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マリーボローのエミリー・ポポンス

東からと西からの風、それはどちらからもあまり吹かない。マリーボローは静かな町である。この町の中心である広場からマリーリバーに向かう道に、その人の等身大の銅像は、ひっそりと建っている。
 銅像だから全身黒くて、遠くからは人の影のようにも見える。ひっそりというのに、歩道の端ではない。車の行き交う道路よりにある。ともすると、歩道にある街路樹とも見間違えるかもしれない。目の悪いお年寄りならそう思うだろう。それぐらいに、存在感が感じられない。
 しかし、その銅像をよく観察すれば、かの有名な物語の「メアリー・ポピンズ」を、皆は思い出すに違いない。ふちにフリルのついた帽子をかぶり、左手で傘を頭の上にかかげて、右手がそえられている。その傘の柄には、オウムではなくてタカの頭があった。全身が黒だから、本当の色はわからないが、少し長めのタイトスカートと、肩パットが入っているだろうと想像されるカチッとしたダークなスーツ姿だ。スーツの中に着ているのは、レースのえりのついたブラウスらしい。かっこうが時代遅れだ。シャツのえりではない。皆がおそらく想像するように、それはまぶしい白のブラウスである。しかし、シャープな印象はない。
 その上の顔はそれにふさわしく、口元がゆるんでいてやわらかい感じでやさしく見える。西洋の顔なのに、鼻は高くなく、ほおが少し下がっているようで、ほうれい線がわかる。 しわが気になる。ちょっと年寄りだろうか? ローヒールの右足元には、ドクターが持つ物に似た大きなバッグがある。少し違うけれども、それに確かに似ている。メアリー・ポピンズの持っているジュータン製ではない。
 銅像の名前は「エミリー・ポポンス」と、いうらしい。銅像の足元の歩道に、小さく目立たぬように書いてあった。この町の人でさえ、エミリー・ポポンスがいつからここにいるのだろうか? どうしてここにあるのか? 誰もその理由を知らない。
 観光といっても、どうしたものか……まったくさっぱり冴えない町で、この「メアリー・ポピンズ」に似た銅像、「エミリー・ポポンス」を置いた理由がわからず、この町の人々も不思議に思っていた。
 この町に住むケントとリナという兄弟は、学校に行く途中に、いつも会うこの不思議なエミリー・ポポンスに興味を持っていた。なにしろ、生まれたときから、ずっとここを通り眺めてきた。しかし、単調でも忙しいつまらない毎日に追われ、この町の多くの人達と同じように、その理由を追求しないようにしていた。
 静かでおだやかな流れで澄んでいる水のマリーリバー、そこの橋を渡ったサトウキビ畑の先に十七歳のケントと十五歳のリナ、両親のヨウスケとリカ・タバタは住んでいた。ヨウスケは、大きな製糖工場に勤めていて、コンピューター技師として、管理の仕事をしていた。タバタ家は、サトウキビ畑に囲まれたいくつか並んでいる家の一角に、赤い屋根でヨーロッパの片田舎にあるようなかわいらしいたたずまいで建っている。
「おっはよ! 今日は運動会だってさ」
 ある日は、ケントが学校に行く道すがら、エミリー・ポポンスの肩を叩く。こんなことは日常だった。
「バレンタインだって! 赤いバラをピーターがくれるなら、私もチョコをあげる。手作りで……ねぇ、エミリー・ポポンスはどう思う?」と、リナの場合はこんな調子。二人とも、親戚のおばさんのように、話しかける。リナは家で母親に言えないことでも、学校の行き帰りにエミリー・ポポンスにつぶやいた。エミリー・ポポンスは二人の兄弟にとって、心の窓だった。その窓が開く……とは、まだケントとリナも知らない。
1 カフェ・メリーズ・ショップ
 町のまん中、すなわち、広場からマリーリバー方向へ、エミリー・ポポンスを通り過ぎて川を渡る手前をちょいと右に曲がると、川沿いの公園がある。その公園の前に、カフェ・メリーズ・ショップはあった。学校帰りの子供達はローリー(キャンディーとかグミなどこちらの駄菓子やキャラメルなどスイーツ)を買い、年上の学生は、ホットドックやバナナケーキを買う。もちろん、公園へ遊びに来る人達も、コーヒーやアイスクリームなどをテイクアウェイ(テイクアウト)する。そこそこ繁盛しているカフェである。
 最近のメリーズ・ショップは、ケントと同じ高校に通っている同い年のルークと、年の離れた妹、十歳のナオミとの二人で働いて営業していた。母親が過労で倒れてからは、学校がお休みのときは、ルークがキッチンに入る。ナオミがレジと、ウェイトレスを担当した。忙しければ、ルークもキッチンから外に出た。
 夏休みに入ってからは、あまり調子がよくない母親を気遣い、店は、ルークとナオミでがんばっていた。このところは、暑さもきびしく、母親も店に隣接した家で寝込むことも多かった。
 しかしながら、このカフェ、秘密があった。なにしろ歴史が古い。八十年前からやっているのである。そのころから、このように幸せ色と感じる……ピンクよりのあんず色を基調に、店全体がピンク色なのだ。汚くなれば、またピンクに塗りかえる。家族経営でルークとナオミのひいおばあさん、エミリーの代からそうしてきた。ピンク色の羽のついたシルクのリボンがかわいらしい、しぶいあんず色の帽子が、壁にマッチするように飾ってある。トレードマークだ。これは、ひいおばあさんの双子の姉妹の妹のものらしい。その妹がどうやら、その昔にとても有名な人であったようなのだ。その人は、遠い昔に、イギリスに行ってしまったとルーク達は聞いている。
 それは、あの「メアリー・ポピンズ」だ。その人が生まれた町ということで、ここの観光業にちょっとだけ貢献しているのだ。姉のエミリー・ポポンスの銅像は、そのおまけということらしい。双子であるひいおばあさんも、それぞれ変わった人だったらしいが、おばあさんも、相当おもしろい人だった。そのおばあさんが、昨年に他界した。その数年前には、サザエさんのマスオさんよろしく、この家にお婿さんでいたルーク達の父親は、突然、家を出て行った。理由はよくわからない。それからは、母親が女で一つでがんばって店をやってきた。しかし、最近は気おちしたのか、このところは特にやる気が出ない。しかし、生活のためにも、その歴史を守るためにも、メリーズ・ショップは続けなくてはならなかった。また、なによりルークもナオミも、この店が大好きだった。
 そうそう、この店の秘密。これはその夜にある。それは、あとで語るとする。まず、そのメニューだが誰もが驚く。二〇種類以上もあるファッジ(ソフトなキャンディーやキャラメルなどスイーツ)や、スペシャルなチョコレート(その時期により、生チョコやらトリュフなど多種)。ここの目玉商品のローリーは、アンティークなガラスジャーにきちんと入れられて、ピンクの壁の棚にたくさんに並んでいる。手作りアイスクリームに、その日によってバナナケーキや、キャロットケーキ、またはダッチケーキなどと変わるお菓子。デボンシャーティーというスコーン(小麦粉とミルクで作る素朴なお菓子のようなパン)の伝統的なセット。ホットドックやパンケーキもある。飲み物も、ミルクシェイクに、エスプレッソマシンで入れるコーヒーに、多種類の紅茶からハーブティー、ソフトドリンク類とかなり豊富だ。
 メリーズ・ショップは、昔からこの町で人々自慢のすてきなカフェであり、皆に愛され続けているのだ。ルークもナオミも、それに誇りを持っていた。
 その晩も、ルークがいつもと同じ時間の夕方六時に店を閉めた。カフェなので、夜はやらない。まだ自分でも子供だと思う……遊びたいルークにしてはそれは唯一の救いなのだ。(今日もこれで、やっと楽になる。俺はフリーだ)、彼は、内心ほっとした。このたくさんのメニューにあるものの仕込みは、誰がするの? と誰もが疑問に思うだろう。それは、ある人物がする。
「まったくだわ、これも仕方がない。仕方ないけど、あの子達が少しは覚えるべきだわ。ちっとも私が楽になれないじゃないの。いつまで作り続ければいいの」
 その人物は、肩パッドの入ったジャケットは脱いでいるが、白いレースのブラウスのそで口をまくり、アームバンドでとめていた。アイロンでパリッとさせた白いエプロンをしている。もちろん、ピンクのリボンの帽子は脱いで、木製の洋服かけにかっこうよく掛けられている。となりに掛かっているこげ茶のジャケットと、タカの頭の柄がついている傘とともに、みょうに似合いすぎていた。
 あの銅像であるエミリー・ポポンスは、こうして夜に仕事をする。実は、このことはメリーズ・ショップの家族しか知らない。それは、ずいぶんと昔から、外部には絶対に秘密とされてきた。
「私は、妹のように表舞台には出られなかった。でも双子だからね。似ているっちゃー似ている。銀のボタンのついた紺のジャケットは、制服みたいで私には似合わないよ。メアリーのように、私は気取っちゃいない。カフェのおばさんだからねぇ。それでも、若いころはね、パティシエール(女性パティシエ)を夢見たこともある。お菓子を本格的にずっと作るとなると、女性にはきびしくきつい仕事だったから......あきらめちゃったけれど。それは私の時代にはね、そういうイメージだったのさ。プラウド(誇りを持つ)で、男の人と対等に仕事をしてカッコいい!。メアリーは、いつだってプライドが高かった。今じゃ、こっちにも出てきやしない。お墓まですごいりっぱなもので、一人でいるよ。ほんと、変わらないわねぇ」
 エミリーは、メアリー・ポピンズと双子姉妹でお姉さんだ。このお話は、意外に誰にも知られていないようだ。子供のころは、どの家庭もありがちに、お姉ちゃんのほうが注目度が高くて、学校でも成績がよかった。それが、姉と似すぎた妹のメアリーが、とてもがんばり屋さんで、途中から姉をぬき、すべてにおいて優秀な女性に成長していく。完全に、エミリーは影! の存在になってしまったのだ。そもそも空想の世界ならば、影なら存在すらしないのでそれでもよい。実社会に当てはめるならば、その後、成長してメアリーはりっぱな大学を出て、優秀な先生、家庭教師としてやっていくことになる。結婚はしていない。そしてロンドン市内の桜町通りにあるバンクスさんの家で、乳母として子供達に色々と教えながらも、自らもその技術、魅力的なライフマジックを研磨していく。
「私は、ごめんだね。妹のように人の家庭でずっとやっていくなんてできない。自分の時間がないじゃないか……って思ってた。今もね、のんびりしたいんだよ。でもさ、どうして……私がこのひ孫達のために、毎晩起きて、たくさんの仕込みをしなくてはならないの。困ったものね」と、言いながらも、たのしそうに今しがたまで溶かしていたチョコレートを、ハートや星の型にそれぞれ、ていねいに流し込んでいる。
「私が結婚したときは、それは妹は驚いたわよ。そして、ちょっとがっかりした。また、それは少しおもしろくもなかったかもね。三十路だったからね……二人とも。そっちだけが嫁にいくってひがんじゃうの。ナンセンスだねぇ。だんなの名前が、ジャック・ポポンスだったから、エミリー・ポポンスになったけど、生まれ故郷のこの町でこの店をやろうと言い出したのが、ジャックだからね。私が手伝うのは仕方がないのよ。あなた達のおばあさん、サラは、一度は継がないし……やりたくないと言った。反抗期に一度だけね。でも、結果的には、最後までやってるんだから、お菓子作りもきらいじゃなかったんだろうよ」
 今日の売り上げの報告と、申し送りのために、しばらくはここにいなければならないルークは、いつもこういう話をエミリーから聞かされる。エミリーはおもしろい人だけれど、耳にたこができるほど、その話はうんざりだった。しかしながら、店の仕込みと、お菓子作りを全部やってくれるので、それは十分に我慢できた。てきとうに聞き流しておけばいい。それは、ほんの三十分ほどの辛抱だ。なにしろ相手は、昼間は銅像なので動かないと思いルークはにんまりする。
「おばあちゃん、いや、ひいおばあちゃんエミリー、オーブンの中のケーキをこがさないようにお願いします。俺、やらなければならない勉強があるから、行ってもいい?」
「勉強はだいじだよ。若いうちはどんなことでも、勉強第一さ。いいよ、行きなさい」
 今日も、うまく回避できた。これから部屋で、好きなゲームをする。ルークは、(このメリーズ・ショップが、今までうまく続いているのは、おばあちゃん達のおかげ……あの世から来てくれて仕込みをし、スイーツを作ってくれるという秘密があるからだ)と、それは尊敬している。でも、サラおばあさんは、まだ現れたことがない。エミリーひいおばあさんは、きっとすばらしい不思議な力があるに違いない。ルークは、そんなことは考えたくはないが、もし、万が一にも、母親のマーガレットが、その先にこの世からいなくなってしまうという将来があったとしても、きっとそれはだいじょうぶ……そのときの深い悲しみは乗り越えられると信じていたかった。(だって、きっと、そうだよ。このメリーズ・ショップには歴史があるんだ。先祖代々伝わり、またマーガレットが仕込みをするんだ)ルークは、そう思う。まだ、考え方も独り立ちができないひよっこだ。
「また、今晩も来てくれているのね。本当に助かるわね。生まれたときからずっと、夜になるとキッチンから音がしてて聞いてきたから全然に平気だけれど、考えてみればおかしいよね。ものごごろがついて、ひいおばあちゃまのことを、外に言っては絶対にダメよ! と言われてた。それがわかってしまったら、メリーズ・ショップが無くなると聞かされていたからたいへんなことなのだと思っていたの。ちょっとひいおばあちゃまに会ってこようっと」
「ナオミは、エミリーが好きだなぁ」ルークが二階の廊下ですれ違うと、ナオミは階下へすべるように下りていった。
「おや、ナオミかい。こんばんわ。今日はなにがあったの? 聞かせてちょうだい」
 ナオミは、近所のおもしろい話や、店の様子とお客様のエピソードなどを、エミリーに話した。そんな可愛いひ孫と過ごしながら、ここで仕事ができるなんてしあわせ者だとエミリーは思う。それも、もしかしたら永遠に!
「サラ、あの子は難しいね。また、反抗期だ。このカフェに愛情がない。まだまだあちらの社会でも、修行が足りないね。私は、いつになったら引退ができるのかしら?」
 そうは言っても、このエミリーには、ローリーやお菓子……スイーツを作ることはそんなに大変なことでもない。なにしろ、長年過ぎるほどの経験がある。この経験! これが大切だ。それでなければ、もちろん人は、手を抜いて仕事をするなんてしてはいけない。最近のエミリーは、じょうずに手抜きをする。たとえば、ローリーのソフトキャラメルなどを作るときは、それに合わせてたのしい歌をハミングする。すると、ソフトキャラメルも、チョコファッジもちょうどいいかたさに、自分達でダンスをするように動く。まぜる必要がない。(火にかけている間、ほかの仕事ができるってもんさ)
「フン、フン、フン、ハチが飛ぶー。マリーリバーにタンポポさいたよ、フン、フン、フン、ハチが飛ぶー」と、エミリーがこんな感じで歌えば、キャラメルもチョコレートも、うれしそうに跳ねている。経験だ!
