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鏡の向こう側の君へ

 今日、僕の思い出と、それほど多くない荷物が一緒にトラックに積まれ、新しい引っ越し先に向かう。
 引越業者のトラックが走り去り、向こう側の交差点にある信号を右折して見えなくなるまで、僕は見守った。
 そしてあの時のことを、千春のことを思い出している。

 ◇◇◇
 彼女と知り合ったのは桜の散り終わる、花見がどうだとニュースで言わなくなった頃。
 大学の友人が持ってきた合コンがすべての始まりだった。後になってそれを知らない人たちは僕たちの出会い方を、意外そうに驚いたものだった。

 そんな僕たちの出会いは、居酒屋の長テーブルで、お互いの席が対角線で一番遠い、そんな距離から始まる。
 周りがわいわいと盛り上がって行く中、2人は席を移動することもできず、その距離はずっと保たれたまま、終わってしまった。
 ただ、少し遠慮がちに、千春が誰かと笑っている横顔を、僕は時折気になって見ていたくらいで、なんとなく話してみたかったなという程度だった。

 後日、気持ちのいい風の吹く日、同じメンバーで遊園地に行く事になっていた。
 その友人が企画していたのだが、僕は集合場所に着いてみるまで先日のメンバーで向かうとは知らずにいた。
 友人曰く、一回会うだけじゃつまらないから、だそうだ。彼も誰かを狙っているらしい。

 そして僕は、彼女が他の女性達の少し後ろに立っているのを見て、何故か少し嬉しかったのを覚えている。
 アトラクションの席、ランチのテーブル、パレードの立ち見。
 僕は自然と彼女を目で追うがままに任せて、それとなく彼女との距離を確かめるかのように、少しずつ近づいていった。

 そして帰りの電車は向かい側正面に座った。でもその間には乗客がいる。近いのに、恥ずかしさが邪魔をして遠く感じる距離。
 電車に揺られる乗客の体の隙間から、彼女横顔が、友達と話す笑顔が見え隠れする時にはもう、僕は彼女を好きになり始めていることに気づいた。
 僕は電車を降りるときに少しだけ彼女の袖を引っ張り、連絡先を交換して欲しいんだけど、と照れながら話しかける。少しびっくりしている千春の顔を相手に、僕は緊張しているのがバレないように必死に隠していた。

 それからは僕たち2人はその距離をゆっくりだけど縮めていく。

 映画。
 観終わった時に横を向くと、目を真っ赤にしながら泣くことを止められない千春を見て、僕は慌てながらも笑ってその顔を眺めた。

 七夕祭り。
 風に揺られる色とりどりの短冊、七夕飾りを見つめて、千春は何度もつまづく。
 僕はそんな彼女をからかいながら、不自然にならないように手を繋ぎ支えようとして、盛大に転んで膝に怪我をしてしまう。

 花火大会。
 急遽大雨で中止になってしまい、僕たちは残念な気持ちをお互いにぶつけながら、2人の最寄り駅が交差する駅までの、ふた駅分を話しながら歩く。
 僕のこと、君のこと。
 気がつけば、自然に手を握りあっていた。僕は君への気持ちを伝える。千春は少し戸惑いながら、僕の気持ちを受け入れてくれた。

 そして秋になり、僕の部屋にもよく遊びに来てくれるようになった頃。
 僕の部屋が殺風景すぎると言って、彼女は玄関と、僕の部屋に鏡を2枚、買って持って来てくれた。
 玄関の姿見は貴方の身だしなみの為に、部屋の手鏡は私の為に、と照れながら僕に言う君。

 そして僕は毎日、姿見に向かって結んだネクタイを確認する。
 千春の笑顔を思い出して、行ってきます、と言って扉を開き、また夜になれば扉を開けて、鏡に映る自分の向こう側にいる千春を思い出し、ただいまと言う毎日を繰り返す。

 季節は過ぎ、雪の予報も外れ、雨が冷たいクリスマスイブの日。
 僕達は駅前で待ち合わせをした後に、以前に見つけた雑貨店で、2人の写真を部屋に飾る為にお揃いの写真立てを買った。
 そしていつものように二駅分歩く。
 この時間は僕達の関係が始まった時間と距離。そして本当にいつものように、またね、と到着した駅で別れる。

