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Part6『不足の代償』

「慶、調子はどうだ?」

「調子ったって……」

  リビングに入るなり投げかけられた質問に、僕は眉をひそめる。
 朝早いからいないかもしれないと思っていたが、やはり楓の父だ。朝が強い。

「まあ、上々かな?」

「まあ、元気そうには見えるな」

「でしょう」

 親指を立ててサムズアップする僕をじっと眺めていた父さんは『ふむ』と呟いて勝手に納得すると、ふいに立ち上がった。

「朝、食ってないだろう。何か作ってやるぞ 」

「誰が?」

「俺が」

「なにを?」

「料理を」

「ああ、じゃあお願――え!? 父さん料理できたの!?」

 普段は料理なんて全くしない父の一言に僕は素直に驚愕していた。
 いや、料理を全くしないなんてもんじゃない。皿と箸とコップ以外の料理に関する道具を持っているところを見たことがないくらいだというのに。

「当たり前だ。父さんはこれでもかなり料理は得意だぞ」

 そうして鼻を高くする父の意外な一面に唖然とする僕の前で、父は誇らしげに腕を組んだ。

 そのまま高笑いでもしてしまいそうな勢いだ。

「ハッハッハッハッハ」

 ――した。

「まあ、母さんには劣るがな」

「うん、知ってる」

「おい」

 かと思えばのろける父を冷たくあしらって、僕は箸を皿に打ち付けて鳴らした。

「ほらほら、早く早く!」

「……我ながら凄まじい育ち方をしたものだな。誰に似たんだ」

「どっちかって言ったら僕は父さん似だろう」

「お前の中の俺いつもそんな感じなのか……?」

 否定できないのが悲しいところだ。なので僕はあえて言及はせず、肩をすくめる事で答える。

 それを見て不服げに顔をしかめた父さんは、宣言通り料理をするべく台所へ向かった。

「調子はどうって話ならさ、――母さんは?」

 そんな父の背中に、僕は一番最初に聞くはずだった、一番気がかりだった質問を投げかける。長々とそれて、今やっと心の準備ができたのだ。自分の弱さが本当に嫌になる。

 そんな弱さを含んだ僕の質問へ、父さんはキョトンとした顔で答える。

「母さんならそこにいるだろ?」

「あ! 言っちゃダメよ! 慶のこと驚かせようとしてたのに!」

「うわぁあ!? か、母さん、いつからいたの!?」

 当然のように答えた父さんの指差す先、僕から言うところの背後に視線を移すとそこには半笑で身をすくめる母の姿があった。

 純粋に予想外の場所にいた事と、三十中盤にもなって子供のようなことをした事と、予想外に元気そうな母の姿に三重の意味で驚きつつ、僕は声を上げる。

「あ、驚いた」

「そりゃあ驚くだろ! 何やってんだよ!」

「何やってるって……驚かせようかと?」

「それを何やってんだって言ってんの!」

「だから母さんが今答えただろう。何を言ってるんだ慶」

「うわあああああ!!!」

 僕の小さい堪忍袋が盛大に爆発し、頭を抱えて叫ぶ僕を、心配そうな目で見つめる両親。

 そのいつもは腹立たしいだけの光景が、今は嬉しくて仕方がなかった。

「どうしよう。慶が壊れちゃった」

「うーん……困ったな。慶にはまだ働いてもらわないといけないのに」

「でもなんでカリカリしてるんだろ?」

「思春期だ。察してやれ」

「あっ……」

「『あっ……』じゃねえよ! あんたらのせいだ!!」

 前言撤回。やっぱり腹立たしいだけだ。

「あははは、ごめんごめん。ちょっとからかいすぎたね。久しぶりに話したから楽しくなっちゃって」

「なんで母さんが謝る?」

「こっちは素でやってたか……」

 手を合わせて楽しそうに笑いながら謝る母に、訳が分からないと首をかしげる父。何というか、これまで仲良くやってこれた理由が分かる気がする。

「じゃあ、お母さんはゴミ出しに行ってくるよ」

「あ、了解。気をつけて行ってらっしゃい」

「母さん。何なら俺が行くぞ?」

「ああ、いいよいいよ。健吾さんはご飯作るんでしょう? 楽しみにしてるからよろしくね」

「あ、そうだそうだ。忘れていた。――ああ、任せておけ」

「自分で言い出したくせに忘れるなよ」

「すまん、すまん」

「絶対悪いと思ってないよ、その人」

  手刀を動かして謝る父に、廊下からそんな声が上がる。その声に反応し、僕と父さんは同時にそちらに顔を向けた。

「言いがかりはよせ楓」

「あ、楓。風呂上がったのか」

「はいはーい。落ち着いて一人づつね」

 頭にタオルを巻いて、ラフな服装に身を包んだ楓は、薄く紅潮した頬を嫌らしく吊り上げてなだめるように手を振る。

