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定型化された朝

目覚ましが鳴る前に、愛結《あい》は目が覚めた。もう秋に差し掛かるというのに、夏は名残惜しいのかゆったりとした足取りで、まだ居座っている。
 愛結は座ったまま身体を伸ばしてから、ベッドを降りて制服に着替えた。
 耳を澄ますと、下から包丁の心地の良いリズムが聞こえてくる。
 焼き魚と味噌汁の香りがほんのりと鼻についた。祖母が朝食の準備をしていてくれるのだ。
 制服に着替えた愛結は、部屋から出て一階にある洗面所に向かった。
 先に長い髪を一つにまとめて顔を洗う。一通り身支度を終えた愛結はリビングに向かった。
 すでに愛結の朝食がテーブルの上に並んでいる。本当は父である妹尾温人《せのおはると》の分も並んでいてもいいが、顔を合わせたくない温人は、愛結が起きてくる前には家を出て行ってしまう。
「おはよう。ご飯できてるから。お父さんは、もう食べて行ったから」
 一緒に住んでいるのは、父親温人の母親で祖母の妹尾伊久子《せのおいくこ》との三人暮らし。そして伊久子は、決まって毎朝同じ言葉を口にする。
 習慣と言い訳。自分の息子が孫を敵視しているから。
「うん。お父さん、何か言ってた?」
 愛結も伊久子と同じく、毎朝決まった言葉を口にする。
「愛結は、元気か?って。仕事が忙しいからねぇ」
 朝の決まった会話では、絶対に伊久子は愛結を見なかったし、愛結も見たくはない。
 伊久子が口にする温人の言葉は、伊久子が考えた言葉だから。
 温人が愛結に関わる言葉を出すとしたら、罵倒しかない。伊久子も愛結が、温人の言葉だとは思っていないのを知っている。
 でもこの定型化された朝の儀式は、きっと愛結が家を出るまで続くだろう。
「おばあちゃん、ご馳走様。じゃあ、行ってきます」
「お粗末さま。気を付けて行ってらっしゃい」
 この時、初めて松伊久子は、台所から振り返って愛結を見るのだ。
 区画整理された綺麗な街並み。ハウスメーカーの似たり寄ったり家の集まり。
 愛結がここに引っ越してきたのは、幼稚園に入る前だった。
 もうあまり覚えていないが、それまで住んでいた賃貸マンションから戸建てに引っ越しをしてきて、凄く広い時感じたのだけは覚えている。
 歩いていると、大きく体が前に揺れた。
「愛結、朝から相変わらず暗いな。どうにかしろよ」
 歩いていた愛結のお尻を通学カバンで叩いてきたのは、幼稚園からずっと一緒の、藤堂天晴《とうどうあまはる》だった。
 小学生の頃からミニバスケをしていて、一年でレギュラー入りをして自慢してしていた。
 身長も、中学に入って竹の子みたいに、いつの間にかグッと伸びていた。
 パッチリ二重の大きな目元と、ビー玉みたいにキラキラした瞳。通った鼻筋と、薄くも分厚くもない唇。
 性格も明るくて面倒見もいい天晴は、中学に入ってかなりモテ出した。
 天晴を見て騒ぐ女子たちは、アイドルみたいな顔立ちみたいと口にしているのを愛結は耳にしていた。
 愛結は、天晴を無視して歩き出した。
「愛結、無視をするなよー挨拶は、生きて行く中で、必要なんだぞー」と、説教をしながら愛結と並んで歩く。
 これも毎朝の定型で、もう一つの定型がそろそろ現れるはず。
「おはよう。アーちゃん、アッパレ」
 仙波千珈《せんばちか》が、ポニーテールをした長い髪を揺らして近づいてくる。
「おはよう」千珈は「うん」と柔らかくて、母性に満ちた笑みをこぼす。
 千珈はどちらかというと、可愛いではなくて美人の部類で、中学になって頭角を現し始めた。
 顔立ちだけじゃない。同年代なのに、落ち着いた雰囲気とさっきの微笑み。モテないわけがない。