「BGMはだいじだね! おいしくなるおまじないだわ」エミリーは、スキップしてその前に行き、オーブンからバナナケーキを取り出した。
2 悲しい女の子
 その女の子は、とにかく泣いていた。母親になだめられて、少しは落ち着いたようだが、その目は赤くはれていた。その様子は、眉間にしわをよせて、とても悲しそうに見えた。母親に見えるほうは、上から下まで黒い服装で、スカートも長くてまるで魔女のようなかっこうだ。女の子は、その泣いている姿に似合わず、ポップなピンク色のフレアーワンピースを着ていた。肩までのブラウンの髪の毛はたらしているが、服と同じ色の、カチューシャが似合っている。自信なげなまるでバンビのような顔をしている。
 メリーズ・ショップの外の明るい色のピンクパラソルの下で、女の子の泣いた顔は少し隠れて、それで、母親もちょっとは安心したようだ。それでも、母親らしきその人は周りを気にして、蚊のなくような小さな声で「ストロベリーミルクシェイクとカプチーノをください」と、ナオミに注文した。近くには、ほかにお客はいないのにと、ナオミは思った。ナオミは、あまり見てはいけないと思いながらも、女の子がそんなに泣くわけが気になり、その親子を注意して観察した。
「ルークはどう思う? 母親がいるのに、そんなに泣く?」
「人のことなんて、わからないさ。家だって、ママはちょっと病気だし、おばあちゃん達がいなければ仕込みに追われて、俺達だって泣きたくなるだろうさ」
 ルークは、肩をすくめた。おばあちゃん達という、「達」という言い方をするのは、たぶん、きっと自分達が知らない時間に、エミリーひいおばあさんだけではなく、サラおばあさんも手伝いに来ているに違いない、そしてそれは、将来サラおばあさんにも引き継がれていくと思っているからだ。
「そうね、本当の親子かどうかもわからない、ということもあるかもね。おとなりから出てきたんだよ。わけあり......かも」
「おい、ミルクシェイクを持っていけよ」
「カプチーノは?」
「今、やってるよ。甘いものを飲むと気持ちが落ち着くんだ。そっちを早く持っていけよ! ほい」
 ナオミは、同じテーブルのドリンクなのに、先にこれを持っていくのはちょっと不自然に思われないかと、おずおずと女の子の前にストロベリーミルクシェイクを置いた。ピンクと白の紙コップに、ピンクのうずまきストローが、プラスチックのふたに挿してある。女の子は泣きやんでいた。
 メリーズ・ショップのすぐおとなりだが、「マリーボロー・ヒーリングルーム」と、ドアに書かれている。十歳のナオミには、それが具体的になにをするところなのか……よくわからない。ときおり、そこに入っていく人がいるようだ。その帰りには、となりのカフェに来るお客もいるので、そういう人達は、お得意さんということにもなる。この親子らしい二人も、ここから出てきた。次に、ナオミがカプチーノをそのテーブルに持っていった。
「私には、心がないの……なーんにもないの。家族も、思い出のアルバムも、家もなにもかもがないの」
 そう女の子は、下を見つめたまま言った。(これは、私に言ったのだろうか?)ナオミは、白いコーヒーカップを、ピンクの格子柄のテーブルクロスの上に静かに置いた。(ルークがおとなりのヒーリングという意味は、いやしだって言ってた。ストレスがある人が来るところだって……)しばらくは、トレイを胸に抱えたまま、ナオミは黙って立っていた。
 カプチーノを一口飲んだあと、その母親と思えた黒い服の女性が「突然、ごめんなさいね。私は、ケイティーにつきそってきたの。ケイティーはね、昨年の台風のとき、あのトルネード(竜巻)で、家も、家族もなにもかもを失ってしまったの。今は少しはものを言えるようになったけれど、その直後は、言葉も発することができなくなっていて、彼女の視界は、色が全部消えて、景色がモノトーンになってたのね。今は、もうカラーは見えるけれど、それほどにショックを受けた」と、女の子が話した理由を伝えるように、ナオミに言った。ナオミは、言葉を何と返していいのかわからなかった。母親のようにその女の子を見つめて、黒い服の女性が、続けて言った。
「ちょっと荒療治なんだけれどね。こうして外の明るい空気の中で、そしてこのピンク色に囲まれたいやしの雰囲気が漂うカフェのほうが、私もいいと思って勧めて、ケイティーも出てきてくれたの。でもね、もしかすると、きっとあなたとお兄ちゃんが力を合わせて一生懸命に働いている姿を見ていたら、色々と家族のことが思い出されて悲しくなっちやったのかな? あっ、でもそういう意味じゃないのよ。うらやむとか? そんな気持ちでもなく、ただ、思い出しちゃったのよね。兄弟のことも」
「そんなの、平気よ。もう消化してるんだから。でも、なーんにもないのが……そんな自分の心が悲しいの」
 母親ではなかった黒い服の女性が「ここで、それが言えたことがいいことかもしれない。自分の気持ちが、誰かにうちあけられるというのは、とてもいいことなのよ」と、言った。
「あのね、ここで、私があなたの友達になったら、ほら、なーんにもなくないでしょ。友達のはじまりだよ。私はナオミ、よろしくね」
 ナオミは、今日は勇気を持って言えた。いつもは、仕事では人に愛想を少しだけ言えても、学校ではひっこみ思案のほうだ。ナオミは、その性格で損をすることや、誤解されることが多いと思い、自分を卑下してしまうことがあった。
「友達? 今、あなたとまだ、なーんにも知らないのに、友達……になる? 信じられない。だって、やっかいだよ。あなたは、そうやってお家の仕事を手伝っていて、学校のホームワークだって、ほかの人のつきあいだって、いっぱい忙しくて一日が決まっているでしょう? 悩んで、心も病んでいて、そんな私なんかと友達になって、あなたのほうが損じゃない。私は、ひとりぼっちで泣いていればいいのよ。別にそれで、人にどうのこうのとしてもらいたいなんて思ってやしないんだから。こうやって、私を思ってくれるカウンセラーの人もついてくれているし、いつかは、なんとかはなる。そう思う」
 まるで、その女の子は、自分に言い聞かせているように、うなずきながらそう言った。(これは少しは進歩だ。快方に向かっている)と、黒い服の女性のカウンセラーはちょっとだけにんまりとした。
「そんなー。だいじょうぶだよ。全然にたいへんじゃないって! 私と友達になろうよ。いつでもここに来てよ。お客様でなくたっていいから。なんなら、ルークにたのんで一緒にここでお手伝いでもいいよ。お給料は出なくても、おいしいケーキ、食べたりもできるし、ローリーの袋詰めもたのしいし色々とやれる。遊びに来てよ」自分でも、こんなに積極的に、人によく言えたと感心するナオミだった。
 女の子は、涙の乾いた顔を上げて、驚いたようだった。そして、ほんの一瞬だが、その目に希望の光のようなものがさしたように見えた。心の渇きからの希望だった。
「本当に遊びに来てもいいの?」
「いいよ、当たり前じゃない。今日から友達だもの。指きりとかする?」
「いい、私はサリナ。サリーって呼ばれてる。小学校三年生だけど、学校もあんまり行ってない。明日かあさってまた、ここへ来てもいいかしら?」
「いいってば、サリーちょっと待ってて! ルークからローリーを貰ってくるね。おばあちゃまの……」と、ナオミは言いかけて、あわててそこで止めた。キッチンに戻るのに向いていた足をそのままに、ふり返ってVサインを出した。「うちのローリーは、ホームメイドでどれもおいしいんだよ」ナオミは、急いで店の中に、小走りにローリーを取りに行った。
「よかったわね。お友達とお話ができるのもいいことなのよ。あの子は、正直な、信用ができるいい子よ。スピリチュアルな仕事をしている私には、すぐにわかる。絶対にいい子だわ。明日もおとなりに来てね。帰りにはここへ寄りましょう」
 黒い服の女性は、まだナオミも知らなかったおとなりの「マリーボロー・ヒーリングルーム」のカウンセラーだったようだ。
 その日の夕方、いつもの六時に「カラン、コロン、カラン、コロン」と、心地よく聞こえる鐘が鳴った。毎日のことだ。中世の音楽隊のかっこうで、年に関わる不安……メタボもすでに超越したであろう……いや、ふくよかな自分の姿を開き直った、中年を大幅に過ぎた柔和な感じの紳士が、右手で小さな金色の鐘をふりながら歩いている。そういう雰囲気をかもし出すすてきな紳士! でなければ鐘を鳴らしてはいけない。この紳士は、メアリー・ポピンズのおじさん、すなわち、エミリーのおじさんでもあるウイッグさんのような、いつも笑っているたのしさがあふれている人だ。少しでも、この町の観光や安全に貢献するように、リタイア後、自主的にその古風なスタイルで見回りをしている。その昔、家庭に時計があまり普及していない時代には、人々にこうして時刻を教え、また、町の安全を守るための見回りを兼ねている紳士がいた。タウンクライヤー(情報、またニュースなどのおふれ役)という町の伝統を継承しているのだ。
 その鐘の音が、合図だ。なにをって! それが、広場近くのエミリー・ポポンスが起きる合図なのだ。銅像は通常は動かない。六時の鐘の合図で、銅像の目に光が入り、キラッと光る。外側の銅像から、もう一つのその中にあるエミリー・ポポンスが、その銅像は形のままに残してそこからぬけ出す。その瞬間、姿を誰にも見られないように、エミリーは起きてからタイミングを待つ。それによって、メリーズ・ショップに仕事に行く時間が毎日変わり、六時半だったり、極端に遅くて八時になってしまったりする。
 今日は、早いほうだった。六時十五分に、通りに人がいなくなった。その一瞬のわずかな時間を見計らって、すごい速さでエミリーは走る。あまりに速いので、走り出したら人の目には見えないほどだ。五秒以内に、キッチンに着く。エミリーの走り出したときの瞬間速度は、くわしくはわからないが、出るときはマッハクラスなことは確かだ。あまりに速くて、足が車のタイヤのように回転している風に見える。マンガチックだ。
「今日は、仕込みがたくさんにあるのよ。早く来られてよかったよ。本当に、これじゃね、休めやしないわ」
「おはよう、エミリー、ママは、まだ復帰できないけれど、起きられるようになって、家事はやってくれてるよ。来週からは、カフェもキッチンなら、少しは働けると思うよ。そして、今日の報告なんだけれど……」
 ルークが、今日の仕事のことと、カフェで起こった出来事を話し終えてから、ナオミが続けた。
「それでね、その今日来た泣いてばかりいる女の子なんだけど。ナオミがね、そのサリーっていう子と友達になるって言ったんだ。サリナっていう名前なの。明日も来るかもしれない。ねぇ、ひいおばあちゃま、私なにか力になれると思う? ナオミは学校とメリーズ・ショップしか知らないんだけど......」
「ルークは、エミリーかい、こっちはひいおばあちゃまと舌を噛むような呼び方で、面倒くさいから、エミリーでいいわよ。妹、メアリー・ポピンズのいたバンクス家ではないんだからさ、こっちは血の通った家族だからね。エミリー・ポポンスなんて、フルネームで呼ぶこともない。ナオミ、今日は仕込みがたくさん、仕事がいっぱいあると言ったでしょう。あなたはね、あなたがそこにいるだけで、人がいやされる雰囲気を持ってるの。この星をたのしくするために生まれてきた天使だよ。だから、自信を持って自分の思うとおりにやってみなさい。あら、時間がないわよ。はじめるわよ。ここで、(フフン!)とは、妹みたいに鼻はならさないけれどね。ここまでよ。それから先は仕事の後で、またね」
 そしてそれは、学校に行く時間より2時間も早い早朝に起こった。外はまだ暗い。
「ナオミ、起きなさい。ナオミ」エミリーに起こされたナオミは、ルークとともに裏庭にいた。
「眠いよ。エミリー、どうしたの?」ルークは、目をこすっている。
「仕込みが早く終わったんだよ。これから行くところがある。いいから黙ってついてきなさい」
 エミリーは、白いエプロンもはずして通常のスーツに戻っていた。大きなバッグもタカの頭の柄のついた傘も持っている。大きなバッグはそこに置いた。
「二人とも、ほら! この傘をつかんで。それそれ、早くしなさい」
「わけがわかんないよ。エミリー」と、そう言いながらもルークが、エミリーの差し出した黒い傘の先を右手でにぎった。
「それじゃあダメよ。しっかりと両手でつかむ。それからエミリーはまん中をつかみなさい。両手でね、しっかりよ。ふん張って」
 二人は、そこだけ綱引きでもしているようななんともおかしなスタイルになった。エミリーはタカの頭がある柄のほうを持っている。したがって、エミリーの顔とナオミの顔は、向き合っていた。エミリーは、タカの頭を左手でちょっとだけ撫でた。おまじないをかける。
「さぁ、レッツゴー! ごはんは、今日の仕込みの残りのナッツだよ。ひき肉とコーンもあるさ」
 エミリーが言い終わらないうちに、タカはその頭の毛を逆立てた。どこからか風が吹いてくる。マリーボローではめずらしい風だ。
「わぁー、春の嵐みたい」ナオミの長い髪も風になびいた。
「いいから、二人とも離さないようにしっかりとつかんでいるのよ」
 次の瞬間、三人はものすごい速さで走っていた。いや、ルークとナオミの足は宙に浮いていただろう。傘につかまっているのが精一杯だったから。頭がタカなのに、黒い傘の胴体は、小さなロケットが横に飛んでいるようにも見える。翼のない低空飛行だ。もし普通のタカなら、ともすれば、その水平飛行は百キロにもなる。それよりも速い。障害物はどんどんよけて、それは上下、左右と器用に進む。タカは頭がいいので、その動きは俊敏だが、とくにコイツは注意深くもありしなやかだ。電柱が近づき、公園のフェンスはなぞるように進み、学校のブロック塀の角は直角に曲がり、マリーリバーはひとっ飛びだ。あまりの速さにナオミは目をつぶった。
「ヤッホー! すっごいよ。クールだぜ」と、ルークはたのしんでいた。
「ホホホー。たのしいね。逆走もなんておもしろいんだ。後ろ向きでも走れるなんて、私はなんて天才なのかしら。それにしてもいつもよりは遅いね。ほれ、シナモン、気張るんだよ」
「アイアイサー! 残りもののナッツじゃ、わりに合わないっちゅうこのスピード。フレッシュなビタミンを! フルーツも、そしてついでに上等のビーフをお願いします」タカは、頭から首まで毛を逆立てながら、スピードを増していく。
「シナモン、あんた、最近は生意気だねぇ。シナモンパウダーは、フルーツよりナッツケーキのほうが向いてるっていうものさ。それじゃ、明日はフルーツケーキも作るかねぇ。おや、ミートパイもかい?」
 先頭のエミリーは、シナモンという名前であるタカの柄の頭をつかんでいる。その目の前にナオミ、傘の先をつかんでいるルークという、傘が横の形で進んでいく。エミリーは、後ろ向きなのに全速力で走っていた。エミリーの走りとシナモンの飛行のコラボだ。メアリーポピンズのオウムの頭の柄のついたこうもり傘とは違う。空を飛ぶのではない。横向きなのだ。雨のときなど、本来の用途のその傘が開くということがあるのだろうか? なんとも奇妙な使い方だ。でも、その速さは残念ながらとびっきりとは言えない。単独なら、普段はマッハ級のスピードで走れるエミリーだが、シナモンと、ルークとナオミ、三人を従えてでは難しい。しかし、「走れメロス」よりも速いかもしれない。もし、新聞屋か朝の配達人の誰かがそれを見たとしても、(うん、今なにか通ったか? いや風かな?)と思うだけだ。スーン! といった風に、風を切ってあっという間に駆けぬけてしまう。いつのまにか、エミリーは前向きになった。タカの柄の頭を右手でつかんで、傘をわきの下にはさんだ。ナオミは右手は傘のまん中に、左手はエミリーの肩へ、ルークも同じく右手は傘の先を、左手はナオミの肩におかれた。エミリーは、まるでスピードスケート選手のように走る。
「ホホー、ホー。前を向けばもっと速くなるわ。まだまだ現役だねぇ。あれ、なに言ってんだろう。私はもうこの世にいないんだった。あんた達、ほれ、しっかりとね! ついてくるんだよ。あんた達には、まだ私のほうの世界には来てもらいたくないからね。人間は、その六十兆以上の細胞が全部納得して死ななきゃあ意味がないの。つまり、草が朽ち果てるように花が枯れるように……それまでがんばるのさ。それが理想だね。あとは、運命が決めるの。私みたいに、まだまだ魂の細胞を酷使しているなんてね。我がポポンス家は、こういう運命だからさ。メリーズショップは永久に続くんだ。ナオミ、ルークもそう思っていておくれ、お願いだからね」
「エミリー、そうだね。わ、わかったけれど、いつまでこの状態で走るの?」 ルークは少し不安になった。(こんな速さで、走っているのか飛んでいるのかもわからず……俺達はだいじょうぶなのか?)
