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一章

 五時に起きて、顔を洗う。鏡に映った俺は冴えない顔で、目つきも悪く、どことなく陰湿なイメージを与える。背も男にしては低い。
 ジャージに着替え、まだ暗い空の下、ランニングに出かけた。
 冷たい空気が、心地いい。
 二時間後、汗だくになった俺は家に戻り、隣の部屋の扉を一度、力を込めて殴った。
「うーん……」
 扉の中から美咲の声がするのを確認すると、俺は風呂に行って汗を流した。
汗を流し、部屋に戻る。髪を乾かし、茶の間に向かう。
皆もうご飯を食べ終わっていて、後は俺だけだ。
「智也、早く食べちゃいなさい」
「わかってる」
 食事を大急ぎで掻き込んでいると、玄関から声がした。
「美咲―。まだー?」
 美咲の友達の茜だ。
「はーい。今行く」
 美咲は慌てて玄関へ向かう。
 美しいストレートの長い髪。ぱっちりした大きな目。ふっくらした唇。モデルのような高い背。
 二卵性とはいえ、とても俺と双子だとは思えない。
「美咲、気をつけるのよ」
 母さんが美咲に声を掛ける。
「うん! 行ってきまーす」
 俺はその間に歯を磨き、黙って家を出た。
 美咲は道行く人と挨拶を交わし合う。近所の人々も、笑顔で美咲に挨拶をしていく。
 俺は誰とも挨拶をせず、美咲と距離を取って無言で学校へと向かった。
 学校に着くと、美咲の周りにすぐに人の輪が出来る。
 俺はそれを無視し、教室の隅の席に座って教科書を出した。
 昨日の夜はどうしても最後の応用問題が解けなかった。もう一度基礎を確認せねばなるまい。解けなかったのはこの一問だけなのだが。
 本当は教師の所に聞きに行ければいいのだが、美咲に聞けばいいと言われて以来、俺は教師を頼るのをやめていた。
 美咲は、友達と談笑を始めている。
「宿題、やってきた?」
 茜に聞かれ、美咲はぺろっと舌を出す。
「忘れてきちゃった。当たらなきゃ大丈夫でしょ」
 ふん、後で困ればいいんだ。
 一時限目は、ちょうど宿題を出された数学の授業だ。
 授業が始まり、数学の教師は宿題に出した問題を黒板に書いた。
「野田、古田島、矢野、御手洗、智也。解いてみろ」
 最悪だ。よりによって解けなかった最後の問題に当たってしまった。
 俺は黒板に向かい、途中まで式を書いて戻った。
「なんだ智也、出来なかったのか。駄目だぞ、ちゃんと勉強しないと。美咲、解いてみろ」
「はーい」
 美咲はスラスラと俺の解けなかった問題を解いていく。俺は歯を食いしばった。
「双子なんだから、教えてもらえ」
「…………」
 この教師は、その言葉がどれほど俺を傷つけているのか気づいているのだろうか?
「いっつも勉強してるくせに、格好悪いよね」
「茜!」
 こそこそと茜がいい、美咲が茜をたしなめた。
 俺を庇うなよ、美咲。俺の中に、暗い炎が燃え上がる。
 二時限目の英語。今度は美咲が教師に当てられた。
 朗々と響く美咲の声。中にはうっとりと聞きほれる者すらいた。
「ビューティフル! 素晴らしいです、美咲さん。完璧な発音ね」
 俺は悔しく思いながらも、正しい発音らしい美咲の声を頭に刻みつける。俺は英語が特に苦手で、うまく発音出来なかったから。
 三、四時限目は体育だった。
 俺はほっとした。ようやく、美咲と離れられる。
種目は百メートル走。ランニングは毎日やってる。
「よーいっどん!」
 合図とともに、俺は力強く大地を蹴った。走る、走る、走る。
 タイムは……やった! 一秒も縮んでる!
