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2025年 盛夏 六花 3

「全部母(づて)に聞いた話よ」
最初に早ゆり婦人はそう断りを入れた。

「だからどこまでが正確なのか私には判断しかねるけれど。他の方に聞いて確かめようにも、事情を知っている人間はごく限られていて、それが誰なのかはわたくしには知りようがなかったもの」
涼しげな水音をたてながら、婦人は二つのグラスにゆっくりとアイスティーを継ぎ足す。
「でも、母の語る果穂子姉様の話は何度聞いても齟齬(そご)がなかった。痴呆になってからでさえもね。それで、わたくしは母のためにもこれが真実なのだと思うことにしたの」
座り直した六花は、返された写真をぼんやりと見つめた。
晩年の老婆になった果穂子のイメージは一瞬にして崩れ去った。婦人によると、果穂子は十九歳で亡くなった。この元気そうな写真のたった二年後だ。
しかも、その後果穂子に関する記録はすっかり払拭されてしまったのだという。
──佐伯環によって。
佐伯家当主、佐伯善彦の妻。あのつるりとした顔立ちと口許の黒子を思い出す。
──佐伯家の奥様が果穂子姉様の存在を消したのよ。
予想外の言葉に、六花はどう応じて良いのか分からずにいた。果穂子が佐伯家の娘なら、環は果穂子の母親だ。家族の記録から娘の存在を消す母親などいるだろうか。そうせざるを得ない何か深い事情があったのか、二人の折り合いが悪かったのか。もし折り合いが悪かったのなら果穂子の死にも彼女が一枚噛んでいたのではと不穏な想像が広がっていく。
けれどそんな事を訊くのも失礼なように思えて、かといって何をどう質問して良いのか分からず、写真を手にしたまま六花は黙り込んでしまった。
「果穂子姉様がお亡くなりになったのはね、」
六花に合わせて、早ゆり婦人は少し間を空けて言葉を継いだ。
「結核が原因だったそうよ」
ごめんなさいね、いきなり結論だけ話してしまったから吃驚(びっくり)なさったでしょう、彼女は六花に詫びた。
「いいえ。私が話し下手なんです」
結核ですか、と答えながら先程の推測を口に出さなくて良かったと六花はこっそり胸を撫で下ろす。
「随分若くに病死されたんですね」
結核というと六花には咳や喀血を伴う昔の病気という乏しいイメージしかない。昔は随分流行したものよ──婦人は思い出すようにそう言った。
「あの頃はみんなTB(テーベー)って呼んでいたけれど。結核の怖いところは感染してもすぐには発症しないで、それに長らく気づかないところなの。何年も経って忘れた頃に発症するのよ。果穂子姉様の場合だって、いつ菌が潜伏したか分からない。彼女のお母様も結核で亡くなっていたそうだから、子供の頃すでに感染していたのかも知れないし、お邸で風邪をこじらせたときかも知れない。はっきりした事は分からないの」
「え?」
──今何て言った?
思わず早ゆり婦人の顔をまともに見る。
「お母様が亡くなったって──じゃあ、果穂子さんと佐伯環さんは実の親子じゃなかったんですか」
「そこなのね」
六花を見返して婦人は頷いた。
「まあ、よくある話なのよ。少なくとも当時の資産家の間では珍しい事でもなかったの」
動機はきっと単純ではなかったのだわ──婦人は独り言のように嘯いてから、
「あなた佐伯一族の家系図もお調べになったのでしょう? 妙だと思った箇所は無かったかしら」
と六花に振った。
「妙なところ、ですか」
黄ばんだ紙に印刷された滲んだ文字を思い出す。どうだろう。正直『果穂子』という文字を探す事だけに注意が行っていて、それ以外のことはあまり慎重に見ていなかった。
「ああいうのは普通、夫──当主の記載の隣に妻の名前があるでしょう。子供はその二人を繋ぐ線から真っ直ぐ下に伸びた縦線の先に名前が記される。もしくは男、女、そうでなければ子と書かれているはずよ。そうして下へ行くごとにどんどん子孫が枝分かれしていく。でも中には夫の名のすぐ下から直接縦線が伸びて、子の存在が示されている図もあったと思うの。どうかしら」
「そういえば──」
確か善彦の兄弟の子の何人かがそのような記載になっていたのを思い出す。妻がいるのに、まるで無性生殖でもあるかのように妻を介せず夫の下に出現する子の名。古い資料なので、印刷上のミスなのかも知れないとさして気に留めていなかった。
「そういう子供はね」
婦人は相変わらず穏やかに続ける。
「お妾さんの子」
「お妾さん、ですか」
とりあえずの相槌を打つがどうにもピンと来ない。いくら繰り返し考えてみてもよその世界の創作ごとのように感じられてそこから先へ想像が進まないのだった。
「果穂子姉様もそれよ。お妾さんの子なの。だから果穂子姉様と環様は血が繋がってないの。尤も果穂子姉様はそういう形の記載さえされなかったのだけれど」
「そうでしたか──」
納得した。そうすると、おそらく環からすれば家系図に果穂子が記されない方が自然という言い分だったのだろう。元々妾は家系図に記録されないという前例もあったのだ。果穂子は彼女にとって妾同然の存在だったのかも知れない。
「本当のお母様は元々佐伯家で働いていた女中さんだったと聞いているわ。果穂子姉様を見て分かるように、とてもお綺麗な方だったようね。お妾さんになったのが先か、果穂子姉様を妊娠したのが先か分からないけれど、とにかくお邸を出て小さな家を与えられて、そこに住むようになった。果穂子姉様が産まれて、しばらくは母娘二人で暮らしていたようだけれど、お母様は果穂子姉様が六つの頃亡くなってしまわれたらしいわ。それで佐伯家の当主が果穂子姉様を引き取ったの」