「ほれ、もう着いたよ」
 エミリーが急ブレーキをかけたので、ナオミの顔がエミリーの背中にぶつかった。ナオミの背中にルークがぶつかった。
「痛いよ、ルークの石頭!」ナオミは、背中をさすった。 
「俺だって鼻を打った。そっちはだいじょうぶ?」ルークは鼻に手をやっている。
「ほれほれ、ぶつくさと言ってないで、ここだよ。玄関からは無理だから、壁をすり抜ける」
「まじー! 今度はどうやるの?」
 ある大きな家の庭に来たことはわかるが、ここがどこかはルーク達も知らない。ルークの言うことには答えず、エミリーは傘を持ちかえて両手でそっとにぎり、タカの頭のくちばしのところで、(コン、コン、コン)と、ある一つの壁を叩いた。すると、シナモンが、「ここです。たぶんまちがいありません」と言う。
「ほい、それじゃあシナモン、お願いね。まちがったらフルーツはないよ」
「アイアイサー」
 エミリーの言うことに答えたシナモンは、その白い壁にくちばしで円を描くように線を引く。エミリーの右手もシナモンとともに、円を描くように大きく動いた。すると、不思議なことに、その円の中にぽっかりと穴があいた。
「ナオミ、ルークここから中に入るのよ。早くして。これはね、十一・一秒で閉じてしまうんだ。早く早く」
 エミリーに急かされるままに部屋の中に入った。ルーク達もその家の全体像をよく見ていないので中の様子はわからない。ナオミを先に入れて、ルークも穴に飛び込んだ。まもなく、十一・一秒後、壁はきれいに閉じて元の白い壁に戻ってしまった。
「ここは、どこなの?」ナオミは、目を見張った。
「ここは、サリーの住んでいる児童養護施設だよ。静かにしておくれ。皆はまだ起きてこないはず。食堂は離れたところにあるからまだだいじょうぶだ。モーニングのスタッフに見つからないようにサリーを起こして、このミーティングルームに連れてきてちょうだい。その廊下に出て斜め向かい側の八号室、今はサリー一人の部屋だからね。でも驚かさないように、そっと起こすのよ」
 言われるままに、ルークとナオミはミーティングルームと書かれた部屋から出た。ルークは廊下で見張っている。少し緊張した。誰かに見つかったら困るけれど、そのときは、妹が緊急の用事でサリーのところへ訪ねてきたとでも言うつもりだ。ナオミは、恐る恐る八号室のドアを開けた。臆病なナオミは、少しドキドキとした。
「ごめん。起きていないよね? おはよう」(もし、起きていなければやはりドアは閉めよう)と、ナオミは思っていた。
「おはよう! ナオミさん、私、起きてたよ。それに来るのもわかってた。だってね、今朝すごい夢を見たんだよ。びっくりして早くに起きちゃったの。死んじゃったママが夢にでてきて、(サリナ、起きなさい。今日はいいことがあるの。だから今起きるのよ)って言うんだもん。それから、ずっとなにが起こるのかな? って考えてた」
「ごめんね。でもね、エミリーに言われて、ルークとここに来たんだ」
「へぇー、お兄ちゃんも一緒なの? 後ろ向いてて。今ちょっと着替えて外に出るね」
 サリナは、パジャマをワンピースに着替えた。今日は、ママが好きだったオレンジ色の花柄ワンピースにした。
「ところで、ナオミさん、エミリーってだーれ?」
「ナオミでいいよ。エミリーはおばあちゃまなの」
 さすがに、ナオミはエミリーひいおばあちゃまとは言えなかった。(いいや、おばあちゃまは生きているということにしておこう)このことは、ポポンス家の秘密なのだ。二人の女の子は、外の廊下へ出た。ルークが「エミリーがミーティングルームへ来てって言ってたよね」と、言いながら斜め向かいのそのドアを開けた。
 三人が、ミーティングルームで見たものは、先ほどの部屋とは違い全然違う部屋となっていた。それは、普通の家庭のリビングルームのようだ。ぬくもりの感じるハンドメイドのカントリー調の家具の数々……その明るい木目の色が居心地のよさをかもしだしている。パッチワーク・キルトが床に、ソファのカバーにもあって、また壁にはタペストリーも飾られている。それは、規則正しい万華鏡の中のうつくしさに似ていた。太陽が昇りはじめるころには、窓ガラスから反射するだろう光は、今はまだ外は暗いはずなのに、なぜかそこだけ、それらをより特別な光の輝きで引き立たせていた。
「わぁー、すごいよ。本当にすごい。ここ、私んちだよ。トルネード(竜巻)に吹き飛ばされてなくなっちゃった私の家。なんだか夢みたい」
「そうなんだ。すてきなリビングだね。あったかーい雰囲気があるもの」
 サリナは、ゆっくりとリビングルームに入ると、一つひとつ、懐かしいパッチワーク・キルトを触りながら歩いた。壁に掛かっていたタペストリーを、しみじみと眺める。
「教会のステンドグラスみたいなこのキルト、私好きだったんだ。ママの作ったものの中でも一番、手がかかったものだって言ってた。わぁー! このソファに、また座れるなんて、夢みたい。もちろん、これ夢なんだよね。だってもうこのリビングも私の家も、壊れちゃってないはずなんだから。夢でもすっごくうれしいよ。絶対覚めないでって思っちゃう」
 ルークも驚いて、ポカンとした顔でソファに座っている。ナオミもサリナと一緒に、部屋を眺めながらため息をついた。そしてナオミもなんだかうれしくなった。(エミリー、ありがとう。イカすことをするじゃない)エミリーの姿はどこにもなかった。
「ねぇ、これ見て……これは、サリーが大好きなブルーのギター。私はあんまり弾けないけれど、パパはすごくじょうずでね。また、聞きたいなぁ」
 すると、その深い海の色をしたブルーのギターが、勝手に音を鳴らしだした。それに合わせて、ギターがゆっくりとくるくると床の上を優雅にダンスしだした。
「二つのギターっていうの。パパがよくここで弾いてた。これを聞くとね、ジプシーみたいになるって言った。きっともっと旅もしてみたかったんだと思う。パパ、学校の先生ではなくて、本当はね、ミュージシャンになりたかったんだ。でも、地元の学校にお勤めしなくちゃ、ママに出会えなかった。サリーと弟が生まれてしあわせなんだよ! ってそう言って……」
 そこで、サリナの瞳に涙があふれてオレンジ色の洋服にこぼれた。
「泣かないで、サリー。今、エミリーを呼ぶね」
 ナオミの言うことに、(余計なことを言うな。そもそもこのわったし! 私はこの世に存在しないんだ。今、忘れてるんだからそれでいいんだよ。秘密でしょ)と、エミリーの声がルークの耳に、ナオミにも聞こえた。ギターが止まり、間髪をいれずに、壁にあったタペストリーのキルトが風もないのに揺らいだ。その中心にデザインされていたグリーンのゲッコウ(やもり)がしゃべりだした。
「なに、泣いているの? そんなに悲しまないでよ。僕はこの家にずっと住んでいたゲッコウだよ。この家を守っていた。今はね、この世界にはいないけど、君のパパとママ、弟のポールと一緒にいるよ。僕はいつもここにいて、いつも君も見てきたけれどこんなに地味だから、君も気づいてくれやしなかった。つまらない。まったくだ。でもね、ときには、こんなすごい力もあるんだ。いい、ここから宇宙に向けて、まだ暁の大空にぽっかりと穴を開ける。このリビングから、君が見えるものがあるんだ。見てごらんよ」
 そのリビングの上の屋根はもうなかった。
「わぁーー! すっごーい、まだ星もたくさん光ってるよ」ナオミが感嘆の声をあげた。
 ルークもソファから立ち上がっていた。サリナは、涙を両方の手でぬぐいながら、ゆっくりと立ち上がってその大空を見上げた。うっすらとしたまだ暗い幻想的なその空に、またぽっかりと白くまん丸い穴が開いた。そこから、三人の人が覗いている。
「ママだ。ママ、すごく会いたかった。ママ!」
 その後ろには、パパが後ろからつきそうように顔を覗かせている。弟はおんぶされているのか、パパの肩から顔を出していた。三人ともほほえんでいる。幸福そうなほほえみだ。その周囲には、あたたかい感じがするイエローとオレンジ色のオーラが立ち込めていた。
「ママ、みんなそこにいるのなら、私だって一緒にいたいよ。どうして私だけがここにいるの?」
「サリナ、私は今はここよ。あなたがこちらに来るのはまだ早いの。あのときは、あなただけがお友達の家にいて、ここにいなかったから助かった。でも、それには意味があるはずなの。夜と昼があるように、月と太陽があるように、闇と光が……それはね、どちらの世界もともに進んでいる。あなたと私、パパもポールもあなたとともに歩いている。ただ、その世界が違うというだけなの。いずれは、会えるときがあるけれど、今はあなたがそこで選ばれている以上、そこで一生懸命に生きなさい。ママはいつもあなたの中にいます。あなたには希望がある。私達の分も、そちらの世界で自分がやりたいこと、やれることを思う存分にやりなさい。後悔をしないように、たのしむのよ」
 サリナのママは、まだなにかを話しているが、もうルークやナオミ、サリナにさえ聞こえなくなって、その声は遠ざかっていた。パパもポールも、(バイバイ)というようにその右手を振っていた。
「嫌だよ。やっぱりママに頭を撫でてもらいたいし、パパのギターも目の前で見たい、弟だって……ポールも抱きたいよ」
 消えていくサリナのママ、パパとポールの背後から、突如、鳥のつばさを持った空を飛ぶ馬が躍り出てきた。薄暗い空……今度は、そこだけがきれいなブルースカイになり、その黄金のペガサスは、気持ち良さそうにつばさをはためかせている。大空をひと回りして、その首を上げて、ひと声いなないた。
「あっ、この馬は、私の家のとなりんちの牧場で飼っていた馬。おじさんは、助かったからおじさんにも会わせてあげたいなぁ。無理だよね。だって今だけなんでしょう? この馬の名前は、ジャズって言うの。私もポールも大好きで、よく牧草やにんじんもあげてた。おじさんにたのんで、その背中に乗せてもらったこともある。大きいけれど、その目がすてきで、とってもかわいいんだよ。もう一度、会えるなんて思わなかった。あの大きな台風のあと、ジャズは倒れて死んじゃったの。私、家族のことも悲しかったけれど、ジャズがいなくなって、もっと悲しくて毎日泣いてばかりいた。辛かったなぁ」
 その黄金のペガサス……ジャズは、サリナのとなりに飛んできた。ジャズの周囲には、黄金の体よりも光り輝く、不思議な透き通るオーラに包まれていた。
「どうぞ、僕の背中に乗ってみて」
「えっ! ジャズが口をきいた」
 サリナは、一瞬驚いたが、(これは、やはり夢だから)と自分に言い聞かせて、座るようにしてかしこまっているジャズの背中に乗った。
「懐かしい、あったかいジャズの背中と首。いつも、私のほっぺに自分のほっぺをつけてくれたよね」
 その首に手を回して、そのぬくもりにサリナはうれしい気持ちでいっぱいになった。ナオミも驚いたが、エミリーのしわざだ! と思っているから黙って見ていた。ただ、ジャズがあまりにも凛々しくてすてきなので、見とれていたのだろう。サリナを乗せたジャズは、きれいなブルースカイのそのまた向こう、星の散りばめる大空を自由に飛び回った。まるで、本物のペガサスのようだった。大空の彼方に、ぽっかりとあいた白くまん丸い穴は、遠くになって行く。かすかに見えるサリナのママ、パパとポールの顔がもっと遠くになっていく。
「ジャズ、お願い。あっちへ連れて行って! もう少し高く、飛んでいきたい」
「僕は、これからあなたの家族とともに、あちらの世界にいます。心配はしないでください。あなたは、まだここでやらなければならないことがあります。僕は、ここからいつでもあなたを見ています。いつまでもあなたのしあわせを願っています」
 ジャズは、ゆっくりと元の場所、リビングルームへと光とともに降り立った。サリナをおろして、ジャズはすぐにまた、かすかに星の輝く空へ帰っていった。
「もう、みんな、会えないの? 夢でもいいから、ずっと会いたいし、一緒にいたいよ」ナオミは、泣いているサリナの頭を撫でていた。
「私、エミリーとはいつだって会えるんだ。当たり前だよね。おばあちゃまだから。でもね、頭を撫でられたことがないの。うまく説明できないんだけれど……。どんな人も、大切な誰かと別れなければならないということは、いつかは誰にでも平等にあるんだと思う。だけど、その魂は、絶対にいつも近くにいるんだよ。自分が愛している人は、家族はね、サリーの近くにいつもいて、守っているの。私はそう信じてるよ。ね、ルーク!」
「おい、だいじょうぶかよ。そんなこと言っちゃったーってか」ルークは小さな声でナオミに言った。
「だいじょうぶです。これは、現実でもあり夢です。夢の中であり、でも真実も語ります。コホン!」と、キルトのグリーンのゲッコウが言った。ゲッコウは、かわいらしい大きな目をグルグルと回した。
「私の仲間は、いつもどこにでもおります。サリー、あなたの部屋の窓や、お近くに私の仲間が現れたときは、暁の時間、この日のことを思い出してください。このまま、あなたが悲しいというままだと、私もずっと鳴かなくてはなりません。毎日を元気よく、たのしくやっていきましょう」
 そのゲッコウは、(ケコケコケコ、コケタ、コケタゲッコウ!)と鳴いて消えてしまった。それと同時に、暁の大空にぽっかりと開いた穴も、イエローオレンジ色のオーラもなにもかもすべてが、すっかりと消えてしまっていた。見上げてもそこには、閉じたリビングルームの天井があるだけだった。泣いたあとのサリナは、ママと話すことができてすっかりと落ち着いていた。
「家族がいなくなって、その悲しみや空しさを乗り越えるなんてずっとできないって思ってた。でも、たぶん、ママやパパもポールもそして、ジャズも、今ここにいないのであって、実はちゃんといるって……サリーと違う世界にいるってわかった。完全に納得するのは難しいけれど、なんとか乗り越えてみせる。また、いつか今度、ママに会うときには絶対に、サリナは偉かったね、がんばったねって頭を撫でてもらうんだ。そう信じてがんばる。ありがとう。ナオミ、ルークも!」サリナは、今度こそ強くなれる気がした。
「そうだよ。少しずつ乗り越えていこう。ナオミも一緒にずっと友達でいるからね」
「ねぇ、この部屋はずっと見ていたいけれど、これ夢なんだから無理なんでしょう?」
「さぁ、そうかしら。わからないけど思い出は残るわよ」ナオミは、エミリーがなんとかしてくれる! と思った。
「ところで、ナオミのおばあちゃまだっけ、エミリー? どこに行っちゃったの?」
 ナオミは、ドアの側に立っていたルークの顔を見た。ルークは、頭を振っていた。余計なことはしゃべるなよ! というジェスチャーだ。困ったな、どううまく言おうとナオミは考えていた。そこで、このサリナの家のリビングがすっと消えた。部屋はもとのさっぱりとしたミーティングルームに戻っていた。サリナもいない。きっと自分の部屋で、眠っているのだろうか? 現実が消えた。どちらが夢で、どちらが現実なのかが、ナオミもルークにもわからなくて頭が混乱した。ようやく、霧が晴れるように目の前が少し明るくなった。もう朝日が昇る時間だ。窓側の壁にはエミリーが立っていた。
「さぁ、帰るのよ。皆が起きる前、学校に間に合う時間には帰らなくちゃ。私も戻らなくちゃやばいでしょ。帰りは飛ばすよ。覚悟して!」
「エミリー。不思議なすごいマジックを使ったでしょう? サリーは、夢だけの思い出でも宝物だよね。救われるよね。ありがとう。やっぱりすごいよ、エミリーは。尊敬しちゃう」
「なに言ってるんだよ。とにかく急ごう。早くまたこの傘につかまって! 行くよ」傘の柄のシナモンは、黒い胴体を震わせて身震いした。
「壁は開けておきました。十一・一秒で閉じます。お早く願います」と、そういうシナモンにエミリーがはっぱをかける。
「間に合わないと、あんたも私も困るでしょ。銅像になれないの。休めないじゃないか。超気張ってちょうだい。シナモン!」
「アイアイアイサー」
 シナモンの勢いは、来たときよりもすごかった。先頭のエミリーがスピードスケートの選手のように腰を落としてすべるように走る。いや、走っていない。足が回っていないのは、シナモンが飛ぶからだ。エミリーが単独で走るときのほうが速いが、それに負けてなるものかというシナモンの、一段と気合が入っていた。シナモンの頭はエミリーの右の脇から出ていたが、しっかりと抱えられている。左手は、スケート選手のように振っていた。それで、そのすぐ後ろについているナオミも右手は傘の胴体を持って、左手は振っていた。ルークも傘の先をしっかりと持って、左手は同じように調子をとって振っている。ありえないスピードスケートのムカデの形のようだ。
 暁は、もう東の空がうっすらと明るくなりかけていた。シナモンは全速力だ。(危ない、学校の塀にぶつかる)と、そう見えて、ナオミは目を開けられなくなった。ルークも黙っている。皆が元の家の裏庭に着いたときには、もう太陽が地平線を昇ってくるところだった。
「危なかった。早くしなくちゃ! それじゃまた今晩ね」
 あわててエミリーは、大きなバッグとタカの頭の柄の傘をつかみ、足を車輪のようにして、すごい速さで過ぎ去ってしまった。ナオミもルークもなにも言葉をかけられなかったほどだ。また、今晩も仕込みに来てくれて会えるからいいかと、ナオミは思った。
 その日のメリーズ・ショップは、そこそこ忙しくて充実した一日だった。夕方になって、サリナはやってきた。学校からの帰りで、おとなりのヒーリングルームからではない。その顔は、生き生きとしていた。
「あのね、朝方、ルークとナオミが私のところに来た夢を見たんだよ。だから報告に来た。それがねぇ、すっごい不思議で、夢なのに、夢じゃないみたいなんだ。正夢みたい……でも本当なんだから。驚きなんだ。もうなんにもなくなっちゃったはずなんだけれど、見つかったものがあってね。それが、昔の私の家のリビングにあったタペストリーなの。グリーンのゲッコウがまん中にあるキルトなんだけれど、どうやら奇跡的に残っていたらしいの。今日ね、私の部屋に届いてた。それだけが風で飛んで破壊されてなかったんだ。ある家にあったんだって。それから、アルバムがぼろぼろだったけれど、ひとつ見つかった。今頃、届くなんてね。それにもっと不思議なのは、今朝、起きてキッチンにいったら、ジンジャーブレッドがあったの。死んじゃったママの得意だったお菓子なんだ。どのスタッフが作ってくれたのか知らないけれど、偶然でもすごくうれしかった。ママがいるみたいに感じた。これね、少し持ってきた。ここでもこんなおいしいジンジャーブレッドを、作ってほしいな」
 サリナの顔から笑みがこぼれた。ナオミは、サリナの差し出したジンジャーブレッドの一つを少し割って食べた。すぐにナオミは感づいた。でも、もちろん言わなかった。
「おいしいね。うちの店でも出したら売れるね」ナオミはウインクをした。そう、これはエミリーの作ったものだ。
 粉に重曹、スパイスとジンジャーパウダーを合わせてボウルにふるい入れてまぜ、レーズンも入れる。バターや砂糖、黒蜜に溶き卵を溶かして加える。それを型に入れて、オーブンで焼くのだ。シナモンももちろん入っている。丸い型に入れて焼いているので、これは小型パンケーキの形に似ていた。(そうだ、エミリーのは、妹のメアリーと同じ、星型が得意だったっけ。それに金色の折り紙を星型にくり抜いて、温かいうちに上に飾ることもあった。それで、夜の空に金色の星をいっぱいにはりつけるというのも聞いたことがある。それ、やってみたいな!)