 そんな小馬鹿にするような態度に僕は目はしを吊り上げ、父さんは律儀に黙って応じる。

「あ、お母さん。ゴミ捨て行くの? 私手伝うよ」

「え? あ、ああ、ありがとう。じゃあお願いするね」

「うん、いいよ。私はどっかの薄情者と違って親孝行だから」

「僕だけじゃなくて父さんも行かないぞ」

「お父さんは料理するんでしょ? 実は聞いてたからね」

「ぐぬぬ……あー! わかったよ、僕も行くよ!」

「まて、慶。お前は俺を手伝ってくれないか? さっきああ言ったがやっぱり不安なんだ。失敗して俺だけ怒られるのだけは避けたい」

「やっだっわ!! そんな事言われて手伝う奴が――」

「じゃあ、お兄ちゃんお願いねー」
「じゃあ、お父さんをお願いねー」

「はあ……」

 椅子から立ち上がってがなり立てる僕を、ステレオチックに揃った2つの声が遮る。

 その結託ぶりに観念し、深々と椅子に腰掛けてうなだれる頃には、役割は分割されていた。

「じゃあ行ってくるね」

「いってきまーす!」

「おう、行ってらっしゃい」

「いってら」

  母さんはいいにしても楓の奴には後でしかるべき報いを食らわせてやると決心し、僕はそれ以上の抵抗は諦めた。

 また父さんと二人きりだ。

「そう言えば――父さん今日は随分と早起きだな。いっつもはもっと遅いじゃん」

「そうか? 別にいつもと変わらんだろう」

「1時間ちがうよ。親子揃って時計が苦手か?」

「親子?」

「だから、この間の楓の――」

 そこまで言って、僕はその意味に気がつく。僕が話している楓の件は2年前の出来事だ。

 それを父さんが覚えているはずはない。だが、鈍い父のことだ、大したことではないだろう。

 それよりも、問題はこの気の緩みだ。昨日の一件は僕の緊張を緩和してくれたが、だからと言ってそこまで気は抜けない。

「ああ、あの時か。確かあのときは……」

 そんな僕の内心での驚愕などつゆ知らず、父さんは自らの記憶を探るべく思案顔で瞳を黙した。

 その瞑った瞳と引き結んだ口元に、わずかな歪みが生じたのは気のせいではないだろう。
 その機微な不和は徐々に広がり、普段無表情からは考えられない蒼白な顔で父さんは顔を上げた。

「――お前……本当にもう大丈夫なのか? それじゃあ、その態度はまるであのことを全く気にしていないみたいじゃないか。いや、そんなはずないだろう。確かに母さんから乗り越えたという話は聞いていたが、いきなりそれでは異常過ぎる……一体どうしたんだ? 何が、どうなっている?」

「は、あ……? なんの話を……」

 父さんが何に驚いているのかを、僕は知らない。あの朝からこの2年間。本来この場にいるはずの神原慶が歩んできた人生の出来事を、僕は何も知らない。

 だからまずいのだ。僕は、それを隠し切らなきゃいけない。僕は、それを知っていなくてはいけない。

「――あれ?」

 思考の中に浮かんだ違和感。その正体を掴み損ね、間の抜けた声を漏らす。
 今、僕の思考には決定的な違和感があったはずだ。

「なんでだ……何が起こっている?」

  潜めた声で唸る父の声は、それでも確かに僕の鼓膜を揺らした。

 しかし、それを認識し、理解するために裂ける脳の容量はない。今は、この違和感の究明に全霊を尽くそうと――、

「っぁぁあ!? がぁッ!! あっぁあ、あぁぁあああッッ!!!」

 ――尽くそうとして、発生した強烈な頭痛に、僕は絶叫しながら床を這った。

「け、慶!?」

「うぐあぁッ!? い゛あがぁああ!!!」

 唐突に訪れた鋭く鈍い、まるで脳と頭蓋を砕いて混ぜられているような、神経が焼き切れてしまいそうな灼熱の痛み。

 それに思考と体の自由を奪われ、僕は不規則に痙攣しながら血走った目を見開いて硬いフローリングの上でのたうちまわる。

「ぁ、は……っ! が、ぁ」

 チカチカと点滅する視界は徐々に白濁とし出し、遠のく意識の中、噛み合わない歯の根をガチガチと打ち鳴らす音を聞いている。

 口の端から漏れた涎が頬を伝う冷たい感覚ははっきりとわかるのに、手足は痺れたように温度すら狂っている。

「う……ぁが……」

 強まる痛みに比例して、体がバラバラになっていくような感覚を覚える。

 まず何かを伝えることが、次に考えることが、最後に感じることができなくなって――、

「━━━━━━━」

 そのせいで父さんが呟いた、一言を聞き逃す。

「うぐ……ぁ…………」

 そうして僕は決定的に核心に迫れるはずのヒントを再び掴み取れず――逃した。

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