果穂子は瞼を閉じる。うっすらと汗ばんだ首筋に心地良く当たる夏風と。さらさら揺れる木の葉とつるつる淀まぬ水音と。口角を上げて、唇を動かして唱える。
──果穂子は幸せです。果穂子は幸せです。
果穂子は、出来る限り母の教えを守っている。

瞼を開けて池の夏椿に目を遣ったとき、果穂子は違和感を覚えて目を凝らした。
違和感の正体が分かると、自分で自分の血の気が引いてゆくのが分かった。不安に駆られた果穂子は堪らずすっくと立ち上がる。そうして一目散に邸の方に駆けてゆき、縁側に膝をついて奥の部屋に向かって声を張る。
「テイさん! テイさん! 」
テイは前掛けで手を拭きながら何事かとやって来た。果穂子はテイが縁側に置かれた履物を履くのももどかしく、来て、来て、と彼女の手を引いて金魚池まで引っ張っていった。
「何です、そんなに急かされて」
「──あれなの」
果穂子は先程の夏椿を指差す。
「あの子、さっきからずっとああしているの。平気だと思われる? 何かした方が──そう、塩水浴でもさせた方が宜しいかしら」
夏椿の陰で、小さな素赤の金魚が一匹、水から顔を出して小さな口をぱくぱくさせていた。テイは一瞬きょとんとして、それから果穂子の方に向き直った。あらあら、テイはのんびりと笑ってから、
「お嬢様は心配性ですこと」
とひとこと云って宥めるように果穂子の腕に触れる。不安の残る果穂子の目を見返してテイは続けた。
「あれくらいなら大丈夫でしょう、元々生命力の強い種ですし、下手に弄らないで二、三日そっとしておけばすっかり元気になっていると思いますよ」







「具合が悪いの? 」
学校が終わってやって来た昱子は折り畳んだ体を傾けて池の陰を覗き込む。少しね、果穂子は昱子の様子を眺めながら頷いた。
「鼻上げといって、しょっちゅう水の上に顔を出して息継ぎをしていたの。弱っているとよくやるのよ。夏の疲れかも知れないわ」
「金魚にもそういう事があるのね」
昱子は物珍しそうに池を見渡す。今年の春から導入されたという女学校の制服のセーラーカラーの濃い色と直線は昱子の華奢な首を縁取って強調させる。身頃が白い綿布で出来た夏服は、袖も襟も時折ハタハタと風に煽られて涼しげだ。
「よくお気付きになられたわね」
あんなにちいさいのに、と昱子が感心するので果穂子は笑った。
「だって、ご存知でしょう。大事なの。だから目がいくのね」
「そう」
昱子は了承したように僅か笑って、すぐに良くなるといいわね、とスカートの襞を広げてなめらかに立ち上がった。
「さっきよく見て気付いたのだけれど」
続けて立ち上がる果穂子に昱子は声を掛けた。
天頂眼(てんちょうがん)って、思ったより体がふっくりしているのね」
果穂子は思わず目を(しばた)かせた。
「上から見るばかりだったし、ほら、あんまり眼が主張するものだから」
「──前からそんなに金魚にお詳しかった? 」
昱子は思い切りの良い笑顔を見せた。
「だって、果穂子さんがあんまりお好きなものだから、覚えてしまうもの」
果穂子は息を詰めていっそう昱子を見つめた。
「ほら、あの子は蘭鋳、あの子は琉金、今弱っている子は和金……」
うたうように云って指差しながら昱子は金魚の種を当ててみせる。果穂子はうっかり溢れそうな涙を堪えるため懸命に目に力を入れた。何でもないことのように云いながら、暗記の苦手な昱子は恐らく金魚の種を覚えておくのに努力したに違いなかった。
「そうしたら、」
明るい声音になるよう気をつけながら云いさして果穂子も池を指差す。
「そうしたら、昱子姉様はさしずめ蘭鋳ね」
花形中の花形。優雅で、大勢に注目されても余裕で微笑むことが出来るような人。この友人には多くの人を引き寄せる不可思議な魅力がある。賢い人も博識な人も家柄の良い人も彼女の友人の中に幾らでもいる。それなのに昱子は、自分の一番の親友は果穂子だと云って憚らない。
「では果穂子さんは玉サバね」
昱子はにやりと笑う。
「玉サバ? どうして? 」
だって蘭鋳はどうしたって玉サバにはなれないもの、との昱子の発言の意味をはかりかねた果穂子は妙な顔をしていたらしく、その顔を笑われてそのまま誤魔化されてしまった。
「ちょっとそのままでいて」
昱子の表情は刻々と変わる。不意に目を上にあげた彼女は声音を変えて果穂子の後ろに回った。
「曲がってるわ」
そのままひょいと果穂子の頭のリボンを直す。やっと使ってくれるようになったのね、少し拗ねるような口調で昱子は続けた。
「買ってしばらくは、大事に仕舞い込んだきりだったものね」
果穂子も決まり悪く笑う。
「はじめのうちは使うのが勿体無いような気がしていたのだけれど、よく考えたら使わない方が勿体無いと思って」
「本当にそうよ。だってとてもよく似合うのだもの」
果穂子のお下げを整えて昱子は満足そうに見やる。
「果穂子さんの髪はきれいね。艶があって真っ直ぐでしっかりしていて」
果穂子は振り返る。記憶の中の髪を綺麗に結った母が浮かんで昱子の姿と重複した。
「──子供の頃は、細くて頼りない髪だったの」
昱子は不思議そうに瞬きをする。
「ちいさい時はみんな大抵そうでなくて、」
「ずっと母の髪に憧れていたの」
果穂子のお下げに触れている昱子の手がひくりと動く。
「母みたいに長く伸ばして、綺麗に結ってみたかったの」
あのころ憧れていた母の髪のように、果穂子の髪もなれただろうか。
それでは願いが叶ったのね、昱子は穏やかに云った。
「お母様がお元気でいらしたら、あなたの髪をどんな風に結われたかしらね」
ほんとね、果穂子は微笑んで頷いた。
かあさまが今もお元気でおられたらと幾度も思う。けれど、時々それとは真逆の、考えてはならぬことも考える。果穂子はそれが浮かぶたびにその考えを努めて打ち消すけれど。
「わたくしが小さな頃に亡くなられたからこそかあさまは聖母さまなの」
え、と訊き直した昱子に果穂子はただ笑顔で応えた。
元々母はあまり丈夫なほうではなかったのだ。だからあの時持ち直したとしてもそれほど長くは生きられぬ身体だったかも知れない。
──そうしたらいっそ。
かあさまには、いつまでも果穂子の聖母さまでいて貰わなくっちゃ厭なのだもの。
かあさまはお優しい方だったけれど、もっと後に亡くなられていたら果穂子はきっとあなたを憎んでしまったかもしれないもの。
果穂子は心が狭いから、共に過ごした月日が長くなるだけ果穂子一人を置いてけぼりにして行ってしまわれた母をきっと恨んでしまう。母の弱点もきっと目に付いてしまう。
「わたくし、幸せよ。昱子姉様のおかげで幸せよ」
「なあに、いきなり」

母の死に関してそれほど冷たい考え方をする一方で、あんなちっぽけな金魚一匹の命が不安定になるだけで動揺してしまう。
──わたくしのしている事はきっとまるで馬鹿なのでしょうけれど。



金魚の尾が水の(おもて)をひるがえるぽしゃんという音は思いの外響いて、そして消えた。


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