しかも正式な佐伯家の跡取りにするつもりで引き取ったらしいのね──婦人は続ける。
「──その年齢だと、なんとなくの事情は分かっても、全てを理解するのは難しかったでしょうね」
「そうね」
婦人は何事か思い出すように目を細めた。
「母もそれをいつも気の毒がっていたの。けれど結局最後まで果穂子姉様の泣き言も涙も見ることはなかったのですって。母は自分が不甲斐なかったと悔やんでいたわ」
それは昱子が果穂子にとって心を許せる存在になれなかった、という意味だろうか。この写真を見る限りでは二人はすっかりお互いを信頼し合っているように見えるけれど。
「環様にしてみれば自分を苦しめた女性の子で、しかも面影がそっくりな果穂子姉様の事をどうしても継子として愛せなかったのかも知れないわね。お妾さんを持つ資産家は珍しくない時代だったとはいえ、だからと言って正妻が傷付かないかといえばそうではないものね」
六花は思いを馳せる。あそこが記念図書館になるずっと前、 あの美しい邸に住んでいた人々は、そんな複雑な事情を抱えながら暮らしていたのだ。優雅な暮らしをして、上等な服を着て、他人から見れば何不自由ない資産家の奥様、お嬢様と見られてはいたものの、きっとどちらも窮屈な思いをしたに違いない。
「環様には焦りもお有りだったのが彼女を追い詰めた理由の一つかも知れないわ。早くから佐伯の家に嫁入りしたのに一向に子供が出来なくてね。夫の心は自分になく、お気に入りの妾そっくりの娘、果穂子にばかり目を掛ける。子供だったとはいえ、果穂子姉様に複雑な気持ちを募らせたのかも知れないわ」
「──そう言えば、調べた資料にも佐伯家は長年子供に恵まれなかったとありました。確か環さんに男の子が生まれたのは当主が五十代のとき──でしたか」
佐伯秋彦。果穂子は彼の義姉だったのか。
「そう。それが転機だったのね」
「転機? 」
婦人はええ、と頷く。
「環様は夫を上手く言いくるめたのか弱いところを突いたのか知らないけれど、その男の子が二歳になった頃、果穂子姉様を別荘に追いやることに成功したの。ほら、正妻から長男が生まれて果穂子姉様に必ずしも跡継ぎをさせる必要も無くなってしまったものだから。 別荘へ移す表向きの理由は『結核に感染したため隔離と療養に専念』というふうにしてね。十六歳の時のことよ」
──別荘。
「住んでいたんですか、別荘に」
「そうらしいわ」
繋がった。書かれた果穂子の日記はその頃のものだ。
「どうして佐伯家の当主が環様の言いなりになってしまったのかは分からない。でも、事実として、結局実の父も果穂子姉様ではなく環様とその息子の秋彦さんを取ったのよ」
皮肉な事に、果穂子はその後本当に結核で亡くなってしまったから、環の目論見は事実になってしまったらしい。そしてその後彼女は果穂子の痕跡をすっかり除いてしまった。持ち物も写真も、何から何まで、全て。歴史資料に果穂子の存在がきれいに無かった事になっているのはそういう事情なのだと早ゆり婦人は結んだ。
果穂子は亡くなるまでの三年間、世話役の女中とその別荘で二人暮らしをしていたそうだ。その時点で、果穂子は跡継ぎの立場を失い、通っていた女学校も退学して実質ただの妾の子同然の立ち位置になってしまったらしい。当然昱子との御相手は解消されたけれど、彼女はそんな果穂子の元に周囲の反対を押しきって来る日も来る日も通ったそうだ。
果穂子さんは金魚のようねと早ゆり婦人は言う。
「金魚? 」
「華やかに美しく生きて、美しいところだけ見せて。そして儚く去ったわ」
美人薄命とでも言うのかしらねと肩を竦める。
果穂子は少女のまま死んだ。
けれども昱子はそのずっとずっと先まで生きて、様々な幸や不幸を経験し、時代の波に揉まれ、歳を重ねた。晩年は痴呆になり、それでも果穂子を忘れなかった。
果穂子が金魚なら、昱子はたぶん、花。美しく咲いて、のちに萎れて枯れるところまでが人生。
真相は説明してもらえばなる程あり得ない話ではなかった。その時代を知っている人なら察しがつくようなことだろう。
偶然出生に恵まれなかった悲劇の令嬢。果穂子の背景は知ることが出来た。けれど、どうにもすっきりしない思いが靴裏に引っ付いたガムのようにまだ六花に纏わりついていた。
これで果穂子の正体は全て知れた、ということになるのだろうか。本当に? むしろここからが入り口なのではないだろうか。知れば知るほど却って謎が深まるような感覚に六花は戸惑っていた。
──果穂子は本当に何者なのだろう。
最初に抱いた疑問は今もそのまま疑問で、彼女の背景を知れたからといって解決出来た訳でもない。おそらく佐伯果穂子という娘の事情はもっと込み入っていてもっと執念深い。良くも悪くも。
「その『日記』を、果穂子姉様の痕跡を見附けてくれたのがあなたで良かったって、しみじみ思うわ」
六花が自分の考え事に没頭していると、ふっと早ゆり婦人が柔らかな声を投げかけた。
「わたくし、なんとなくなのだけれど果穂子姉様を一番に理解できるのはあなたなんじゃないかって、そんな風に思うのよ」
「私が、ですか? 」
きょとんとする六花に彼女はそう、と続ける。
「大親友の母でさえ、果穂子さんの心の深いところは理解出来ていなかったように思うと言っていたわ。でもね、あなたと今日話してみて、わたくしの中で母から色々聞いていた果穂子さん像とあなたが重なるの」
「はあ」
何の心当たりもない。早ゆり婦人はなぜそんなふうに思うのだろう。果穂子と自分に共通点があるなど、少なくとも今の時点で六花には思いもよらないのだけれど。