「あのさ、この週末、ここでこれを作ってみない? 私も練習してみたい」
 ナオミは夜とは言わなかった。サリナには知られてはいけない。でもサリナとジンジャーブレッドを一緒に作ってみたかった。その夜に、エミリーに、食べてもらうのがたのしみだから。
3 ケントの悩み
 ケントは、無性に腹が減っていた。学校の部活帰りに、そんなときはメリーズ・ショップに寄り道してしまう。マリーリバーを渡る自分の家まで、我慢できない。
「おーい、ルークいる? 腹減ったー。いつものやつ、ダブルでね」
 今は夏休みだから、ルークは毎日働いていた。いつものやつというのは、ホットドッグのことで、ダブルとはふたつ食べるということだ。
「オニオンとチーズ入れとくかい? ドリンクは冷蔵庫から取ってくれよ」
「おう、OK!」
「学校のホリデーで働いてる自分も嫌になっちゃうけど、おまえも毎日がんばるなぁ……感心するよ。今度の試合には、勝てそうかい?」
 ルークは、自分よりはるかに逞しい体つきのケントが、うらやましく思うこともある。スポーツ万能なケントは、十歳からバスケットボールをやっている。最初は、友達に誘われてこの町のサークルに参加した。中学からは、そこの部活に入りバスケを続けてきた。そのまま高校に進み、そこそこの強いチームに成長して、この町代表で州の大会にも行った。予選で敗退したが、最近はほかの地域から親善試合を申し込まれることが多い。
「自分も実は、嫌になっちゃうよ。今の俺は、たぶんチームから抜けることはできない。キャプテンからは逃げられたけど、俺のシュートフェイクやボディフェイクをまねできるやつ、いないんだ。ドリブルはうまいやついるけど」
 ケントは、ルークが手渡した白い紙袋に入ったホットドッグをほおばった。
「相変わらずまいうー! おまえは絶対この仕事、向いてるよ。なんでもうまいもんな」
「次のドッグ、皿に置いとくよ。そうかなぁ、俺には選択の余地なく、この家業をやらないといけないから、バスケに夢中になれるおまえがうらやましいさ」
 勝手知ったる他人の家で、ケントは冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して、一口飲んだ。そしてまた、ホットドッグにがっついた。それからカウンターに座り、ルークの手馴れた様子で淹れるコーヒーを見ていた。客は外の席にひとりだ。あと三十分ほどで、店は閉まる。
「俺、この時間になるとほっとするというか、でも最後のテンションを上げるんだ。一日が無事過ぎたと思うとうれしくなる。けど、店を閉めるまでは気を抜かないようにと、そのあとの始末に、それから仕込みもあるからね」と、ルークは言いながら、エミリーの顔が頭に浮かんだ。
 このメリーズ・ショップで、もっとも大切で面倒なことを、裏でエミリーが仕切っているからルークがやれるのだと自分でもわかっている。だから、昼間のここでの仕事、コーヒー一杯、パンケーキ一つでも丹精を込めて作った。ケントは、皿の上のホットドッグをたいらげた。首に巻いていた汗ふきのタオルをほどいて、顔を拭いた。ため息をつく。
「充実はしてるよな。でも、おまえは将来がわかっている充実さ。俺は、このままでいいのかな? 受験もどことか……全然決めてないし、なにをしたいのかも漠然とで、わからない。理数系はダメだし、そこまで頭よくないし、バスケもそこそこで抜群の運動神経というわけじゃない。つくづく、俺、なにやってんだ! と思いながら、学校で、横の机のやつが受験のための問題集をやってるのを見てる。来年は受験だと思うと、バスケもしおどきかなぁと考えるわけ。やめられないんだけどね。両立は難しい」
「現実と理想ってわけ! でも、バスケやってるときは、おまえはすごいカッコよくてうらやましいさ。試合のときも、女子がキャアーキャアーとか言っちゃって。そんなの、俺にはありえない。そういう経験って貴重じゃない?」
「そんなのは、いっときのもんだろ。俺の将来のためのものとは関係ない気がする。俺、来年せっぱつまってから受験勉強するのは嫌だし、でも今すぐは、チームのことを思えばバスケもやめられない。辛いよねぇ。バスケやってるときは、全部忘れていられるんだけどさ」 
 ケントは、ルークにはまだ言っていないが、今度の試合後は、しばらく部活を休ませてほしいとキャプテンに伝えていた。キャプテンには「もう少し続けてほしい。せめて来年に入る後輩が育つまでは、ぎりぎりまでやってほしい」と、説得されていた。ケントは悩んでいた。受験勉強がやりたくてそっちがいいわけではない。でも、こんなことをしていたら、受験戦争から取り残されていく気がする。家にはルークみたいに家業があるわけではなく、親もケントが長男だということでその将来に期待がないわけではない。いやがおうでも、大学に進学しなくてはならないと思う。今が大切なのではないか? 部活やほかのことをやっていて、受験に失敗したという話はよく聞く。浪人などは嫌だ。タバタ家の経済的にも難しいだろう。ケントは、ドリンクを全部飲んで、またため息をついた。ルークは、ケントの様子に、少し疲れているんだなと感じた。
「まっ、できるだけ、おまえらしくがんばれよ。なせばなるさ。方法は見つけられるさ」
「ありがとさん、そうだな、そのうち、なにか見えてくるよな。来週の試合に向けて練習にがんばるよ」
「観にいけたら、ナオミと行くよ。気をつけて帰れよ」
 ルークは、バスケのユニフォームのまま自転車に乗って走り去るケントを見送った。今日も一日が平穏無事に過ぎた。それでいい、それが一番だと、エミリーから、またサラおばあさんからもそう教えられてきた。落ち着いた生活なのに、それでなぜパパが出ていったのかルークは理解できなかった。ケントの話を聞いていて、今のルークには、その父親の気持ちが少しだけわかるような気がした。
 パパは、人生が終わる前に、まだやりたいことが残っていたんだ。迷っても、家族よりも大切に思うことだったのかもしれない。この家族は、エミリー達がいる限り、まったく心配がないのだ。きっとそうだ。男としてなにかをなし遂げたかったんだと、ルークは思った。ルークがそう思っていたころ、自転車に乗ったケントは、エミリー・ポポンスの銅像の付近に差し掛かっていた。自転車をちょっと停止させて、誰もいないのを見計らい、その背中をポン! と叩いた。ケントは「自分に気合を入れてもらいたいもんだよ」と、つぶやいた。
 ケントは、夕食前にシャワーを浴びたので、母親のリカが用意した食事も全部食べた。一日を練習で過ごした日は、ランチも軽いので、夕方からはいくらでも腹に入る。ホットドッグなどは、おやつのようなものだ。しかし、その後はどうしたって睡魔が襲う。到底、すぐに勉強するなど難しい。今日も、やっぱり、少しだけ寝る! のつもりがすっかりと眠ってしまっていた。それでも、夜中の十二時過ぎには起きた。ケントは、シャツとGパンを脱いだ。とにかくTシャツのパジャマに着替えようとしたら、後ろ前が逆だった。寝ぼけている。
「くそっ! いつもだよ。あきれるね」
 途中で起きて、勉強しない自分に腹が立ったのも手伝い、ひとり言でぼやいた。Tシャツから腕を抜いて首で回した。
「なーに、ひとりで腹立ててんのっちゅうの。ほーんといつもだね。寝てしまうのも!」
「わわーぁ、誰だ? 気味悪い」
 ケントの部屋の窓が開いていて、そこから変なおばさんが覗いていた。
「ちょっと、あんた、さっき、私の背中を叩いたでしょ。だから、あんたに気合を入れにきたんだ。驚かなくてもいいわさ。そのTシャツ、前も後ろも同じ、同じ生地に変わりなし……気になれば気にする。気づかないでいればそれもよし、そのまま朝まで着ていることになる。外でも、それを気にするかどうかだ。人の価値観や見方は人それぞれ。あんたがどうしたいか……なの」
 変なおばさんは、そう、エミリー・ポポンスだった。ケーキを焼いている時間の合間に、全速力でここへやってきた。
「そうか、俺はまだ、寝てるんだな。夢を見てるんだ。銅像のおばさんがなんでここにいるんだよ!」
 ケントは、自分の頬をつねった。「いてっ!、まじかよ」
「なに、言ってんだよ。私に気合をいれてもらいたいんでしょ。わざわざ来てあげたんだから、ほら、ついておいで。そこの公園に行くよ。準備して待ってるからね。早くして」
 エミリーはもう、窓の外にはいなかった。その速さは、瞬間移動のようだ。ケントが開いている窓から覗いたら、ケントの自転車が外の木に立てかけてあった。ケントは、あわてて自転車にまたがり、公園へと急いだ。さとうきび畑の間を駆けぬけ、マリーリバーの橋を渡り、メリーズ・ショップの前の公園へ着いた。道路を渡って、店の前に自転車を置いた。メリーズ・ショップはまっ暗で、ルーク達も眠っているのだろう。とても静かだ。銅像のおばさんにそっくりだとケントが思うエミリーは、もうここに着いていた。
「ちょっとね、仕事があるのよ。今、こと! が起こるからね。ここで待っているのよ」と、エミリーは言ってメリーズ・ショップのほうへ消えてしまった。どうせ、これはなにかの夢なんだ。だいじょうぶ、きっとそうだと、ケントはもう一度自分の頬をつねった。(いたいよ……まじか!)