 俺は無関心を装いつつ、歓喜した。
 意気揚々と教室に帰ると、美咲が既に教室についていて茜とお弁当を広げながら談笑していた。
「美咲、凄く早かった! 絶対あれ、男子並みのタイムだよ!」
 話していたタイムは俺のものより短かった。
 俺は、落胆して弁当を持って誰もいない屋上に向かった。
 一人で、弁当を食べる。食べ終わると空を見上げた。
 青い空は、どこまでも広がっている。それでも、俺の世界は灰色だった。
「俺、何か生きてる意味あんのかな……」
 食べ終わると、伸びをする。
「いつか、俺だけの何かがきっと見つかる。信じろ、俺!」
 五時限目は古文、六時限目は地理だった。幸い、この時間は美咲と比べられるような事は起こらなかった。
 授業が終わると、足早に剣道部に向かう。
 俺が一番だったらしく、すぐに着替えて素振りを開始する。
 二十分もした頃、美咲も着替えてきて言った。
「智也、久しぶりに手合わせしない?」
「嫌だ」
 俺が断ると、美咲はむぅ、と腰に手を当てる。
「むー、そんな事言わないで。行くよっ」
 俺は微動だにしなかった。強かに面を打たれ、俺はよろめいた。
「これで満足か」
 低い声で言うと、美咲は口を尖らせて言った。
「な、何よ。私はただ、たまには智也と……」
「行こうよ、美咲。こんなやつ構う事無いよ」
「ちょ、茜!」
 茜が美咲を引っ張っていって、俺は息をついた。
 微動だにしなかったのは、どうせ美咲の竹刀に反応できないのが分かり切っていたからだ。
 遅くまで部活をやって、疲れた俺は着替えて家路へとつく。
 美咲はまだまだ元気で、茜とカラオケに向かった。
 俺は帰って風呂に入り、食事を済ませて勉強を始める。八時ごろ、美咲が帰ってくる音が聞こえた。食事を済ませ、風呂に入る音が聞こえる。
 その後、テレビの音と美咲の笑い声が聞こえてきた。
 十時、美咲が部屋に入る音。
 部屋の電気が消える。
 俺は十二時まで勉強して眠った。
 これが、俺と美咲の毎日だった。美咲は容姿端麗、スポーツ万能、勉強は学校の授業だけなのに良くできた。翻って俺は毎日のように鍛え、勉強しているのにいつも成績は中の下。
 それでも、せめて俺と美咲が違う道、違う高校を選んでいたら、俺は美咲を恨まずにすんだかもしれない。
「智也と一緒がいい」
そういって、美咲は尽く俺の真似をした。
勉強や剣道だけじゃない。パズル、絵、楽器各種、歌、料理、掃除、礼儀作法、果ては駅名の羅列と言った事まで。
幼い頃から、美咲は俺の真似をしまくった。そして、尽く俺よりもいい結果を叩きだしてきた。
初めはただ何にでも意欲旺盛なだけだった俺は常に美咲と比べられる事になり、いつしか逃げるように様々な趣味に手を出し、美咲に追いつかれては他の趣味を探すという事を繰り返した。
お陰で美咲に出来ないものは何もない。
俺はと言うと、何一つ出来ない。どんなに頑張っても、いいとこ中の下だ。
俺は才能と言うものが憎かった。
才能ある人間は努力しなくてもなんでも出来て、才能のない人間は努力してもなんにも出来ないなんて、不公平じゃないか。
神様は平等に才能をくれると言うが、それは嘘だ。
それとも、まだ見つけていない俺の才能があるのだろうか。
将来、その何かを見つけた時の為に基礎を鍛えようと、ランニングと剣道と勉強だけは美咲に追いつかれても続けていたが、いっこうにその何かは見つからない。
高校は別にしようとしたが、美咲の奴、俺に隠れて俺と同じ高校を受けやがった。
家族ぐるみで、俺は騙された。
入学式、向かう方向が一緒な事に気付いた俺の絶望は果てしない。
俺は、いまだに将来の夢を決められないし、誰にも相談できない。
美咲の「私もやる!」という一言が怖いのだ。
美咲も、それとなく将来の夢を聞いてくるのが不気味でしょうがない。
正直に言おう。俺は美咲が嫌いだった。