 二人に比べて、愛結は本当にどこにもいる、特に取り柄も、趣味もない普通の女の子だった。
 だから、目立ちたくないのに学校では目立ってしまう。
 誰とも関わりたくないと思うのに、何かと二人と仲がいいからそういう訳にもいかない。
「千珈、サッカー部のイケメン先輩から告白されたんだろ? また振ったのか?」
「振った。興味ないし。天晴、アンタも人のことを言えないでしょ。三組の女子に告られたって聞いたけど」
 愛結を挟んで、二人の華々しい学校生活飛び交う。
 天晴も千珈もモテているのに、告白をされても付き合わない。
 どうして、告白オッケーしないのか以前に聞いたけど「中学生だし」と二人から同じく答えが返ってきた。
 愛結は密かに、天晴は千珈が好きで、千珈は天晴が好きな気がしている。
「天晴とチーちゃん、二人とも息も合ってるし、付き合えばいいんじゃない? そしたら告白されたりもなくなるんじゃない?」と愛結が助言してみるが、「ないわー」と必ず二人と冷たい目をして返してくる。
 愛結はいずれは、何だかんだと言いながら付き合うと考えていて、早くそうなれば自分の周りが少しは静かになるのにと、常々考えていた。
 区画整理された住宅街から、愛結たちより前からある住宅街、そして堤防に続く道に出て土手を歩く。
 少しだけ遠回りになるけど、いつもこの順路で学校に向かう。
 遮り物がなくなって、緑の斜面と広く長く続く道。その向こうには、流れがあるのかないのかわからない黒く濁った川がある。
 犬の散歩の散歩をしている人、ジョギングをして汗だくになっている人、ガニ股足で自転車をゆっくりと漕ぐ人。平日の朝からいるけど、どんな仕事をしているんだろうと愛結はいつも不思議に思っている。
「そう言えばアーちゃんは、高校は何処を受けるの? やっぱりH高校?」
 ぼんやり河川敷を眺めていた愛結が振り返ると、千珈と天晴の視線が自分に集中していた。
 中学二年生の夏休みも終わった。千珈に誘われて、地元の塾の夏期講習にも通ったら、天晴もいてやっぱり目立った。
 塾の講師は、もう受験は始まっていると、それはそれは教師の薄い壁が、振動するほどに声を張り上げて説明していた。
 いい高校に通えば、色々と選択肢も今後広がるとか、それなりのレベルが集まる中にいたほうがいいとか。
 愛結には、講師の話しを聞いても何も感じなかった。
 だって、どれだけ頑張ったとしても結局、人は一人で死ぬじゃないか。突如、やって来る死期と、病気とかで分かってしまう死期。
 頑張ったしても、報われずに人生途中退場になるかもしれないなら、頑張る意味なんてあるのか。
 確かに、長い寿命を全うするのが圧倒的に多いとは思う。でも……と愛結は考えてしまう。
「まだ分からない。どうして高校に行かなくちゃいけないの?」
「そっからかよ!」と天晴が声を上げる。
「死ぬその日まで、食べて生きなくちゃいけないから。生きるためには、知識とお金が必要じゃない。それに家を出て一人暮らしができるし。中卒じゃあ、普通の生活は苦しいでしょ」
 千珈が、もっともらしい言葉を並べる。
「一人暮らしかあ」と、愛結は呟いて空を見上げた。
「で、アーちゃんならH高校は余裕でしょ? 家からも二駅で近いし」
「一応は聞くけど千珈は、何処を受けるんだ?」「私は、アーちゃんと同じく高校かな。天晴は?」千珈の質問に、天晴の声が小さくなった。
「ーー俺も、H高校を狙ってる」
「天晴って、そんなに成績良くなかったよね?」
 千珈が鼻で笑うと、天晴が「だから、塾に通うことにしたんだよ!」と叫びに近い声を出して歩き始めた。

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