 メリーズ・ショップの中へ消えたエミリーは、キッチンでクルミのケーキをオーブンから出した。竹串をまん中にさして、生の生地がついてこないのを確認する。
「今日は、とてもじょうずにできた」と、エミリーはにんまりとした。
 粗熱をとり落ち着かせるため、取り出したケーキをそのまま少し置くのだ。その間に、冷蔵庫に入れておいたカスタードクリームの状態をチェックした。それから、ケーキを皿の上にのせた網にうつし冷ます。
「いーんじゃねぇ!」と、エミリーは満足げにキッチンから外へ出た。
 エミリーは表の公園へ出て、ポカン! としているケントに「さて、はじめるよ」と、言った。
 目の前の公園では、いくつかの大きなノーフォークアイランドパイン(すぎの木)がサワサワと動きだしていた。それは、十メートルはある十本ほどの木々達で、すべての枝が天上に向き、葉もすっと上がっている。きれいな三角すいの形をとり、大きなクリスマスツリーに似ていた。木は、ゆっくりと公園の中心に動いてきて、五本と五本で右と左に分かれたと思うと、クルクルと回りだす。それらになにかが寄生していくように、木達がダンスしながらだんだんと太くなった。こちらでは、単独の木になにかほかの植物が寄生するのはよくあることだ。だが、スピードで寄生するのはありえない。次の瞬間に、木は消えた。寄生していたと思ったのはそこに抱きついていた人間だった。人間のツリーだった。ケントは驚いて、もっと目が覚めたようだった。さっきも、頬をつねった……これは、夢か幻か? 俺、だいじょうぶかなと、怖さはないが不安になった。
 それぞれの木が人間にチェンジしていく。その顔が、最初はカリーム、えっ、あのカリーム・アブドゥル・ジャバーだ。伝説のセンタープレイヤー。その次の木がチェンジした。デューク大学時代のクリスチャン・レイトナー、それから次は、カール・マローンと、仲がよい連携プレーをするジョンもいる。レジェンドと言われたラリー・バードにキングコングという異名のパトリックが……左利きのデビッド・ロビンソンとシカゴ・ブルスのスコッティってか、これなら次は、絶対でてくるだろう? スキンヘッドが見えた。金メダルの得点王、マイケル・ジョーダンさ。ケントは驚くばかりだった。
「悪いね、少し古い。あたしゃ今の選手は知らないの。でもさ、マイケルはすごいね。やっやっぱり天才的だわさ。私の最近の記憶では、バルセロナのドリームチームが最高だわ。ドリームだって、夢だわね。夢でわね、私はバルセロナまで行けちゃうのよ。オホホ……。バスケットの神さまは、自分ひとりでプレーしているわけではないってちゃんとわかってる。だから、成功に力を貸してくれた人達に借りがあると考えている。それをわかち合うべきであると思ってるんだよ」
 ケントの目の前の公園が、すばやくバスケットコートへと変わり、どこからか、バスケットボールが飛んできた。そしてドリームチームが、相手方のチームと試合をはじめた。相手方とは……カルロス、スティーブン、ベンにマーティン、そしてケントだ。
「そこ、パス、そしてドリブルだ。ディフェンスを抜け、ゾーンに入り変身だ。行け! シュートだ」と、エミリーがなにやら叫んでいる。
 あの独創的なドリブルステップから、レイアップですばやく得点をとる。華麗なフォームだ。ほかの選手ができないディフェンダーをかわす、空中ダンス……フェイクだ。ダブルクラッチ、これは俺の得意技だ。俺の想定よりも早くボールが動く。マイケル・ジョーダンのスラム・ダンク! すっ、すごい!あの場面、俺達の昨年敗退したときのあの場面に変わった。最後だ。あの屈辱の場面だ。目の前のコートから、ドリームチームがいなくなった。あのときの相手チームの面々だ。州大会の予選だ。相手のペナルティーで、フリースローとなり得点のチャンスを得た。それなのに、ケントは失敗した。馬鹿だ。プレッシャーに負けた。普段の練習不足だと思う。フェイクシュートなんかいらない場面で失敗した。
「なに、やってんだ。ケントの出番だよ」
「嫌だな。できないよ。これ、大失敗した試合なんだぜ」
「いいから、やってみな。夢は早く覚めちゃうよ」
 ケントは、バスケットコートになってしまった公園へ走ってきた。コートの中のケントにケントが重なる。コートの外にいるエミリーに言われるままに、フリースローラインに立つ。深呼吸をして、まっすぐ素直に、シュートを決めた。
「逆転だぁー」ケントは叫んだ。
 エミリーが拍手した。それから、いつの間にかそこにいる観客が拍手をしている。相手のチームの面々の顔が悔しそうだ。だが、そのうちの一人が、またマイケル・ジョーダンになった。ほかの顔は、また少しずつ元の木に戻りながらクルクルとゆっくり回りだしている。観客は消えた。バスケットコートはもうない。背番号の二十三をつけた尊敬すべきバスケの神さまのマイケル・ジョーダンが言った。
「私は、人生で何度も失敗してきた。でも、だからさ、成功するんだ。やりたいことがやれるなら、やれよ!」
 そして、スーッと消えてしまった。最後の木が、ゆっくりと回りながら公園の元の場所へと移動していった。
「樹木のスペクトルは、皆、違うんだわ。人もね、皆違う。背番号二十三て、マイケルが小さいころに、バスケのじょうずなお兄ちゃんを超えたいと思ってもらった番号なんだってさ。私もその気持ちはよくわかる。いつも双子の姉妹で比較されてきたからね。どんなことでも、バネになるものさ。リベンジしたいんだろう? 次の試合もがんばって。やれることをやってみなさい。後悔をしないようにね。続けられないって思うより、やれるだけ進んでいこうのほうがいい。失敗を恐れずにね。マイケルも言ってるでしょう。失敗があるから成功もあるのよ。あなたらしく、やれるところまでやってみなさい。あっ、そうそう、寝ちゃったら、毎晩十二時に私が起こしてあげるから心配しなくていいわよ。ホホホのホー」
 エミリーはそう言って、メリーズ・カフェのほうに行ってしまった。
「あら、いけない、クルミのケーキをほっといたわ」と、つぶやいた。
 ケントは、しばらく呆然としていたが、自転車に乗ってマリーリバーを渡って、確かに自分の家へ帰った。ベッドに入る前に、もう一度だけ! と、ケントは自分の頬を叩いてみたが、やはり痛かった。ケントは首をかしげた。そして、すぐに寝てしまった。
 次の日の部活、バスケの練習はハードだったが、ケントは体のコンデションもよくてたのしかった。昨夜は、あれから熟睡した。朝、起きたときは、とてもさわやかな気持ちになった。部活を終え、夕方一目散に、メリーズ・カフェに向かった。ケントは、ルークに昨夜のことを……夢を話したかったのだ。
「それで、突然夜中におまえんとこの窓にやって来たおばさんが、あの銅像に似ているっていうわけか。それが、この家に出入りしてるように見えたっていうわけ。まあね、俺んとこは、八十年やってる店だから、ましてや、ポポンス家とあの銅像はゆかりがあるわけだし、俺は驚かないよ。昔、真夜中にキッチンで音を聞いたことがある」
 ルークはそう言って、両手を前に出した。ゴーストがでるというジェスチャーだ。
「冗談じゃないや。とにかく、これは夢だったんだ。朝、ちゃんと起きたんだから。でも、みょうにリアルで不思議だったんだ。超気分よかったー。あの前回の試合さ、失敗したときの、フリースローで得点を決めたんだぜ。マイケル・ジョーダンは出てくるし、最高の夢だったな。究極のテクニックは目の前で見れたし、うれしかった。起きたときも最高の気分が残ってるわけ……」
 ケントは、なにかをふっ切れたかもしれないと、ルークは思った。
「よかったじゃないか。とにかく気分よかったんだし、今日のおまえは、いい顔してるよ。
お疲れさん、ケーキ、サービスしておくよ」
 ルークは、グッド! と右手の親指を立てた。
「サンキュー、甘いもの、疲れたときはうまいよな」
 そう言って、ケントはスライスされたクルミのケーキにフォークをさした。その晩のことだ。ルークは、エミリーが現れるのをキッチンで待っていた。エミリーがやってきたのは、いつもの時間より少し遅い七時だった。いつもと同じように、帽子とジャケットは、木製の洋服かけにかっこうよく掛けた。アイロンでパリッとさせた白いエプロンをつけて、キッチンの中ほどに入る。
「エミリー、ケントになにかしたでしょ? あいつは、喜んでた。自信をとり戻したみたいで、今度の試合もたのしみだって言ってた。よかったけど、あんまりばれるようなこと、しないでくれよ。困るでしょ。たのむよ」
「フフン! あらやだね。メアリーと同じくせがでちゃった。よかったんだからよし! だよ。ルーク、心配ない」
 小麦粉とショートニングをまぜだしたエミリーは、パイ生地を作りだしたらしい。エミリーが、鼻歌を歌いだすと、それにバターが自ら飛び込み、いい感じにパイ生地になる。余裕の表情のエミリーは、その間ちょっとダンスをして、「サルサ風! オールドファッションじゃあないね。ルーク、踊るかい?」と言った。
「なに、言ってんだよ。わかった? エミリー」
「たのんでおいたチェリーは買っておいてくれたかい?」
 どうやら、チェリーのパイを作るらしい。これは、その昔に、妹の勤めていたところの近くの公園で、規則好きな公園番が好きなお菓子だった。
「これは、私が子供のころから好きでね。妹に教えたものさ。あの子もバンクス家でよく作っていたらしい。もっとも私よりじょうずになっちゃったみだいだけれどね。そりゃそうさ、好きなものばかり、作っているんだもの。私は仕事だからね、色々と種類を作るし、たいへんなんだから」
 また、昔の話がはじまるんだ。そろそろ退散しようと、ルークは思った。ルークが二階へ上がるとき、ナオミにすれ違った。
「また、おしゃべりか? 」
「うん、だってエミリーのお話、すごっくおもしろいんだもの」
「まっ、ほどほどにな。早く寝なくちゃダメだよ」
「わかったー。ココアとチェリーパイのできたてをつまんでからにするー]
ナオミの年は、まだ複雑な悩みもないのだろうとルークは思う。人間は、生きていく年月につれ、悩みもずっと増えるのだろうか? だったら大人になんかなりたくないかも!と、ルークは思う。このまま、このメリーズ・ショップを継ぐのなら、余計な心配や苦労はいらない。若いルークでも、遅いさとりの時代が残っている。冒険はしない。ナオミは、エミリーのいれてくれたココアを飲みながら、チェリーパイを作るエミリーの様子を見ていた。
「それで、エミリーの妹のメアリーは、最初は羽のついた黒い麦わら帽子をかぶり、黒い手ぶくろに青いマントを着ていたの? じゅうたん製のゴワゴワとした大きながま口みたいなバッグが愛用で、いつもオウムの頭の柄のついた黒いこうもり傘? って、普通の傘のこと言うの?……を、持っていたって! 銀のボタンのついた一番上等な紺の上着がお気に入りで、いつもおすましで、プラウド(誇らしげ)な人。木のオランダ人形みたいなスタイルって、それじゃ、エミリーとま逆……違うじゃない?」
「それでも、双子だよ。私が太ってるー」と、言うところで、エミリーはオーブンの中をチェックして、「私がふくよか、ぽっちゃりだとナオミは言いたいんだろうよ」と、言い直した。
「手と足が大きいところは、似ているさ。手が大きいのは、パティシエールにはもってこいなの。私もキッチンで鍛えていたから、骨ばった手足で、筋肉質。でも、あのころは、二人とも瞳がキラキラとしていて若かった」
 エミリーは、遠くを見つめてその瞳をウルウルとさせた。
「エミリの昔の時代は、パティシエールって言ったんだね。今は、パティシエって言うよ。ナオミも将来は、製菓学校に行きたいの」
「今は、学校に行くのが近道なんだねぇ。私らのころは、修行が先だったから、先輩の師匠のところに弟子入りしたものだ。そこでの出会いは、とても大切で、学ぶのはお菓子作りだけでなく、先輩は人生の師匠でもあった。あっ、それはね、ナオミには少し難しいかしらね」
「だいじょうぶだよ、今どきの子はそれくらいはわかるよ」
「毎日を生活していくのに、お手本とする先生だった。師匠は尊敬できる人だったの」
 ナオミは、エミリーの話を聞いていて、昔のエミリー達の時代を思い浮かべていた。メアリーとエミリーは、体型は別だが、双子でとてもよく似ている。でも、性格は少し違ったこと……。それぞれ、なにかに向かってがんばるところと、趣味は同じだけれど、表のメアリーは、いつも自分に厳しくて高い理想を持って、住み込みで子供のお世話をする仕事と、家庭教師の仕事に専念していた。影の存在になってしまったエミリーは、お菓子作りに励み、平凡に結婚してメリーズ・ショップを地元で支えてきた。メアリーは高価な布地のジュータン製バッグに、オウムの頭の柄のついたこうもり傘を持ち、オシャレでプライドが高い人だ。それにエミリーがちょっと対抗した。どちらが先に対抗したのかわからないのだが、ドクターが持つような実用的な大きなバッグに、タカの頭の柄がついた傘を持っている。
 メアリーが、自分の着飾った姿を鏡に映して見るのが好きで、エミリーは常にオーブンの中を覗くのが好き。お菓子ばかり作ってきたから……。また、オウムの傘は、黒い絹のつばさを鳥のようにひろげて、オウムのような鳴き声をたてて、空を飛んでいく。タカの傘は、毛を逆立てて速いが、低空飛行で横に飛ぶ。でも、ナオミはちゃんと理解している。二人のおばあちゃまは、二人とも、愛情豊かで、信頼できる……本当にやさしい人だって。
4 リナの初恋
 リナが十二歳のときだ。そこから交換日記はスタートした。六年生になったときに、同じクラスになったピーターをリナはずっと好きだった。たぶん、それはもっと前からだったかもしれない。小学生のころなんて、そんなふんわりとした気持ちだと思う。十二歳になり、中学校に進む前、リナからの交換日記の申し出にピーターが素直に応じてくれた。リナはとてもうれしくて、スキップしながらのその帰り道、エミリー・ポポンスに報告したのを覚えている。
 リナの初恋はこうして順調にはじまった。交換日記に使う日記帳のノートには気を使って、最初は鍵のついた分厚いものにした。今では、普通のノートだったりで……みんなに見られたくない内容は、家に帰ってメールにすればいい。今どきの交換日記など古風極まりないが、そうしたのは、ピーターが絵がじょうずで、とくにマンガを描くのが好きだったからだ。リナはそれが欲しくて、たのしみだったからなのだ。もちろん、彼からの返信は、マンガだったから、次回にリナは、必ずその絵の感想も書いた。こういうことなら、ピーターもそう無理することもなく日記をマンガで書いてくれるので、けっこう続いてきたわけだ。ピーターもマンガを書くのがたのしかったのだ。ところが、最近になって、ピーターからノートが返ってこなくなった。ここのところのメールの返信もそっけないものだ。顔文字だけが、すまなそう! だったり、ごめんなさいだったりする。理由は、新聞部のピーターが、学校新聞作成で忙しいとか、勉強がうまくいっていないとかいうことなど、明らかにただの言いわけだとリナは思っていた。
 その日も学校からの帰り道、銅像のエミリー・ポポンスに、リナはぐちっていた。側に誰かが通っても、おかしい人と怪しまれないように自転車を立てかけるようにして、車輪を点検している振りをした。
「ねぇ、ちょっと聞いてる? 聞いてよね。最近、ピーターがすごくそっけないの。どうしてだと思う?」と、リナは言って、下方からエミリーの顔を見上げた。(私はまだ若い。よく今風で、顔はかわいいほうだって言われる)と、リナは自分では、クラスの中でも人気は、上位に入ると思っていた。細身で小柄だったが、笑うと片方にえくぼができる。
「いつから、そのほうれい線はできたの? 年をとれば誰でもできる? その人もほうれい線はあるのかな? 私っていじわるだよね。それを願ってる。ピーターがね、最近、つきあってる人って、大学生なの。ピーターより五歳も年上なんだよ。信じられないよ。だまされてるんだよ……きっと。たぶん、魔女だね」
 リナの友達が、姉の通っている大学の文化祭に行ったときに、ピーターとその女子大生が腕を組んで歩いているのを見たのだと、今日聞いたばかりだった。
 リナは、小声で言いたいことだけ言うと、自転車を押しながらマリーリバーの橋の方向に歩いていった。まっすぐに家に帰る気がしないリナは、自転車を表に置いて、メリーズ・ショップの中へ入った。いつもは、おやつを買うだけだが、今日は違った。
「おや、めずらしいね。リナが一人でカウンターに座るとはさ。なにか、ケントとでもけんかした? 家にすぐ帰りたくないんだろ?」
「わかる? ルークは今日は早いね」
「うん、学校がはじまってからは、マーガレットがやってくれてる。ママの調子もよくなってね。なんとかはなってるよ。また疲れがでないように、俺がなるべく早く帰ってくるようにしてるんだ。なんか飲むの? それともスイーツか?」
「いいよ、食欲ないもの。ヤケミルクシェイク一つ!」
「ヤケ? リナもヤケになることがあるの? それでなにがいい?」
「しわのできない、美容にいいやつ! フルーツブレンド!」