せめて、俺が弟ならば、あるいは女なら良かった。
だけど俺は兄で、双子で、男なのだ。
常に比べられ続ける地獄。美咲に勝てないのなら、どこか、誰もいないどこかへ行きたかった。
どんなに嫌がっても、明日は来て、来週は来て、来月が来て、来年……高校卒業が来る。その時には、将来を決めていなければならない。
俺は毛布を頭からかぶって眠った。


「智也! 美咲と買い物に行ってきて」
 俺が勉強をしていると、母さんが声を掛けてきた。
「なんで俺が」
「あんた男でしょう。いっぱいあるから、荷物持ちよ」
 俺はしぶしぶと出かける準備をする。
 癖毛をなんとかまともに見えるように整えると、美咲がパタパタとやってきた。
 グレーの派手な襟で裾の長い服に、黒いストッキング。短パンかミニスカートかわからないが、とにかく下の服は長い袖に隠れて見えない。
 真ん丸とした小さなバッグに母さんから貰った財布を入れて、美咲は笑顔で手を差し出した。
「いこ、智也」
 俺は黙って美咲の後に従った。
 公園に差し掛かった所だった。近所の子供達が、公園で遊んでいた。
ボールが道路に飛んでくる。子供が、それを追いかける。何故か、それらがゆっくりに見えた。
走ってくる車。
「危ない!」
 俺は走った。その時、俺の心中に浮かんだのは、子供の安否の心配じゃない。
 勝ったという思いだった。
 ようやく、美咲がやってない事を出来る。その為に死んでもいい。美咲と違う事が出来るなら。
 子供を持ちあげた時、俺は強く突き飛ばされた。
 コンクリートブロックに叩きつけられ、俺はなんとか子供を庇う。
 衝突音。車のドアが開く音。悲鳴。
「……なにやってんだよ」
 俺は、掠れた声で言った。子供の泣き声が耳にうるさい。
 血が、広がっていく。
 美咲が、車に轢かれて倒れていた。
 足が、あらぬ方向に曲がっている。無事なはずの俺の足が、体が、激しく痛んだ。
「救急車! 救急車!」
「美咲ちゃん!」
 運転手が喚き、公園で子供を遊ばせていたおばさんが駆け寄ってくる。
「何やってんだよ! なんで俺なんかを助けるんだよ! そうやって善人面したいのか? いつもそうだ。いつもいつもそうだ! 美咲はなんでも出来て、凄くて、いい子で、俺は何もできなくて、悪者で! 俺はお前なんか大っ嫌いなんだぞ。感謝なんてすると思ってんのか? マジ馬鹿じゃねー!?」
「なんて事言うの!」
 おばさんが、俺の頬を叩いた。
「あたしは……好きだよ、智也の事……。あたしは知ってる……智也、なんにでも一生懸命で……凄いなって……でも、最近一度も笑った事無くて……あたし、智也の笑ってる顔みたいな……」
「誰がするか!」
 俺はその場から駆け去った。
 走りに走り、隣の町まで走って、嘔吐する。
 美咲が轢かれた。でも、最低な俺が考えていたのは、美咲の安否なんかじゃなかった。
 ――もしも美咲がここで死んだら、俺はもう、一生美咲に勝てない。
俺の頭を占めていたのは、それだった。だからこそ、俺は一生、いや永遠に美咲に勝てないのだろう。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……」
 家に行きたくない。公園で、ただボーっとしていた。
 日が暮れて、とぼとぼと家に帰る。
 母さんが、鬼のような顔をして家の前に立っていた。
 俺が母さんの所に行くと、無言で頬を叩かれる。
「病院に行くわよ」
 俺は、のろのろと頷いた。
 車に揺られ、ぼんやりと窓の外を見る。胸の辺りがズキズキとした。
 道路が凄まじい速度で通り過ぎていく。
 行きたくない。
 病院につき、病室に向かう。手術は既に終わっていた。
父さんが、ベッドの横に付き添っていた。
美咲は、静かに眠っていた。包帯が痛々しく、血がにじんでいた。
「何があったか、貴方の口から聞きたいわ。話して頂戴」
