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棺桶


 『開いた口が塞がらない』と言う諺があるが、人間、心底驚いた時に口が開いてしまうと言うのは真実のようだ。

 ブルブル震え指さす、言葉を失った白面の美女、クガクレ アマコ。彼女と同じものを目撃した、その場全員の口は見事にそろって開いていた。
 無論、最初に挙げた諺に含まれるニュアンス、『呆れた』なんていう呑気な感覚は彼らには微塵も無く、背中の産毛が逆立つようなゾッとする恐怖のみだった。


 死体が起き上がる。

 やぎ座の客間の床の真っ赤な血溜まりで、さっきまで転がっていた男の死体がむっくりと上半身を起こした。
 低速モーターでコントロールされてるかのように、首を左右に動かす。
 何か視界を遮る妙な邪魔者に気が付いたのか、ゆっくり両腕を顔に近づけていく。

 深々と顔面に突き刺さっていたはずの手斧が、半ば抜けかかっていた。
 あたかも弾力性のあるゴムが反発の力を発揮して、めり込んだ異物を押し出す……あり得ない現象。

 右腕で斧の鈍く光る鉄刃と木の柄の接合部分辺りを握り、ズポッっと水気の混じった小さな音をさせて抜いた。

 死体……だった、その肉体は急速に死者の国から抜け出し、生なる者たちの世界への出口を這い出した。

 ゴトッ。握っていた斧を力なく下に落とすと、両掌で顔を覆う。その様は切実な悩みに苦悩し立ち尽くす寂しげな男。

 (そりゃそうだ。両目が潰れて飛び出るぐらいに顔面を殴られたんだ……思わず顔を覆ってしまうぐらい落ち込むわな)

 最初の強烈な衝撃を受けた時からは、しばし時がたち、次第に何故だか……世紀のマジックショーを見せつけられてるような感覚にも錯覚し始めた、メンタルマジシャンのミスターモリヤは思った。

 僅かに固まりこびりついた血の付く両手を下ろし、深く深呼吸をした。大きくため息を一つ付いてトローンとした両目をモリヤ達に向ける。
 部屋を覗き込んでいる皆は、ただそれを無言で見返すしかできない。

 見事! 蘇生した男。初老のカメラマン、オオツは口を開いた。
 「……ここは何処だ」


 記憶の混濁。

 (う、うう……。頭の中をかき混ぜられた……みたいだ…ぜ……くそっ)

 オオツは両目を何度かしばしばさせると、視界がだんだんクリアになって来た。

 (あ、あいつら……見覚えがあるぞ…………ここは? ホテル? ホテルか!?)

 足元を見ると血の跡。顔と後頭部に手を当て、軽くさするようにいじる。

 (乾いた血……俺の……ちっ、また流れ弾……流れロケット砲でも飛んで来やがったか…………)

 「……」

 「……!」

 廊下に立つ男女。一様に彼を心配しているかの表情を浮かべている。彼らに話しかけようとしたが言葉が出てこない。

 (……おい、英語を忘れちまった? ……いや…また忘れた……のか……)


 呆然と立つ蘇った男に、意を決して近づき声を掛けようと探偵マーヴェルが玄関から室内へ踏み込んだ。

 (!違う!? ここはアフリカじゃない……)

 オオツは近寄って来るマーヴェルの印象深い蒼い目を注視している内、徐々に思い出す。

 「ああ……そうだ……別にここは…英語じゃあ無くっていいんだな……」

 「……医者を、ドクターを呼びましょうか? オオツさん」

 探偵は言葉の未熟な相手に確認するように、一言一言をゆっくりと話した。

 彼は首を振り確かな口調で返事をする。
 「いや、それには及ばん。……怪我は…大丈夫だ」

 顔を上げて、入り口に立っている全員にも心配ないと言った。
 「俺は……医者要らずさ……フフッ……悪いな」

 笑って、言葉を付け足す。

 「……不死身なんでね」



 「おいおい! またこりゃ一体どういうトリックだ? 良ければぜひ! 運命共同体のよしみで、このイリュージョンの権利を私に売ってくれないか」

 そう言って、お道化た様子とは裏腹に、モリヤは額に油汗をにじませている。

 「…そんな事よりも、犯人を見たのかい? そいつで殴られたんなら犯人の姿を、顔を見てんじゃないのかい?」

 比較的に冷静な…他と比べればわずかに落ち着いた…スリング婦人に急かすように聞かれ、こめかみに手を当て何かを必死に思い出そうとするオオツ。
 無傷だった顎の辺りの皮膚とは違い、かなり赤みがかってはいるが、あれだけの深い痕がすっかり消えてしまった顔で苦悶の色を浮かべる。