 それが最後の会話だった。

 次に会った時の千春の顔はまるで寝ているかのように穏やかだが、もう目を覚ますことはない事がわかる。
 遺品の中に、ずっとカバンの中に入れたままだったと思われる、痛々しく割れている僕達の写真立てを見つける。

 僕はそれを棺に入れて、空に送った。

 そしてもう一度季節が巡り、桜が散る季節が過ぎるとき、僕は彼女がお気に入りだった玄関の姿見を、少しでも側に感じていたいという理由で部屋に飾ることにした。

 まだ、僕は彼女のことを、次の休みにまたあの駅で待ち合わせをする気持ちと変わらないくらい、そのまま残していた。

 そうやって過ごす毎日の、ほんのちょっとした夕食後のひととき。

 ふと、姿見の鏡の向こう側に、寂しそうに背中を向けて座っている千春がいた。
 そしてその時から、僕を映すはずの姿見は僕ではなく、いつか見た千春の部屋と、うつむいたままの彼女を映し始めることになる。

 千春は、テレビに映るお笑いの番組なんてまるで気にしていないように、ずっと僕達の写真立ての前で座っていた。
 僕はそんな彼女に声をかけたり、鏡を叩いたりしてみたけど、一向に振り向いてはくれない。
 近くにいって後ろから抱きしめたくなるほど、今にも倒れそうなほどの細い背中だった。

 手の届かない近くて遠い距離。

 それからもその鏡は、まるで窓ガラス1枚向こう側のどこかの風景がたまたま千春だったかのように、彼女の生活を映し続ける。
 僕は毎日帰ってきてすぐに鏡を覗き、その距離が少しでも近くなるように、同じテレビ番組を観て、同じ食事を選び、同じ日に出かけた。
 そして時々寂しそうに僕達の写真を見続ける千春の背中を見守る。
 僕も一緒に彼女の背中越しに2人が並ぶ写真を見ながら、ここにいる、振り向いて、と囁き続けた。

 そして、またいつかと同じ気持ちのいい風の吹く日に、千春は僕の家にあるものと同じ手鏡を持ち出してきた。僕も急いで手にして、同時に見えるように、目が合いますようにと覗き込んだ。
 こうしてやっと、僕にとっては半年越しの、千春にとっては2年ぶりの再会となった。
 ぎこちない笑顔で鏡ごしに手を振る僕に、千春は目を大きく開いたかと思うと、そのまま気を失って倒れてしまう。
 ガラス一枚向こうの何もできない僕は、しばらく姿見から心配そうに覗くことしかできない。ほどなくして千春は気が付き、もう一度手鏡を覗く。

 僕はもう一度、今度は泣きながら手を振った。

 この不思議な出来事を、彼女はすんなりと受け入れてくれた。鏡の向こうの、千春の世界では、僕が事故でいなくなったらしい。

 筆談しながら泣き笑う千春を見て、つられて僕もまた泣く。そしてそれから、彼女はどこかにしまっていたらしい僕のものと同じ姿見を、同じような場所に立てかけた。
 その鏡は僕がいなくなった後に家族から貰ったらしいが、ひとり映る姿を見るのは辛かった、と後で教えてもらった。

 ガラス1枚向こう側の世界。それは近づけは触れられそうなのに、どの世界のどの場所よりも遠い距離。
 だけど、新しい2人の生活が始まった。
 朝、一緒に起きてお互いが目に入る位置で朝食を取り、見つめ合い微笑んだ。夜は一緒に同じテレビを観て、ビールを飲む。
 お互いの笑顔が見えれば、笑い声も聞こえそうだった。

 そして僕は提案する。

『こんしゅうまつ、えいがに、いっしょにいこう』

 この時の為に用意したスケッチブックに逆さ文字で書いて誘った。
 ガラス一枚、とはいえ鏡の向こう側だったから、文字は全部鏡写しのように逆さに映り込んでいる。

 笑顔で頷く千春。
 2人とも同じタイミングで手鏡を指差した。

 そうだね、一緒に持って行こう。

 週末、同じ映画館に向かい、お互いに2人ぶんの席を取った。真ん中あたりの14のEと、14のF。
 手鏡で映せば、僕の隣に千春がいた。いつの日にも隣にいた、あの日を思い出して。