 母さんが、押し殺した声で言う。
「おばさんから聞いてるだろ」
「智也!」
「お前、落ち着きなさい」
 激昂する母さんを、父さんが宥める。俺は、ただ項垂れて時間が過ぎるのを待った。
 母さんは泊まり込みで美咲の世話をする事になった。その間の家事をするのは俺だ。
 朝、朝食を作る。以前、料理を一所懸命に勉強した事があるから、人並みの朝食くらいは作る事が出来る。
 父さんが、起きてきてぎこちなく声を掛けた。
「おはよう」
「おはよう」
 そのまま、無言で食事をする。
 学校に行くと、俺の机に花が置かれていた。
 茜が、腕組みをし、きつく俺を睨んでいた。
「あんたのせいで美咲が重体なんでしょ。あんたが死ねば良かったのよ。謝りなさい! 美咲に謝りなさい!」
「何をしているの! やめなさい、茜さん」
 教師が慌てて茜を止める。
「放して! 放してよ! 返して! 美咲を返しなさい!」
 冷たい周囲の目。茜の涙。止め続ける教師の戸惑った声。
 俺は全てを無視して席につき、窓から花を投げ捨てた。
「智也くん!」
 教師が見咎める。俺はこれみよがしに言った。
「これでようやく美咲と離れられるな」
 茜が叫ぶ。
「殺してやる! 殺してやる! 殺して……うあ……ああ……ああーん。うわあああああ」
 茜が、崩れ落ちる。
「智也くん!」
 美咲を好きだと言っていた男子生徒が、俺を殴った。
「美咲はなぁ! いつもお前を庇ってたんだぞ!」
 知ってるよ、そんな事。だから俺は、美咲が憎かった。
 どんな事があっても、明日は来て、来週は来て、来月は来て、来年は来る。
 その日、進路指導の為の調査票が配られた。
 聞いている事は実にシンプルだ。
 卒業後、どうするつもりなのか?
 そんな事、今は考えたくない。それでも、残酷に期限は迫ってくる。
 針のむしろの学校を終え、部活動まできっちりこなして、夕食を作って、風呂に入ってから、俺は病院に向かった。出来る限り病院に行くまでの時間を引き延ばした、とも言う。
 病室から、母さんと父さんの話声が聞こえて扉を開ける手が止まる。
「本当に、なんでこんな事に……美咲が、美咲が……事故にあったのが智也だったら良かったのに……」
「お前! そんな事をいうものじゃない。昨日はずっと寝ずについていたというじゃないか。お前は一旦美咲から離れて休んだ方がいい。今日は家に帰りなさい」
「でも……」
 俺はゆっくりと手を引き戻し、病院のトイレへと向かった。
 そこで、吐く。嘔吐したら、さらに胸が痛んだ。
 苦しい、苦しい、苦しい。
夜が来るまでそこでじっとしていた。
夜が更けて俺が病室に向かうと、さすがに父さんも母さんも帰っていて病室には美咲以外誰もいなかった。
いや、一人いた。
老魔法使いが、俺が夢にまで見たもう一人の俺が、俺の夢が、幻がじっと美咲を見つめていた。半透明で、まるでそこに本当にいるかのようにリアルな幻。
老魔法使いは、俺に目を向ける。
「なんだよ、お前も俺を責めてんのかよ」
 老魔法使いは、口を開いた。
「良く子供を助けた」
 あまりにも都合の良すぎる幻聴に、俺は口角をあげた。
「は……っ俺って本当に最低だな。子供を助けたのなんか、善意でやったんじゃねーのに……」
「子供を助けたのは事実だ。それに、肋骨が折れているぞ。医者に診てもらえ」
 そして、老魔法使いは美咲へと視線を戻す。
「なんだよ……なんでそんな事言うんだよ……そんな優しい言葉、俺にかけんなよ……」
「誰もお前に対して言わなかった事を言ったまでだ」
 老魔法使いは、枯れ枝のような手を美咲の頬に滑らせた。
「すまなかった。我が来世にこんな辛い思いをさせるつもりはなかったのだ。まさか、パラメーターが引き継がれるなど……勇者の美貌や基礎的な賢さ、強さと違って、私の魔術知識はこの世界ではなんの役にも立たないからな」