「なんだよーそれ、バナナミルクシェイクに、ストロベリーとブルーベリーとキーウイをのせておくよ。フォークもそえとくね」と、ルークは急いで作った。リナはその上にのったフルーツを、フォークで食べて、グラスのままバナナミルクシェイクをガブガブと飲んだ。
「ヤケミルクシェイクって、どういうわけ? 聞かないほうがいいってこと?」
 ルークは、いつもおとなしいリナが、今日はいつものリナらしくないと思って、気になった。
「そうね。聞かないほうがいい。自己嫌悪になっちゃうから」
「そうか、それじゃ聞かないよ」ルークは、皿を拭いていた。
「ルーク、ケントの友達だから言うけど、お兄ちゃんには言わないでね。ルークは、年上の女の人ってつきあうのは、どう思う? 魅力的かな……」
「えっ! あいつ、この間バスケの試合をがんばるって言ってたけど、そういう悩みもあっちゃったわけ? 知らなかった」
「ケントのことじゃないから、心配しないで」
 ルークは、驚いて皿を落としそうになったが、(ふーっ!)とため息をついた。
「誰のことよ……リナの彼氏か?」と、今度はスプーンで軽く皿を叩いた。
「ふざけないで、答えてよ」
 ルークは、黒の胸当てつきカフェエプロンの前にあるポケットに両手を入れて考えていた。
「ふーん。どうかな? 年上って考えたことがないから想像もつかない。けど、ここに来る客を見ていて、観察するのはおもしろいこともある……かな。観光客で、ひと目で年が違うとわかるカップルもいるからね。恋愛に年は関係ないだろ。俺にはわからないけど、この人、すてきな人だなって感じることはあるさ。男でも女でも魅力的な人は、異性を引きつける魔力はあるんだろうね」
「また、いつかルークに話す。このことは、ケントに言わないでよ。誰にもよ」
「わかったよ。もう一杯飲む?」
「うん。スモールで、ストロベリーシェイクでお願い」
 ルークは話をそらした。(いつのまに、リナは成長したんだ。もうすぐ、十六歳になるのか)と、少しドキドキとしたルークだった。
 リナは、自分の部屋に戻ってから、やはり今日も、ピーターに携帯電話からメールをしてみた。返事はない。それで、今度は夕食後に電話をしてみた。留守電の別人の声で、録音テープがそっけなく流れる。リナは、自分の今度のバースデープレゼントには、親にスマホを買ってもらおうと思っている。それで、どうこうという進展があるわけでもないが、ピーターにもっと伝達手段が増えて、共用する話や写真だって、話題のアプリが増える。(そんなこともないか? 拒否されてんだから、電話のせいじゃない、あーあ!)リナは、ベッドの上に倒れこむように突っ伏した。リナは、いつからこうなってしまったのか……を考える。
 思えば、前学期後半辺りから、ピーターの様子はおかしかった。(その前?いやいや)と、リナはよく思い出してみる。(だって、テスト週間のときは、一緒に図書館に行ってたじゃない)と、そのときに、リナはなにかを思い出した。(そうだ! 図書館だ。図書館での出会いだ)そのテスト週間の少し前から、ふたりでとなり町の図書館に行って勉強していた。図書館も小さいこの町では、カップルの姿がもっと目立つ。人の目がうっとうしいと思うから、ふたりで片道三十分のとなり町まで行く。たのしい自転車デートだった。往復の途中、マリーリバーを見渡す川原で休んだりするのがデートで、リナはたのしみだった。図書館では、あまり話ができないからだ。木陰を探して、自転車を降り、心地よい川の土手の草に座る。グリーンのじゅうたんと、水色の広い空、川面には首を上げたり下げたりとしているカモが、気持ちよさそうに泳いでいる。最高の景色、最高の豊かなふたりだけの時間だった。
 (この次は、いつ会えるの?)というひと言が、リナは今、なかなか伝えられない。交換日記だって返ってこないのだ。
 そのとなり町の図書館の受付カウンターの端に、大学生の女性アルバイトスタッフがいたと思う。ほかに職員がいたが、皆おじさんおばさんという感じで年配者だったから、印象に残った。リナよりずっと年上とは思ったけれど、その若い女性はとてもきれいな顔をしていた。彼女の目はキラキラとしていて、マリーリバーの川面に反射するやわらかな光のようだった。(きれいな目をしている人)という印象は、リナにもあった。彼女の周りには、うっとりとするいい香りが漂ってくるようだった。(たぶん、この輝いているきれいな瞳にやられたんだわ)ピーターは、小悪魔につかまってしまったのだとリナは思った。(泥棒はそのスタッフの女性だ!)と、どうしてリナにわかったのだろう。女の直感は鋭いのだ。リナは、学校の帰りに、となり町の図書館に偵察に行こうと決めた。図書館なんだから、一人で行ったっていいはずなのに、リナは勇気を奮い立たせなくてはならなかった。
 次の日の学校の帰り道に、その図書館に向かってみた。前に入っていく学生に続くように、そっとドアを開けてカウンターで会員カードを見せる。チラッと受付カウンターの端をチェックした。(今日はいない)そう思うと、まっすぐに顔を見る心の準備がまだできていないのか、安堵する気持ちがあった。でも、その反面、(がっかり!)という気持ちも交錯していた。今日は、パソコンルームはパスして、二十分ほど適当に歩き回り無難な小説と参考書を手に取り、また貸付カウンターに戻った。(いた!)リナは、声を出しそうになり胸がドキドキとしてきて、顔が赤くなったり、動きがぎくしゃくと変わらないだろうかと動揺した。でも、カウンターの端だから、リナのほうからは離れている。(だいじょうぶ。彼女はこちらを見てない)と思う。
 そうしたら、今度は気持ちが落ち着いてきた分、借りる本を受け取るときには少しずうずうしい気持ちも出てきた。(話しかけてみようか? でもなんて言うの? ピーターと会ってます? とか、そんなこと言えるわけないじゃん)(ピーターともう会わないでください)、直球は、女としての品格を落とす……品格? まだまだリナは子供でしょう? (ピーターと会いましたよね? なにか理由がありますか?)、これも、なんか自分が、変に疑リ深い嫌なやつみたいだ。(ピーターとはどういう関係でしょうか?)、一般的だが、なんか浮気された妻か恋人が相手に問い詰めてるみたいだ。結局は、なにも言えなかった。ドアを開けて外に出るときに、ちょっと振り返ったら、美しい人は、そのきれいな瞳でリナにほほえんだ様に感じた。(バカにしないでよ。あの人は、私を覚えているんだ。きっと)そう思うとリナは、急に恥ずかしくなって、急いで自転車を飛ばして帰った。自転車で走りながら、ちょっとだけ涙がでた。
 途中に、思い出の場所の川原で座って、ずっと川面を見つめながら考えていた。(ずっとたのしかったのに、どうしてあの人が現れたのだろう。あの人なんて、消えてしまえ! なんていう運命なの。ピーターは私よりあの人のほうが好きに決まってる。だって、私からみても魅力的だもの)川原で時間をつぶしてしまったので、マリーリバーの橋に近づくころには、夕方の六時をまわっていた。リナは寄り道をして、広場を通り、エミリー・ポポンスの銅像の前に来た。自転車を降りて、リナはなにかをつぶやく前に、しげしげとエミリーの顔を眺めた。そのとき、銅像のエミリーの目が、光って動いた。
「えっ! うそでしょう。きっと私、考えすぎておかしくなっちゃったんだわ。この作り物の銅像の目が動くわけないもん」リナは、目をしばしばさせた。
「うそじゃないよ。いつまでもそこにいられたら、私の仕事のじゃまになるじゃないか。もう家に帰りなさいよ」
「やっぱり、私、幻聴が聞こえるようになった。これって、重症だよね。おばさん、いつも私の話、ピーターのことを聞いていたでしょう? すっごく悩んでるんだから、どうにかしてよ」と、リナはやけくそで、言ってみた。
 広場の周辺には、人が少なく、目の前の道路だけが車が忙しく行き交っている。夕暮れが迫っているその空は、早く姿を現した月が、丸いペーパーで張り付けたみたいだった。
「しょうがないね。ちょっと後ろを向いて目をつぶってちょうだい! 早くね」
 リナは驚いたが、(どうせこれは幻覚だよ)と思い、素直に目をつぶってみた。
「よし! いいわよ」と言われて、リナは目を開けて振り返った。
 そこには、銅像のとなりに銅像のエミリー・ポポンスにそっくりなエミリーが立っていた。左手にタカの頭の柄の傘を持ち、右手にはドクターが持つものに似た黒い大きなバッグを持っている。
「私をおばさん? おばさんなんて呼んだでしょ。失礼ね。フフン! あら、やだ! これじゃ、プラウドな私の妹と同じじゃない。別にいいけどね。私には、エミリーって言う名前があるのよ。そう呼んでちょうだい。そうね、あなたの……リナの気になっていることをなんとか解消できるようにやってみようかしらね。もう一度、となり町の図書館へ、急ぐよ! 先に行ってるから、あとから来てね。待ってるわ。それにだ……早くここから離れなくちゃ、おかしいでしょ。あとで、私は仕事もあるんだから」
「えっ! わわっー。なにこれ、本当かしら。それにしても、今どきのダサいスタイル。おばさん、あっいいえ、エミリーでしたっけ、私を知ってるの? どうやっておばさん、あっ、エミリーは図書館まで行くの? ふたり乗りしてく?」と、言い終わる前に、もうエミリーのその足が車輪のように回転してるように、リナには見えて、そのまますごい速さで、すべるように走って行ってしまった。
「どうなってるのかな? 私、かなりおかしくなっていないかしら……」
 リナは、いぶかしげに思いながらも、やけになる気持ちもあって、また自転車でその道を引き返した。水が澄みおだやかな流れで、心がいやされる夕暮れの景色のマリーリバー。散歩に来る人達も多い。川岸にあるベンチに座っているカップルが、自転車をこぐリナの目に入る。(みーんな、死ね! どっか異次元に行ってしまえ)と、リナは自暴自棄になりそうだった。めちゃくちゃに飛ばして自転車をこいだ。ところが、いくら飛ばしても、エミリーというおばさんの背中は見えなかった。(一体、あの人! どういう近道をしたのだろう)リナは、キツネにつままれる感じがした。
 ようやくリナが図書館に戻ったとき、その玄関からエミリーがあの人と出てきたところだった。そして、あの人はエミリーと「バイバイ」と、手を振って挨拶を交わしてバス停のほうへ行ってしまった。エミリーは、道路の端に呆然と立っているリナの側に来た。リナは、自転車を建物の壁際に立てかけた。
「リナ、あなた本当、ほうれい線とか、ダサいとかって私のことを言うなんて、失礼ね。あのね、人にはそれぞれ、いろいろと事情ってものがあってね。こっちの見方では見えないこともあるのよ。もちろんそっちの見方もあるわけだけど。複雑な人の気持ちは、リナには理解するのはまだ難しいかもしれないけどね、まぁ、これを見てみなさい」
 そう言って、右手に持っていた黒い大きなドクターバッグから取り出したのは、シルバー製でブランドの手鏡だった。エミリーはそれに自分の顔を映して、うっとりとした表情でポーズをとった。(これは、全身は見れないけどね。今日も顔とスタイルよしだわ)
「この手鏡なんだけど、シャルネだわさ。クールでしょ。グッシも持ってるわよ。さて、これはリナ、なにかあなたの知りたいことが見える。今からチャンネルを変えるから、とにかく見てみなさい」
 それから、エミリーは銀色の手鏡を左手に伏せて、右手で軽く撫でた。なにかをつぶやく。手鏡をリナに渡した。
「なにかって! 私はなにが知りたいのかしら? たぶん、ピーターとあの人がどういう関係になっているのかが知りたい。でも、本物の恋愛なら怖くて知りたくない。どうしよう」と、リナは一瞬目をつむった。(ふーっ! )と、深呼吸をしてみる。リナは、恐る恐る目を開けて、両手で持った手鏡を覗いてみた。そこには、ある大学の文化祭の様子が、テレビの映像のように映し出されていた。大学の中の道、たぶんカフェテリアに向かう並木道だ。あざやかなグリーンが、目に入る。太陽の光があたって新緑がまぶしい。
 並木道の向こうから、二人の男女が歩いてくる。女性が、ジーンズのポケットに両手を入れている男性の腕に、両手を絡ませている。つかまっているようにも見える。(そうよ、ピーターとあの女の人!)リナには、そんなピーターが大人びて見えた。ペパーミントのようなインパクトで、匂ってきそうなさわやかな新緑の並木道。長身で、目鼻立ちがクッキリとしていて、うつむいたときに、恥ずかしそうにはにかむ男前のピーターと、一度会えば誰もが印象に残るだろう吸いこまれそうなきれいな瞳のすらっとした美人が一緒に歩いている姿は、恋愛映画のワンシーンのように、リナには見えた。ピーターが、画面にクローズアップされる。ふたりが立ち止まった。ピーターが、ジーンズのポケットから両手を出して、胸の前でひらひらと動かした。(なんだろう? なんのジェスチャー?)次に、女性がうなずくと、ふたりはまた歩き出して、今度は女性が手を動かす。(これは、手話だ。あの人は耳が聞こえない!)年上の美しいあの人は、聴覚障害者だったと、リナは今初めて知った。
 彼女は、図書館では、受付カウンターの一番端で、きっとそういう人達を助けるために働いているのだろうと想像できた。耳が聞こえない分、目で判断するということ。あの人のきれいな瞳は、人の表情や周りの情景で多くを知ろうとする心の目であることをものがたっている。(心もきれいなのだろう……私、負けたかも)リナは自分が情けなくて、なぜか悲しくなった。
 手鏡の画面は、カフェテリアになった。窓際の端の席に、二人が座っている。口での会話がないから、なにを話しているのかがわからない。リナには、手話もわからない。ピーターがそれを覚えてできるのが、リナはより悲しくなった。遠いところにいるピーターみたい、自分の知らないピーターだった。彼女にピーターをとられたという悔しさよりも、あの人には勝ち目がないという敗北の悲しさだった。テーブルの上には、ピーターの好きなアイスティーと彼女の飲んでいるコーヒーが置いてある。画面はそのテーブルの上、ノートが映し出される。リナとの交換日記ではない。そのノートがアップされる。それは、マンガ……ピーターがそれを書いている。そのノートを反対にして、ペンとともに目の前の彼女に渡す。彼女もなにかを書いている。なにかの風景らしい。失敗したのか? ふたりは目を合わせて笑っている。明らかに、誰が見てもふたりは相思相愛に見えた。今度は、リナは涙がボロボロと出てきた。
 そこで、手鏡の中の映像は消えた。が、次にその女性の顔がアップで現れた。しかも、耳が聞こえないはずのあの人が、手鏡の中で話し始めた。その顔は写真のようで、動かない。口も動いていない。声だけがリナに聞こえてきた。普通できれいな声だ。
「あなたを悲しませてごめんなさいね。私は聞こえない耳のせいで、危ないこともあるので、人ごみで歩くときにも、彼が私の手をとって気を遣ってくれます。また、マンガを書く上のストーリーでも、手話を覚えたいと言ってくれて、それを教えています。私もマンガの絵を描くことで、人に伝えられるコミュ二ケーションの幅を広げたいと思って彼に教えてもらっているの。彼はまだ若いし、純粋でやさしくて、私も好きだけれど、彼の気持ちにどこまで応えられるのかは自信がありません。私には、同じ障害を持つ人達のために、海外に行って将来的にやりたいことがあります。だから、虫が良すぎるかもしれないけれど、もう少しだけ……ごめんなさいね」と、きれいな瞳を閉じて、頭を下げた。
 (なによ、これ! ピーターのことを彼だって。今だけとかってこと? 信じられないよ)リナは、急にピーターがかわいそうに思う感情が湧いてしまった。ピーターは、本当に好きになってしまったかもしれないのに、それを受け止められないなんていうなら、最初からつきあわなければいいと思う。リナは、手鏡だとわかっていても、その中の美しい人に話しかけそうになった。罵倒するかもしれない。
 すぐに、手鏡の中の映像がまた変わった。それは、ここより都会のどこかの家、さとうきび畑の近くのリナの家より、少し小さい。でも新しい家だ。庭にはかわいらしい花壇があって、ニチニチソウのピンクと白がたくさんに咲いている。その部屋の中が映し出される。キッチンとリビングルーム……キッチンで料理をしている女性、(あっ! それは、わ・た・し! リナだ)今よりもっと大人になっている。三十歳くらいだろうか? 食卓テーブルの周りを二人の子供が駆けずり回っている。年をとり、お母さんになったリナだった。リナは、子供になにか言いながら、ほほえんでいる。「走ってはダメでしょう」とでも、やさしく諭しているようだ。しあわせそうに見える家庭だ。そこへ、玄関のチャイムが鳴った。リナは玄関に出て行く。ご主人のお帰りだ。「おかえりなさい」と頬にキスをする。玄関はこちらに向かって映し出されているので、ご主人の顔はわからない。サラリーマン風の黒っぽいスーツ姿だ。(早く、振り向いて!)それはピーターであるは・ず・だ。リナの願ったとおり、その振り向いた横顔はピーターだった。(私達は、その将来に、結婚するんだわ。だったら今、間違いがないうちに、彼の傷が浅いうちになんとかしなくちゃいけない)