 僕達はもう一度、やり直すかのように2人の思い出を重ね始める。

 七夕祭り。
 そして花火大会。
 この日はあの時と違って雲ひとつない星空夜空で、大きな花火の轟音と歓声が聞こえるのに、僕たちはお互い手鏡の向こう側ばかりを見ていた。

 だけどその日を境に、鏡の向こうの千春は元気が無くなっていく。
 冬になり、2度目のクリスマスが近づく頃。千春は真剣な顔で、姿見の前で座って欲しいと僕に促した。
 彼女はボロボロに使い込んだスケッチブックを持っている。

『どうしたの』

 僕もスケッチブックに書き込んで、鏡越しに伝える。

『このままでは、いけないとおもう』

 千春の目は赤いが、まっすぐに僕の目を見ている。

『ぼくはこのままで、いたい』

 僕は書き殴ったかのような大きな字を書いて、これから始まるだろう辛い時間を止めようと、文字に気持ちを乗せた。

『これからも、ずっと、わたしたちは、はなせない、ふれあえない』

 千春は僕との間の鏡に手を当てた。
 僕も手を合わせる。
 すぐに彼女は手を離し、また何かを書き始める。

『このぬくもりはおたがいのものじゃない。じぶんのもの』
 また書く。
『なにもとどかないの』

 千春の顔には、絶対に縮まることのないガラス越しの距離に、強い覚悟を決めているようだった。

『おたがい、べつのせかいで、ちゃんとべつべつにくらしている』

 またすぐに彼女が、スケッチブックをめくり、書き足す。

『はじめは、わたしがおかしくなったのかと、おもったけど、ちがった』

 スケッチブックには、濡れて滲んだ文字の一部が見える。

『でも、あなたが、いきててよかった。べつのせかいでも、ほんとうに、うれしい』

 またページをめくり、書く。少し長く書いている。

『わたしたちは、ふつうに、おわかれするの。それがあなたのためにも、きっと、わたしのためにも、いちばんのせんたく』

 そう書いた後、急いで書き足した。それは逆さ文字ではなかった。
 まるで本当なら、触れ合う距離から、僕の思いを振り切って走り去るように。

『さよなら』

 千春は泣き顔を隠さず、僕を見つめながら少し笑顔を見せて、そのまま姿見を裏返した。僕の姿見は、その瞬間から、ただの鏡に戻ってしまった。

 その後も僕は毎日覗き込んだが、あの"おわかれ"の日から、姿見も手鏡も、悲しそうに見続ける僕の顔以外、なにも映すことはなかった。

 そして。

 僕はあの後何年かして、千春と別の魅力をもった女性と知り合う。彼女は僕を受け止めてくれ、再び僕は2人で歩き始めるようになった。
 そしてこれからはずっと一緒に暮らす為に、引っ越しの準備をしていた。
 片付いて行く部屋と、長く気持ちを残していたその場所から、僕はやっと"おわかれ"できる。

 最後まで部屋にかけてあった、この姿見。そこには今も、あの日から変わることなく僕と、この部屋だけを映している。
 僕はスケッチブックを1枚切り、逆さ文字で文字を書いて貼った。その後、手鏡と一緒に丁寧に箱詰めする。


『しんぱいかけました』
『ぼくも、やっとしあわせになれそうです』

 ◇◇◇
「・・・よかった」
「おばあちゃん、何がよかったの?」
 部屋の片付けをする女性のそばにいた、小学生くらいの女の子が話しかけてきた。
「ずっと、心配だった事があったの。とても近くにいたけど、とても遠い、とても大切な人が、おばあちゃんにもいたの。でも」

 その次の言葉は涙で出なかったが、その女性はその姿見をもう一度見つめ直して、大切に、新しく書いた一枚の手紙を貼りなおして、鏡を元に戻した。

しおり