 美咲から全く目をそらさず、老魔法使いは言った。
「何の事だ?」
「私は、ただ二人で平和に暮らしたいだけだった」
「なんの事だよ」
「酷な事を言っているとわかっている。しかし……問おう。お前の妹を、救いたいか」
「誰が……!」
「このままではミトは……いや、美咲は死ぬ。そうなれば、お前は二度と美咲を超える事はないぞ。命を賭して、美咲がやった事のない事をしたいのだろう。私が保証しよう。美咲には、絶対に出来ない事が一つある」
 それは、酷く心の惹かれる申し出だった。心のどこかで、警鐘が鳴る。
 俺は最低だ、俺の中の老魔法使いが言った。
「それはなんだ?」
 老魔法使いは、俺を正面から見つめて言った。
「魔術を使って、美咲を救う事だ。魔術ならば、美咲は絶対に使えない。パラメーターを振っていないからな」
「魔術……?」
 駄目だ。その申し出に乗っちゃ駄目だ。
「お前は知っているはずだ。癒しの呪文を。美咲はまだ生きている。今ならば、まだ間に合う。ただし、この世界には魔力が無い。お前のMPは私が来た時と同じゼロのまま。回復する事はない。しかし、この世界にもMPに代わるものがある」
「生命力……」
――あはははは。俺すら、俺すら美咲の代わりに死ねという。
 俺の中の俺が笑い、俺の中の老魔法使いが視線を逸らした。
 俺は返事をしなかった。代わりに、呪文を唱える事で答えた。
 確かに俺は、その呪文を知っていた。夢で何度も見た。それ以上に、感覚として知っていた。
 英語の発音はさっぱりな癖に、俺の唇は流暢に呪文を唱え始める。
 老魔法使いが、俺の唇に指を当てた。
「待て。そのまま逝くのでは、あまりにも寂しかろう。まだ時間はある。一週間、良く考えて、身辺整理をしてからにするがいい」
 老魔法使いは振り返り、美咲の手に額を当てる。
「ミト……一週間、待てるな……? お前は、強い娘だ……」
 そして、老魔法使いは薄れて消えていく。
 俺は我に返った。
「なんつーリアルな夢……俺、やべーな……」
 美咲のベッドに寄りかかって寝る。なんだか、異様に疲れていた。
 朝、俺は診察を受けた。老魔法使いの言った通り、肋骨が折れていた。
「事故にあったのに病院に来なかったのかい? 駄目じゃないか。それに、胸。相当痛かったはずだよ。とにかく、君も入院してもらうから」
「……すみません。入院の準備にちょっと家に帰っていいですか」
「駄目。今、精密検査の準備をするから」
「はい」
 俺は項垂れた。
 精密検査を受けながら考える。身辺整理か。
 部屋……は、片付いてるな。殊更拘るものもないか。
 そうだ、遺言考えなきゃな。
――おいおい、幻なんかの言う事を信じてんのか? やばいぜ、お前。
 うるせ―な。俺は美咲を超えられるなら何だっていいんだよ。試してみて、損はないだろ。
さあ、なんて言おう。なんて言おう。なんて言おう。
 父さん、母さん、育ててくれてありがとう。こんな奴でごめんな。ああ、そうだ。美咲にも遺言しなきゃ。あいつは元気になるんだから。
 うーん……恨みごとばっかになりそうだな。やめとこう。
 あいつにもありがとうの一言でいいや。
 俺は検査が終わった後、売店で封筒と便箋を買い、精一杯丁寧な字でたった二行の遺言を書いた。
「死ぬ前にやる事終了、と。俺の人生ってなんだったんだろーなー」
 別れを惜しむ友達もいない。
 生きてほしいと言ってくれそうな人すらいない。
 俺は美咲の病室に行った。
 老魔法使いが、痛ましげな瞳で俺を見ていた。
 俺は、美咲に両手を向け、朗々と呪文を唱える。
 中ほどまで唱えて、虚脱感で足が崩れた。それでも手を掲げ続ける。
 美咲の周囲に魔法陣が現れ、発光していた。
 すげー。俺、魔法を使ってる。
――何言ってんだよ、当たり前だろ。お前は、魔王を倒した魔法使いだったんだぜ?