 ところが、エミリーのかかわる話と技には、オチがある。リナは未来に安堵して、現状を維持して耐えて、今なんとかできることを自分でしようと決意した。ピーターの気持ちが変わるのを待つということ……あの人と別れたなら、支えてあげる。どうせ別れがあるなら、傷は浅いうちがいい。そして、不思議な力を持つこのおばさんに相談して、知恵をもらおうと頭に浮かんだ途端だった。映像の中の、振り向いてあのはにかんだような笑顔のピーターの顔が徐々に変わっていく。(ええーっ! ルークだぁー。うそでしょう?)リナは、悲鳴をあげた。そこには、短めの金髪で天然パーマ、にきび面で黒縁メガネをかけた今のルークが、黒いカフェエプロンをして笑っている。またルークの顔が変わった。それは、大人になったルーク。黒いカフェエプロンとかっこうは変わらないが、ルークは今より背ももう少し高くなり、ずっと逞しく見え、とてもクールになっていた。にきびはない。(マジか……どっちよー! 私の将来。でもルークはありえないよ)
 リナは、目の前に立っているエミリーを忘れていた。銀色の手鏡を見入っていた。もうなにも映っていないのに、両手で手鏡を持ったまま呆然としていた。
「いいかい、少しはなにかをわかったかしら? 最後の映像はおまけさ。結婚相手は、ピーターかもしれないし、ルークかも……ほかの人かもしれない。将来が見えて時空を超えるなんて、あったしには通用しないんだ。空間と時間は心の手段でしかない。つまり、今! 今の自分が決めるんだよ。自分の心をちゃんと見つめてごらん。リナが、ずっとピーターを思っていたいなら、それでいいの。相手にこうしてもらいたいなんて、ダメだわよ。普遍的なものなんて考えられない。矛盾だらけが、この世の中なんだ。でも、リナが強く思っているなら、その気持ちは残る。結果がどうであれ、すばらしい経験なの。同じく、ピーターもそうやってすばらしい経験をして、すてきな男! に成長していくんだから、それをへし折ったら将来が変わってしまうよ。今のあなたが、未来のリナを作る。辛いことも、苦しいことも嫌だと思うことも、全部を乗り越えて、たのしい明日が見えるんだ。悩んでいたら、鏡で自分の顔を見てごらん。こんなしけた顔ではいけないと思うだろう? そうしたら、うそでもにっこりと笑ってみなさい。空気が変わるからね。人生とは、どこかこっけいで、たのしむものだわさ」
 リナは、言葉も出なかった。(自分の思い! 気持ちばっかりだ。ピーターの気持ちもましてやあの人の気持ちなんて考えてもいなかった)続けて、エミリーはリナに言った。
「あなたの知らない世界が、本当はあるのよ。ほら、おかしいな……ここにペンが確かにあったはずなのにない! でも忘れたころにこんなところに! と見つかることがあるでしょう。この世の中で、その悩み、苦しみも破壊も、そんな感情はこの星が大いなる目的にむかってダイナミックに運動している波長なのだわ。そこに自分が参加していることや、存在していることに意味があるってもの。自分の価値を見つめる。太陽系スケールで考えるって言うんだよ。許しておやり。許したあとの生き方を考えなさい」
 リナは、ピーターを恨んだり、二人に嫉妬したり、しあわせなカップルを妬んだり、それがとても小さいことのように思えてきた。(たのしむもの……生きること、こんな感情で、みにくい顔をしてたらたのしくない!)リナは、自分の気持ちはいつかちゃんと、ピーターに伝えようと思った。それで、待ってる、そして許す。その先がちゃんとあったら、それは本物だと思った。エミリーは、ちゃっかりリナのピンク色の自転車にまたがっていた。 
「これも、おまけ! いっぺんね、やってみたかった。ほら、宇宙人を乗せて空に向かって自転車をこぐあの昔の映画の場面さ。私はこの世にいない人間だからね。多少は違うけれど、未確認生物には変わりない。フフフー。リナがこぐ。私が後ろに乗るわさ」
 エミリーは、そう言って自転車を降りて、リナにそこに座るようにうながした。リナは、自転車にまたがった。エミリーが後部座席に座り、バッグを抱えてタカの傘をコンパクトにした。タカの頭の部分は変わらないが、傘の胴体の部分は折りたたみ傘のように小さくすることができるらしい。シナモンの頭を撫でて、「君は飛ばなくていいから、自転車のボディを使ってくれるかしら」と、エミリーが小さくささやいた。
「アイアイサー」と、シナモンも小さく答えた。
 それは、瞬時に起こった。リナとエミリーを(正確には、タカも!)乗せた自転車は、空にあった。昔の映画のように、まだほの暗い夜空に浮かんだ満月、それを背景にピンクの自転車が空を飛んでいる。
「BMXじゃないけどね。この自転車でも速く飛べるのよ。たのしいね! なんてきれいな月、空は気持ちがいいわ……いつも地面を走ってるから、憧れてたのよね。オウムの柄の傘で飛ぶメアリーの気持ちもよくわかる。いいねぇ、最高!」
「スポーツバイクでなくて悪かったわね。これ、マジほんと! 信じられない。現実じゃないよね」
 リナは、あまりの出来事に驚き、自分の悩みもしばらく忘れていた。そして、これが現実でなかったとしても、こんなに感動することは、これから先もそうはないだろうと思った。(月も星も、一つずつ、こんなに近くにある。全部なんてきれいなんだろう!)色々な世界がある。人間も、それぞれが皆違う。だから、違っていていいんだ。私は私の思い、考えをだいじにしよう。人とは比べず、私がそれでよければいい。(ごめんなさい。ピーター……)、そこで「起きなさい、リナ。起きなさいよ」と、言う母親のリカの声を聞いた。
「ママ、私は寝てたの?」と、リナはパジャマ姿で、自分のベッドの布団から顔を出して聞いた。
「そうよ、あなた、ルークのところ、メリーズ・カフェから帰ってきて突然に高熱を出してずっと数時間も眠ってたのよ。あんまり眠ってるから、心配になっちゃった。なにか飲んだほうがいいわ。熱は下がったようだけど」と、リナの額に当てたリカの手がとてもやさしくて、涙がまた出てきた。リカはリナの額から熱さまシートを取り外した。
「どうしちゃったの? 苦しかった?」
「ううん。なんでもない。なんだか安心したのかな。なんだったんだろう」
「知恵熱よ」
 リナは、そう言うリカの胸に顔を押し当てた。
「明日は、土曜日だから、ゆっくりと寝てなさい」
 リナはなにも言わない。でも母親のリカは、リナになにが起こっているのかを薄々と感じていたのだ。(この子も大人になっていくのね)と、リカはリナの成長をうれしくも、さびしくも思った。
 リナは、週末を家でダラダラと過ごした。ケントは、バスケの練習に出かけてばかりいた。リナは、ケントにあの広場の銅像がリアルな夢に出てきたことと、ピーターの話はしなかった。これは、自分だけの胸にしまっておこうと思う。あのみょうにリアルで、奇想天外な夢は現実のようでもあり、まぼろしのようでもあり、あの日、どこからが夢の世界に入ったのかもリナは覚えていない。ただ、この二日間を、あらためて自分の周りにいる人達や、自分のことをずっと考えていた。自分自身を見つめていた。エミリーの言ったように、自分の存在する価値……を考えた。
 月曜の朝、学校に行く前に通る広場でリナは身構えた。全身が黒い銅像であるエミリー・ポポンス、遠くから見てもいつもと変わりがない。リナは、いつものように銅像のエミリーに話しかけた。ちょっと周りを気にして、自転車を降りて、下から見上げるようにして小声で言った。
「おばさん、いいや、違う……エミリー、ありがとうございました。私、すごく嫌な女!にならなくてよかったと思う。これからも、たぶん、今のところはずっと、ピーターのことが好きだけれど、その気持ちは大切にする。そして、悔しいけれど、あの人もすてきだと認める。でも絶対負けないように、私も魅力的な大人になるように、色んな経験を大切にして、努力するよ。そうきっとね。年をとってエミリーのその笑顔は、銅像でも魅力的だもの。ほうれい線もしわもね」と言って、リナはウインクをした。
 銅像のエミリー・ポポンスは、まったく動く様子はなかった。
5 ルークの憂鬱
 ルークは、小さいころから、父親が好きではなかった。その理由とは……なんとなくあやふやではあるが、ひと言で言えば、(一緒に遊んでくれた記憶がない)だ。
 その男はルークの周りの友達のパパとは、少し違っているように、小さいながらもルークは感じていた。そして、親友であるケントの父親であるヨウスケとは、やはり違っていた。小さいときに、店の前の公園で、ケントの自転車の練習につきあっているヨウスケの様子を見て、うらやましく思った。ルークは、自転車の補助輪を外すときは、おばあさんのサラが見ていてくれた。その後は、自転車も水泳も「男の子だから、一通りは普通にできないと!」と、母親に言われ、自分で練習して覚えて克服してきた。精神的な他のことも……自分で乗り切るのが当たり前のことと、そう自分に言い聞かせてきた。それから、彼は父親参観日なども来たことがない。もっとも、昔から女性達のパワーが強いポポンス家のメリーズ・ショップでは、彼の居場所がなかったのかもしれない。でも、突然に出て行ってしまった父親を、そのときばかりは、ルークも許せなかった。
 ルークとナオミの父親のケビンが、母親であるマーガレットと結婚したときは、ケビンもちょっとは名の知れた画家だった。独特の風景画を描く。ペン&ウォッシュという技法は、古い歴史のある町並みや、海や山……そんな自然の景色にもマッチして趣があり、ケビン独特の情緒がとてもあふれていた。そんなケビンは、ルークがものごごろついたころには、いつも絵を描いているか、どこかスケッチに出かけていた。一日でそれ以外の残りの時間は、母の代わりの店番だったから、ルークは外で遊んでもらったことがない。ケビンは、絵を描くことに、なによりも情熱を注いでいた。
 店の前は、公園だから、キャッチボールのひとつくらいは相手をしてくれてもいいのに、そんな時間があれば、スケッチに行ってしまっていた。それも、ちょっと……のつもりが、となりの州まで行って数日は帰らないということも度々だった。ルークは、そんな父親を、自分勝手な男だとしか思っていない。大してお金にもならない道楽の絵を好きに描いていられるのは、このメリーズ・ショップの収入があるからだ。それなら、もっとこの店のことを考えるなり、小さいときの自分と妹の相手を喜んでしてくれたってよかったのにと、不満に思う。
 十歳だったころのある日。ルークの記憶に、マーガレットがケビンと言い争っている光景がある。マーガレットがそのときに言った言葉は、ルークの脳裏に残っている。
「あなたは、我慢せずにご自分の好きなことを、この家に起こることも気にせずにできて、それはいいでしょうけれどね。私は、あなたが自由でいられる分、全部背負っているんですよ。子供が病気をして、夜は寝られなかったとしても、店は休まず、サラおばあさんが具合が悪くても、その看病は休まずにと全部をこなしているんです。それでも、あなたにそんなに大きなことをお願いしたことも、もっとこうしてくださいと言ったこともありません。それなのに、今度はなんですって! 旅に出て行く! って言うんですか?」
 ケビンは、うつむいて黙っていた。
「今だって、年中どこかへ数日間は消えてしまうではありませんか! どんどんとエスカレートするんですね……あなたのわがままは」
「俺には、今! しかない。ここで決意しなければ、もうこのあとはチャンスがないと思う。自分の心に忠実でいたいんだ。最初で最後のお願いだ」
 ケビンは、床に両手をついて、頭を下げた。これを、土下座……というのか、まだ小さいルークには理解できなかったが、(情けない男だ。将来、自分はこうならない)と、自分に誓ったのを薄っすらと覚えている。数日間は、マーガレットが一方的に責めるような言い争いは続いていた。そしてついに耐えられなくなったのか、ケビンはスーツケースをかかえて、草木が芽吹くマリーリバーの景色をあとにして出て行った。それから、七年が経過した。
 ルークもナオミも、父親のいない生活になんとも思わなくなっていた。また、不自由も感じていなかった。今さらまた、帰ってきたところで、戸惑うばかりで、生活が変わるとも思っていない。メリーズ・ショップは、お客様に愛されているし、毎日を変わらずに営業していくことだろう。この店では、存在感の大きさは、父親より縁の下の力持ちである影のエミリー・ポポンスの方がある。だから、今までルークは母のマーガレットが、だんだんと健康を壊していくわけが、ケビンがいなくなったことによる心労が大きいとは考えなかった。店のことだけではなく、それ以上のストレスが別にあるとは、ルークには察することはできなかった。
 少し大人になった今のルークは、勝手な解釈だが、マーガレットが今も、ケビンに対しての深い思い……愛情があるのだろうかと考える。旅人をずっと待っていても、もう永遠に帰ってこないのではないか? とそういう気持ちがストレスになって、糸が切れてしまうように、マーガレットは張り詰めた気持ちが壊れてしまったのだと思う。心細く思う年齢的なものもあるのだろう。(ママも、年をとった)と、ルークは思う。ルークは、この店を一生懸命にやってきた母親に、これからは休んでほしいと思っているので、できるだけ自分が働いていこうと思っている。妹もそう思っているのを、ルークもわかっている。なにしろ二人にとって、メリーズ・ショップの仕事は最高におもしろく、好きだから苦痛にもならない。それは、夜に現れるエミリーおばあさんの存在の大きさと、サラおばあさんもいつ現れるのか? というワクワクとした気持ちもあるからだ。そして、それらは全部、毎日がファンタジーの世界だからだ。そんなある晩のことだ。エミリーがキッチンに来てくれたあと、ルークは、自分の部屋に戻っていた。
「お兄ちゃん、ルークってば! ちょっとキッチンに来てくれる?」
 ナオミに何度も呼ばれて、ルークはしぶしぶとキッチンに行った。
「離れの納戸に、ほら、カヌーがあったでしょ。あれ、外に出してくれる? マリーリバーに出すのよ。今日は仕込みがあまりないし、明日は定休日だから、出かけよう!」と、エミリーは言いながら、もう白いエプロンをはずし、黒い大きなドクターバッグにしまいかけていた。
「えっ! 今から……夜中になっちゃうよ。どこまで行くの?」
「ルーク、いいから……いいから、今まで、あったし! のすることに、間違いがあったかしら? 私が行動を起こすときはね、絶対に意味があることなんだから、早くしなさい。夜のカヌーで川を旅する! なんて風流だわさ」
「たのしそうで、ワクワク! すぐに支度してくる」
 エミリーの誘いに、有頂天になってナオミは着替えに自分の部屋へ走っていった。そんなナオミを見ると、兄としてのルークは、ついつきそってしまう。たった一人のきょうだいだから、年上の自分が守るべきだと、父親が頼りにならないせいでこういう気持ちが人一倍に強い。それに、ここのところ、マーガレットが具合が悪くてルークも店のことばかりにかまけて、どこにも遊びに行っていない。ルークもナオミの気持ちがわかり、また自分もちょっと気分転換に外に出かけたいという気持ちになった。
 ナオミは、ジーンズのオーバーオールをを着て、白いTシャツにピンクのバンダナを首につけた。肩までのヘアも両方に三つ編みにしてきて、はしゃいでいる。細身の体だけど、幼さが残る顔はぽっちゃりとしているので、そんな服装が似合っている。ルークは部屋着のジャージ姿を、下だけジーンズにはき替えた。(エミリーがいるんだから、夜のカヌーも怖いこともないだろう。第一、見た人がいたら、そちらの方が怖いっしょ! エミリー、普通じゃないし)と、カヌーを出しながら、ルークはちょっと笑った。納戸にしまわれていたカヌーは、何年もほって置かれて、そのボディは少し色がはげたり、傷があるものの、まだまだ使えそうな感じだった。エミリーの夫、ルーク達のおじいさんのジャック・ポポンスが、大昔に買っておいたものだ。そのころのマリーリバーは、今よりもっと自然豊かで、大きなスケールを感じさせる偉大な川だった。エミリーは、ジャックとこのカヌーで、仕事の合間に川を散策したりして、新婚時代をたのしんだ。思い出深いカヌーである。
「超……懐かしいね。忘れていたから、こうして再び見ると、すっごく感激するわ」
「エミリー、私もとてもたのしみ! でもどうやってこぐの?」
「ほれ、ライフジャケットを着てから、乗ってちょうだい。それから説明するわさ」
 カヌーに載せてあったライフジャケットとヘルメットを、ルークもナオミもつけた。エミリーとナオミが、はしゃぎながらカヌーに乗ってから、ルークは小型のカヌーに疑問を持った。
「エミリー、これ、三人乗ってだいじょうぶ?」
「なに言ってんだよ。これは三人乗りだわさ。それ、乗りなさい」
 そうして、エミリーと真ん中にナオミ、ルークの順で、カヌーに乗りこんだ。
