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プロローグ 『苦しみからの解放』

 中学2年の三学期終業式の数日後。
 普通の中学生ならば春休みに何をしようか、どこへ行こうかなどと考える。
 そうでなければ実際に、考えたプランでどこかへ行って遊んでいることだろう。
 しかしそんな中、今日もいつものように両親に特に理由もなく殴られる少年が1人。

 不幸なことに彼は生まれて14年間ずっとそんな生活を送っていた。
 世間で言う『児童虐待』というやつだ。

 こういうときの対処法を彼はもう痛いほど知っている。単に動かず、(うめ)かず、じっと時間が過ぎるのを待つ。ただそれだけ。
 そうすれば、やがて相手は飽きてしまい結果的にこの状況は短時間で終わる。無駄に刺激を与えて苦しむ時間が長くなるなんてのは悪手以外の何ものでもないのだ。

 いつものように少年は無抵抗で殴られ、そして蹴られ続けながらぼうっと今や幸せそうに遊んでいるであろう数少ない友人達のことを考える。
 すると突然、耳元でバチンッと聞いたことのない大きな音が鳴った。

 その奇妙な音を境に少年の世界からは音が失われ、耳の奥が感じたことのない鈍痛に襲われる。
 彼はようやくそこで自分の鼓膜が破れたことを理解した。
 音がなくなった奇妙な静寂の中では当然、意識だけが普段より鮮明になる。

 その研ぎ澄まされた意識の中、どこから来るか分からない暴力の塊に恐怖を感じ、その恐怖から逃れるため少年は外へと続く扉の方へと必死に走りだした。
 玄関までのたった数メートルが驚くほど遠くに感じられた。床から伝わってくる衝撃で自分の身に命の危険が迫ってくるのが分かる。捕まれば終わり、今度こそ、きっと死んでしまう。

 遂に心が恐怖へと押し潰され誰かに助けを求めようと口を開いたちょうどその時、背後から圧倒的な暴力がやってくる。
 訳もわからず吹き飛ばされながら自分の肋骨が嫌な音を立てながら折れ、肺に刺さるのを感じる少年の口からは深紅の血が吐き出されていた。

「助けて……誰か……」

 最後の力を振り絞り、小さい頃1度だけ見た特撮番組の正義の英雄(ヒーロー)を思い浮かべながら少年はそう口にした。

 しかし、正義の味方というものは想像上の産物にしか過ぎない。
 得てして現実は残酷なものと決まっている。

 誰かが困っていようとそれが自分の知り合いか、その人を助けることによって自分に何らかの利益が生まれない限り、普通人は他人をわざわざ助けたりはしないのだ。
 それでも誰かを助ける人間はよほどのお人好し、あるいはどこか頭のおかしいやつと相場が決まっている。"この世に偽善者はいても真の意味での善者など存在しない"のだから。

 そんな例に漏れず、少年の悲痛な叫びに耳を傾けるものなど存在しない。
 と言うよりも、そもそもこの場には少年とその両親以外誰もいないのだから助けを求めるだけ無駄だった。

 若くしてそんな非情な世界の側面を目の当たりにした彼の心中は憎悪に満ち溢れたものになるはずだが、彼は最愛の家族からの暴力に慣れてしまったせいかそうはならなかった。
 ただ彼の心の中にはやっとこの辛い日々が終わるという不思議な安堵感で満たされていた。

 もはや口から際限なく溢れる血の温かさえ心地よく感じられ、眠るときよりも優しくゆっくりと意識が暗闇へと溶け込んでいく。

 そんな薄れゆく意識の中で身体を支える床の振動から部屋に大勢の人間が入ってきたのが分かった。助けが来たのだろうか。だとすれば誰なのか──

 少年は身体から生命(いのち)そのものが零れ落ちるような感覚を得ながら、もはや死に行く自分には関係の無いことを考える。

 しかし、答えを得るよりも早く彼は限界を迎え、自らの意識を優しげな暗闇の底へと手放した。

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