 じゃあ、これぐらい簡単だよな。俺は、一層力を入れて呪文を唱えた。
「やめて、智也。駄目だよ……」
 美咲の声が、聞こえた気がした。
 次の瞬間、俺は真っ白な場所にいた。
「困りますねぇ。ええ、本当に困ります」
 声を掛けられ、俺は振り返る。
 青白い肌、長い耳、青みがかった白い髪。中国の文官のような服装に、小さな丸眼鏡。狐のように細い目の男が、そこに立っていた。
「そのパラメーター、万能過ぎると言う事で随分前に廃止されたんですよ。たった二人で魔王が倒せるというのは、やりすぎですよねぇ、いくらなんでも。なので、癒して差し上げる事は出来ません。かといって、貴方は既に命と言う対価を支払ってしまった。こちらとしても、どうにかしてあげないと契約違反になってしまいます」
 男は竹で作った巻物のようなものを広げて言った。
「お前、誰だ?」
「精霊、神、天使、化け物、悪魔、妖怪。好きな呼び方で構いませんよ」
 男は、肩を竦める。
 俺はふいに気付いた。俺は、とんでもなく偉い奴に会ってる。
 魔法とパラメーターの大本、神様に。
「それは違いますよ。私は下っ端の文官です。キュロスと申します」
「キュロス、様。美咲は治らないのか?」
 俺はおずおずと聞いてみる。命と言う対価を払ってしまったと言っていた。
 ならば俺は、既に死んだのだ。命を賭しても、俺は何一つ成せないのか。
「直接治す事は出来ません。でも、チャンスを与える事は出来ますよ」
「チャンス?」
「二十年前の赤子の死体に貴方の魂を送り届けてあげましょう。そうそう、タイムパラドックスが起きるので、今の時点以前でこの世界に干渉してはなりません。それに、全てのパラメーターはリセットされます」
「それで、どうやって美咲を救えるんだ?」
 キュロスは苦笑した。
「おやおや、どうすればいいか、貴方は知っているでしょう? 貴方の前世は魔王を倒した大魔道士、マゼランなのですから。ヒントを教えてあげましょう。パラメーターは全世界の人間が一律になり、大分多様化しています。いえ、言い変えましょう。簡単に強くなれないよう、平等に、かつ大分厳しくなりました。マゼラン……貴方の前世のように、パラメーターの極振りをしなければ美咲さんは救えませんし、一度でも方針を間違えば、それで終わりです。タイムリミットは二十年。大サービスとして、記憶を保持できるほかに、今の時点までどれくらいかわかるようにしてあげましょう。もちろん、自分の人生を謳歌するのも自由ですよ。私はそちらをお勧めしますがね」
 俺は、キュロスの言葉をゆっくりと噛みしめた。
「……わかりました。お願いします、キュロス様」
 キュロスは一本指を立てて言う。
「いかに大魔法使いマゼランとは言え、たった一人の人間にやれる事には限りがあります。この世界にはMPがありません。美咲さんを救う為には、もう一度命を捧げるか、例え生き残ったとしても、何もできない異邦人として一人この世界に取り残される事になるでしょう。それでもいいのですか? 美咲さんが憎かったのでしょう? なのに、美咲さんの為に死に、今また新たな生涯を捧げるのですか?」
 俺は頷く。
「構いません。ずっと俺だけの何かが欲しかったんです。美咲を救えるのは、俺だけです。ここで美咲を救わずに新たな人生を選んだら、それはもう俺じゃないんです。負け犬のまま、俺の人生は終わってしまうんです」
 キュロスは慈愛のある瞳で頷いた。
「いいでしょう。智也さん。貴方の魔術を承認します」
 キュロスが、持っていた竹の巻物にハンコを押す。
 その瞬間、白い空間は消え失せ、俺は真っ逆様に落ちた。
 満天の星空。青い月と赤い月。真っ暗闇の中に落ちていく。
「うわぁぁぁぁぁ!」
 地面に激突するってか真下に赤ちゃんがいるじゃねーか!
 危ない、と手をつくが、手は地面をすり抜けていく。
 籠にすら入っていない、小汚い布に包まれた赤子に、俺は頭から突っ込んだ。
 目を瞑ると、俺は横になっている事に気づく。
 体が硬くてうまく動かない。何より、物凄く寒い。何も見えない。喉が堪らなく痛かった。
 何なんだこれ。そうだ、赤ちゃんの死体に魂を連れていくって……。
 捨て子じゃないか。これ、下手したらこのまま死ぬのか?
 俺は声を張り上げる。
 か細い声しか出ない。
 頭の中で、選択肢が現れた。
――声の大きさにパラメーターを振りますか?
 気づかれなきゃ死ぬかもしれない。しかし、パラメーターを犠牲にしたら美咲が助けられない。
 畜生、やってやる!
「あ……ああ……あ……ああああああああっ」
 俺は、この世界で産声を上げた。

しおり