「心配することはないわ。こぐ必要がないの。さて、また活躍してもらうかね。おい、シナモン! がんばってちょうだいね」
「アイアイサー」
「ほれ、ルーク! シナモンをカヌーの後ろにつけて。そこにホールが開いてるでしょ」
 と、エミリーがタカの柄の傘をルークに渡した。なるほど、カヌーの後部真ん中に、傘を差し込めるような穴が開いていた。そこに、すっぽりと傘のシナモンを入れたら、ちゃんとフィットした。
「ピュー、ピュー」
 エミリーが、口笛を吹いたのが合図だった。タカのシナモンの頭の毛が逆立った。その黒い傘の胴体の下から、三分の二位のところで、穴の輪に入っているので、胴体は開かない。横から見れば、やはり斜め横向きになっているが、その先は川の水にはついていない。そのまま、下半身に力を入れたので、シナモンの顔が、心なしか赤くなったように見えた。
「だいじょうぶかい? プーと、恥ずかしいことはするんでないよ。あまり力まずに、パワーをだしてちょうだい」
「アイアイサー、逆噴射いたしまーす」
 カヌーは、パドルなどを使わずに、ひとりでに進みだした。だんだん速くなるので、ルークは、ナオミを気遣いながらカヌーにつかまった。それからカヌーは、静かにすべるように、マリーリバーを走っていく。ルークは、時速六十キロくらいに感じた。しかし、実際は、体感よりもずっと速かった。それは、スキーで全速力ですべるような速さだ。いや、実は、DVDで二十四倍速のようにスキップする。まるで、トリック動画のようだ。それでも、そんなことにはまったくおかまいなしで、エミリーは、昔の歌から現世のヒット曲までたのしんで歌っている。
 カヌーの乗り心地はすばらしい。普通のカヌーではないので、静かに空を飛ぶような感覚だ。なめらかに振動もなく進んでいく。すごい速さで、どんどん変わっていく周囲の風景は、ルークもナオミも、今までに見たことがないようなものだった。
「ここは、どこなの?」と、エミリーに尋ねたナオミは、ちょっとだけ、不安になったのだ。
「もうすぐ、どこだかがわかる! それにしても、あの山々は、とてもゴージャスだねぇ、あったしが、子供のころに行った林間学校では、アスレチックでたのしんだものさ。ターザンロープだとか、スリリングでね。今じゃ、ジップラインとかってすごいもんがあるらしいじゃない。冒険はいいね。ワクワクするじゃない。アドベンチャーワールドだわ、この世界は。あんた達も冒険をするときが来たら、恐れずに冒険するんだわね! 経験に勝るものなしなの」
「ねぇ、エミリー、ずいぶんと遠くに来たんじゃない?」
「そうだね。ここは、三つ目の州だ。ざっと五千キロ以上は来たんじゃない! ここからは手動で行こう! 冒険だからね。少しは冒険心を味わおうじゃない」
 ウインクをしたエミリーに、ナオミは思わずうなずいた。
「信じられない! アメージングだな。またはじまっちゃったよ……エミリーの世界だ」
 ルークは、また驚くことが起きる……と期待した。
「ほらね、みんなで力を合わせて、パドリングだわさ。こうして、はい! ワンーツー、ワンーツー」
 そういうエミリーのパドリングの様子をまねて、ルークもナオミもこぎだした。三人の息は合っており、最初のうちは全く問題なく進んでいった。シナモンは、ただ休んでいるので、時速はずっと遅くなり数キロで進む。
「すてき! 川を旅するって、こんなにおもしろいなんて思わなかった」
 ナオミは、喜んでいた。ルークもそんな妹を見て、どこにも連れて行けなかった夏休みを思い出して、よかったと感じていた。しばらくは、順調に川を渡って行ったが、前方に高い橋が見えた。その先に少し下りがあると、ルークの視界に入った。それは、瞬く間に起こった。おだやかな流れのマリーリバー、いつしかそれがここでは、ずいぶんと様変わりだ。前方に小さな滝のように落ちる流れがずっと見える。下り方は小さいが距離がある。おだやかではない。また、そのあとの急な流れには、いくつかの岩があるのが見えた。タイミングの悪いことに、星が瞬いていた夜空は、いつしか暗黒に変わり、小雨までぱらついてきた。
 ルークがそれを見て確認した途端、エミリーに声をかける暇もなく、カヌーはそこを落ちていった。遊園地のウォータースライダーのようだ。その瞬間、すごい水しぶきと、カヌーに川の水の衝撃があり、パドルを落として悲鳴をあげるナオミの声が辺りにこだました。カヌーはくるっと一回転したあと、今度は速さをまして、まるでスリリングなスポーツラフティングのように川を下る。エミリーは、懸命にパドルを使っていた。しかしながら、エミリーでもどうにもならないことというのがあるらしい。しまったと思ったかどうかはわからないが、不可抗力だったのだろうか。カヌーは、その先端を岩にぶつけて、エミリーは飛んで川に落ちてしまった。また、ルークもナオミをかばい、バランスを崩して川に飛び込んだ。ようやく危ないところを通過して、ゆるやかな流れに立て直った、ゆっくりくるくる回るカヌーの上で、ナオミが泣いていた。
「だいじょうぶです。これはスペシャルな冒険です。試練です。でもクリアできます」
 カヌーの後ろで、シナモンがこう言った。そのずっと後方になった小さな滝が、笑うような音をたてていた。
「起こることは、おこることが好き……ハプニングはそれが好きなのです。クククー」と、シナモンが、小さな滝の音に合わせて笑った。
「アホくさ! 笑うんじゃないよ。このあったしとしたことが……世も末だね。まったく恥ずかしい」
 エミリーは、そう言いながら、川からカヌーに這い上がった。ルークもなんとかシナモンにつかまり、元の席に戻った。エミリーもルークもびしょぬれの上に、カヌーにも水が溜まっている。沈まなくてよかったとルークは思った。(これは、どうせエミリーのいたずらなんだから、現実じゃないんだ)と、無理に思おうとしていた。でも、実際は、どこかに打った手足も痛かったし、ぬれた体は冷たく感じた。
「あーん、エミリーが死んじゃうと思っちゃった。ルーク怖かったよ」
 ナオミは泣き笑いだった。
「バーカだな。考えてごらんよ。エミリーは、もうとっくに死んでるんだぜ」
「そうだったけ。でも、怖かった」
 ルークとナオミを見ながら、エミリーは気まずそうに肩をすくめて笑った。
「ほんと! 大失敗だね。ちょっと水をかき出さなくてはならないから、この先で岸につけましょうっと。いいかい、降りるからね」
 また、ゆるやかな流れに変わったマリーリバーをしばらく行くと、景色も変わり、かすかに遠くにぎやかな町が見えてきた。谷から出て、川が大きく開けてきた。その手前のまだかなりの田舎と見える町で、カヌーは止まった。ここまで、エミリーとルークでこいで来た。ナオミのパドルは川に落としてなくしてしまったのだ。いつの間にか、小雨は止んできていた。ちょっとした広場が見える川岸に、カヌーをつける。この周辺は、川幅もあってゆったりとしている。ブラックスワン(黒鳥)が、気持ち良さそうに泳いでいた。空気が、研ぎ澄ますように澄んでいる。サトウキビ畑のあるルーク達の住んでいるところも田舎だが、その空気の匂いが違っている。その景色を見て、(ずいぶんと遠くに来たんだなぁ)と、ルークは感じていた。ナオミは、今まで見たことがないブラックスワンに、見とれていた。ルークがカヌーの水をかき出す。
「エミリー、ここはどこの町かしら?」と、ナオミが尋ねた。
 中腰になっていたルークと、ブラックスワンを見ていたナオミが振り返ったときには、エミリーの姿は消えていた。
「ナオミ、心配することないよ。いつものジョークさ。帰るときには、いつだって、あの人は現れる。なぁ!、シナモン」
「わかっていらっしゃる。ここからが、またさらに冒険です。ここの広場の上へ、行ってみてください。お供しますので、そうわたくしを忘れずに連れて行ってくださいよ。いいですかな」
 ルークとエミリーは、言われたように、タカの頭の黒い傘を、カヌーから抜いてそれを持ち、緑の草を踏みながら、上の広場へと向かった。ぬれていたルークの体は、いつからかすっかりと乾いていた。シナモンが傘を閉じたり開けたりと、風を送ったからだ。
「ここからは、目的地が少々離れているため、お二人でつかまってください。いつものようにです」
 シナモンに言われて、ナオミが傘の先っぽより少し下を両手でつかんだ。傘は、いつかのように、やはり横向きだ。傘の柄をルークが持つ。ナオミの前にエミリーがいないので、窮屈ではない。ルークは、ナオミをかばい、右手は傘を、左手はナオミの肩に手を置いた。
「ルークさん! どうぞこの頭を触ってください」
「えっ! もしかして俺の超将来的な修行なのかい?」
 ルークは不可解に思いながらも、エミリーのまねをしてタカの頭をなでた。タカは、その頭を逆立て言った。
「いえ、未来です。では、出発です。アイアイサー」
 シナモンは、まるで魔法のほうきのようだ。その速さはタカが飛ぶように走る。ルーク達の足は、地面にはついていない。それは、以前よりも少し上空を走る。低いが山々があるので、シナモンは神経を集中している。その視界は、タカのようにすこぶるよい。
「見つかりました。では降下いたします。気をつけてください」
 シナモンが、ルークとナオミを連れてきた場所は、その町のはずれの病院だった。
「ここです。ルーク、そのまま傘の先を持って、わたくしの顔を壁に向けてください」
 ナオミをどかして、ルークはタカの柄の顔を白い壁に近づけた。その壁を、シナモンのくちばしが円を描いて線を引き、丸く穴を開けた。
「はい。これは十一・一秒で閉じます。お早く願います」
「よくわからないけど、なんで病院なんだよ。とにかく入るよ」
 ルークとナオミは納得がいかないという表情で、その壁の中に入った。そして、ふたりがそこで見たもの……それは、七年も会っていないルークとナオミの父親だった。父親のケビンは、こんなところで入院していた。ケビンは、部屋のベッドにひとりぼっちで寝ていた。そして、静かに寝息をたてていたが、ふたりの気配を察して目を覚ました。
「おや、すごく驚いたよ。なんてリアルな夢なんだ。そして、息子も娘もこんなに大きくりっぱに成長しているなんて! これは、最後にきっと神様が与えてくれたプレゼントなんだな。わがままで、自分勝手だった私に対しても、こんなことが起きるなんて、どう感謝しよう。本当にありがとうございます」
 ケビンは、両手を組んで、目をつぶり頭を下げていた。
「なにこんなところで、勝手なことをほざいてるんだよ!」
 幻が現れたと思ったケビンは、ルークがしゃべったので、驚いて目を開けた。
「どうやって来たんだ? ああー、そうか、忘れていたよ。あのおばあさんの仕業なんだな! 知らせなくてもよかったのに……」
 ケビンは、遠くの記憶をたどるように、その開けた目を宙に泳がせた。こうして、痩せて老いてしまった父親にずいぶんと久しぶりに会ってみても、ルークもナオミもあらためてなにも言うことがなかった。ナオミはただ戸惑うばかりだ。七年前は、ナオミは三歳だ。父親がいたという記憶がほとんどない。
「悪いことをしたなぁー本当に、後悔先に立たずだ。私のエゴで、どうしてもやりたいことのために、君達を犠牲にしたんだろうなぁ。その報いと罰ならば、覚悟はしている。許してほしいとは言わないが、どうか、私の描いた絵に免じて、いつか、受け入れてくれる気持ちができた時にわかってほしい。それらは、全部息子と娘のためにささげたいと思ってるんだ」
 ルークは、ケビンが次になにか言おうとするのをさえぎる様に、ナオミの肩に手を置いて、怒鳴った。
「そんなもの、いらないよ。あんたにとっては、芸術のための七年だったかもしれないけれど、マーガレットや俺達にとっては、ただ待つだけ! の七年だったんだ。もう、のたれ死にしてたってしょうがないって、そう思われても仕方がなかったんだぜ。それでも、あんたは、まだそんなわがままを言うのかよ。絵をわかってほしいだって!」
「パパは、どこが悪いの?」
「ナオミ、パパか……そう呼んでくれてありがとう。パパは心臓が悪い。もう、そう長くは生きられないと言われている。でも心配はするな。ちゃんと自分のことは、自覚しているから。この町ではなんとか成る。ここでね、私のアトリエがあってね、私のことを認めてもらえた方々が支えてくれて、なんとかなったんだ。その前には、海の向こうまでも旅をしたんだ。その様々な美しい景色も、私の中に思い出として、スケッチとしても残っている。後悔はしていない。ただ、私のやり遂げたいことのために、ルークとナオミには本当に悪いことをしたとそれだけがいつも、心残りだった。すまない……本当に悪かった。ごめんなさい」
 ルークは、ケビンの寝ているベッドサイドのテーブルに、「道しるべ」という題名のミュージックCDがあるのを発見した。(なに、言ってんだ。自分だけの生き方に気取りやがって......最後までエゴイストだ)
「いくら、謝ってもらったって、今までの年月は帰らない。あんたがいつ最後なのか……そんなことは知ったこっちゃないけれど、マーガレットのために一度は帰ってやれよ!まだ、画家ケビン・ポポンスとして、絶対にやらなければならないことがあると思わないか?」
「ルーク、絶対にやらなければならないこと?」
「それは、ホームタウンのマリーボローの風景だろ? 全然未完成じゃないか!」
 ケビンは、あふれてくる涙をこぶしで拭った。
「ルークは、知らない間に大人になったなぁー。もう私を超えたよ」
 ルークとナオミの前で、エミリーはこう言った。
「人の生き方は、マリーリバーの流れにも似ている。予期しないアクシデントや試練を、乗ったカヌーのように、必死でこいで乗り越えなくてはならないことがある。大海に出ても、順風満帆などといかない。でも、冒険に挑む人は、勇気がありすごいんだわさ。やりたいことをやった人は、勝ちだわ。そりゃね、責任を放棄してはいけないよ。ケビンが、家を出て旅に行ったこと。まっ、これについては、あったしが悪いのだわ。いつまでもポポンス家を守っているからね。でも、そのおかげで、ケビンはやりたいことを貫けた、しあわせ者だ。そして、今は、ルークもこうしてほしいという気持ちを伝えた。今!今がだいじなんだ。タイミングも大切! 自分の人生は、自分のもの……待っちゃくれないの。時間はどんどんと過ぎていく。この世界の人生は一度きりだよ。たのしくこう生きたい! という人生……やれるときにやる! 怠けないで一生懸命に生きることさ」
 「あとは、わたくしに任せてください」と、シナモンに急かされて、十一・一秒で閉じる壁の穴をすり抜けたところで、エミリーが立っていたのだ。部屋に残ったシナモンは、マーガレットからの手紙をケビンに渡していた。(ケビンとマーガレット……この世の父と母からも、大切ななにかを教えてもらっているんだ)と、ルークは思った。ルークには、ルークの考えと生き方がある。ナオミにもそうだろう。周りの人とのかかわりの中で、自分のやりたいことをやって生きていけたならハッピーなんだろうと、ルークはそう悟ったようだった。
 マリーボローへの帰り道、カヌーにつけたシナモンエンジンの歌うようなサウンドと、エミリーのハミングする歌を聞きながら、ルークは憂鬱な気持ちが消えていた。
「最近は、カバー曲でもあるらしいよ。あったしが一番に好きな歌だわさ」
 夜明けに向かってこぎだすカヌーの上で、エミリーが熱唱する。それは、有名な「夜明けのうた」だった。
「なんて、すてきな日! 朝が来るんでしょう」と、ナオミはほほえんでいた。
 その数年後のことである。大自然と古い歴史を感じさせる美しい町、マリーボローにケビンストリートという通りができた。その中心の広場にあるエミリー・ポポンスの銅像近くに、アートスクールがある。そこには、もちろんケビン・ポポンスの絵が、たくさん壁に掛けられている。今は……そこは美術館として、カフェ・メリーズ・ショップとともに、町の人にも観光客にも愛され親しまれているのだ。
 「夜明けのうた」
      作曲  いずみたく
      作詞  岩谷時子
  夜明けのうたよ
  あたしの心のきのうの悲しみ
  流しておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心に若い力を
  満たしておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心のあふれる想いを
  わかっておくれ
  夜明けの歌よ
  あたしの心におおきな望みを
  抱かせておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心の小さなしあわせ
  守っておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心に思い出させる
  ふるさとの空   
                              
「了」

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