✳︎



「あなたが少し羨ましいのよ」
帰り際、早ゆり婦人はぽつりと口を開いた。
「あの場所で毎日働くことができるなんて。あんな素敵なお邸が職場だなんて」
思わず目を丸くする六花に、「これも母の受け売りなのだけれど」と早ゆり婦人はチャーミングな笑みを浮かべて二人しかいない玄関先で何故か囁き声になった。
「どうしてあの図書館がいつまでも魅力的なのか、教えて差し上げるわね」
「え? 」
「『もともとあのお邸に住んでいた美しい娘さんが、美しい仕掛けを(こしら)えたからなのよ。それが今の今まで機能しているの』」
目尻と鼻に皺を寄せた笑い顔の早ゆり婦人は六花の目を見つめる。
「あなたはきっとそれも見附けてしまうわね」
一瞬、いっそうこちらに顔を近づけた婦人と若い頃の昱子が重なり、その妖艶さに六花は息を呑む。
──美しい仕掛け。
私も、六花は上擦った声で返した。
「あそこにはまだ何かあるように思うんです。果穂子さんは、ただ境遇に流されて亡くなった可哀想なだけの人じゃないような気がするんです」
ほとんど未読状態の机の裏のあの日記もきちんと読んでみようと思う。少しずつでも。
「多分日記に昱子さんの事はたくさん書いてあると思います。姉様、かあさま、という文字が目立っていましたから」
自分だけで理解しきれない部分は早ゆりさんに助けていただけるでしょうか、とお願いしたら、快諾した彼女は可笑しそうに「まあ、まあ」と笑った。
「あなたは本当に、果穂子姉様と同じ時代に生まれて来たら宜しかったわね」
それから付け加えた。


「そうね。何かがあるはずね。あなたがそう仰るのだから、そうなのでしょう」

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