 「す、すまん……すまんが頭をやられると、記憶が飛ぶんだ……。殴られた時…確かに…一瞬、犯人を見た気がするが……はっきりと思い出せん」

 その言葉を聞き、こちらは失望の色を浮かべた。

 「……がっかりさせて悪いな…………そう……はっきりと確信できていない、だから……あまり言いたくはないが……」

 オオツは間を置き、熱心に耳を立てる皆を見て
 「……お…男だったように……思う」

 関心のワードを告げた直後、強い立ちくらみを覚えた彼は膝が砕け、バランスを崩しよろけた。傍にいた探偵が慌てて体を支える。

 「だ、大丈夫だ……悪い……ちょっと眠くなって来ただけ……大怪我を…しちまった後は……いつもこうだ…………酷い睡魔に…襲われるんだ」

 重く垂れさがる瞼を、残された意思で必死に上げながら続ける。
 「……そ…そこの……ソファでい…いから……寝かせてくれ…んか」

 「そんな遠慮しなくても、ちゃ~んと寝室までお連れしますよ」
 マーヴェルがそう笑って答えた時には、もう既にオオツは深い眠りに落ち、穏やかな寝息を立てていた。

 「私も肩を貸そう」と名乗り出たモリヤと共に、意外とずっしり重たい意識の無い男の両側から肩を担ぎ寝室のベッドへと連れて行った。


 カメラマンを寝かせ終え、皆がリビングにそろったところで探偵が口を切る。
 「とにかく一度、ドクターを呼びに行って見てもらいましょう。オオツさん本人は大丈夫と言ってましたが、なんせ……あの大怪我ですし……」

 「そうさねぇ……あの爺さんは、たぶんきっと大丈夫なんじゃないかい? それはそれで置いて……でも……犯人が近くにいるってことはぁ間違いないみたいだ……」

 そう言った不気味さを漂わせる老婆、スリング婦人は笑みを見せもう一言付け加える。

 「誰が犯人か……どの殿方が犯人か? もう一度あの嘘つき探しを医者にさせても面白いかもねぇ」

 マジシャンのミスターモリヤも意味深な笑いを浮かべ言う。

 「ああ……それを言うなら、不死身のカメラマンが嘘を付いていないのか? そいつも聞かないとな、お婆さん…………もしくは……やっぱり医者が犯人だと判明するかもな」


 そして簡単な話し合いで探偵とモリヤが、医者の部屋へ向かう事になる。

 メイドのウルフィラは、此処の血で汚れた床を掃除するために残ると言った。

 「それじゃあ、あたしもここに残って安全のため見張っといてあげるよ」
 スリング婦人も、この部屋に残ることになった。

 クガクレ嬢にも、この部屋で待っているかと聞いたところ、しばらく黙って……既に寝室横の客間のソファーにどっしりと腰を据えた老婦人を見つめた後、首を振り、自分もついて行くと言った。

 同じ階にある医者の部屋へ向かうため、モリヤに次いで彼女も部屋を出る。
 最後に部屋を出る間際、膝を着き床の血をふき取り始めたメイドを見ながらマーヴェルはある事に気付いた。

 (最初に見た時と……何か違うと感じたが、……分かった、血の量だ)

 いくら多少時間が経ち、血液が乾いてきたとはいえ明らかに量が少ない。

 (そうか、流れ出た血を彼自身でもう一度体内に回収したのか!? ……不死身の再生能力か……参ったな)

 血だまりが小さくなっていく、逆再生の映像が脳裏に浮かぶ。

 「ごめんなぁ、こんな他人が嫌がる仕事ばっかり任せっぱなしで」
 ドアを閉める時、クルリと振り向きクリスが申し訳無さそうに声を掛けた。

 「お気遣いなく……ありがとう……」

 顔を上げたウルフィラは、その気遣いに嬉しそうに笑顔を見せた。


 廊下では、モリヤとアマコが何やら冗談めいた話を交わしていた。少しリラックスできたのか、青白かった彼女の頬には少しは赤みが戻って来ているようだった。

 探偵が部屋から出てくるのを見るや、すぐさまドクターの部屋へと向かう。

 コンコンコンッ。モリヤがドアを強めにノックする。

 「お~い、せんせ~! 用事があるんだ、至急あんたの力が必要だ。……昨日のつまらんいざこざは水に流して出てきてくれ」

 ドアを叩いても、呼びかけても中から反応が無く一向に出てこない……。

 モリヤは探偵達と顔を見合わせ……ドアノブに手をかける。

 ギュッと握り……回して…………鍵が、開いている。

 一瞬息が止まり、もう一度顔を見合わせるモリヤ……頷き……ドアをそっと開ける。

 ギ…ギィーイ……。

 「……お邪魔しますよ……先生……」

 部屋の奥からも何の反応も返ってこない、静まり返ったまま……全員の脳裏にある思いが湧き上がってくる。
 勇気を奮い起こし、うお座の間に踏み込んで行く。
 廊下……リビング……人影無く……荒らされたりした形跡も無い……只の留守なのか……単純に鍵のかけ忘れで外に出ているだけなのか……。

 ……間取りは広い……まだまだ見るべき部屋がある……寝室、キッチン、バスルーム…………。

 「……おいおい」

 陽気な手品師が柄にも無く、寂しげに呟いた。

 「このままだと……せっかく客人それぞれに用意された部屋…………そのゴージャスなベッドがみな棺桶になっちまうぜ……」

 キッチン台近くに置かれたワゴンの影に素足が見える。……そのまま上へ視線を向けると既視感を思わせる紅の染み。

 頭を割られた男の死体。

 先ほどとは違い、二度と起き上がる事など無い『本当の死体』

 それは鮮血に染まるドクター・Tの屍だった。

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