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アラベスク ~貧乏旅行に出る

久しぶりに二連休がとれた! 気晴らしに、特急料金のいらない快速電車で、日帰り旅にでることにする。

そういえば大学時代は、小中学生相手の日帰りキャンプをするサークルに入ってたっけ。そこで出会った小杉君は、本人のいうには「海山の迫ったド田舎で育ったばあちゃん子」で、「シティって、なんで遊ぶのに金が要るのよ」と言っていた。
そして、川だろうが池だろうが海だろうが、水面とみれば平たい石を選んで投げた。スナップをきかせて十回も跳ねさせることができたので、子どもたちにも尊敬されていた。
かと思うと、頭のなかで方位を回転させるという特技ももっていて、「田舎の男はみんなできるよ?」といいながら、曲がりくねった山道でもずれを修正しつつ、すいすいと先導してくれた。

私は頭のなかで地図を回すなんて芸当こそできないけれど、けっして地図の読めない女ではない。土地勘のない地域でも、地図さえあれば目的地にちゃんとたどり着ける。影の方向を見て、こうして地図の方位さえ合わせれば、よし、こっち!
‥ほおら、磯の香りがしてきた。

二十一世紀に入ってからというもの、九月の気温はとても初秋とはいえなくなった。それでも、晩夏と呼べるほどには日射しが和らいでいる。海面のきらめきもどこかしらやさしい。
それにひきかえ、真夏の浜ときたら殺人光線だ。臨海学校の記念写真では、私はいつもまぶたを閉じている。無理に開けようとしてもしかめ面になるだけなので、撮られるのをできるだけ避けていた。
おかげで、まぶしくて目が痛くて世界が真っ白でなにも見えない‥そんな悪夢をいまだに見る。

過疎化した町にある穴場の海水浴場は、盆もとっくに過ぎて、海際の店も宿もすでに閉まっている。クラゲが出るとかで水に浸かる人もいない。知ってる人がだれもいない浜で、私はう~んと思いきり声を吐きだしながら伸びをした。皆はなぜ都会から逃れようとして、わざわざまた人混みに集まるんだろうね。

浜にはこないだの台風で打ちあげられたのか、ひからびたイルカを大きなワシがつついている。その肉片をカラスが横どりする。今年は、方向を見失ったイルカがあちこちで群れをなして打ちあげられた。最近は一頭ぐらいじゃニュースにもならない。
沖ではぐんじょう色の波が大きくうねる。鯨もいる海域だというけれど、海坊主って鯨を見誤った人が、Ωの親玉みたいなものを想像したのかな。

潮風に洗われながら、私は脂ののった鮭のおにぎりを味わい(駅ナカのコンビニのだけど)、ペットボトルに入れてきた水だしのミントティで喉をうるおす(ティバッグだけど)。ちょっと安物で身の丈サイズの休日。
砂の丘には、桃色の昼顔や赤紫のエンドウが咲いている。どちらも花は見慣れた形なのに、葉は塩っぽい風に負けないよう厚く艶がある。茎も短くて横長くはっている。
目をつぶり、くり返す波音を日がな一日聞いていると、ゆったりしたリズムにのって、つる植物たちがアラビア風の唐草模様となって、空へ空へと紡ぎだされてゆく。

午後から、幼い女の子が二人やって来た。大人が付いていないから、地元の子なのだろう。色ちがいの服を着ているところをみると、姉妹かよほど仲のよい友だちらしい。砂を掘っては積みあげ、海水をかけてはくずしている。

サークルでは、子どもたちの名札に、トレードマークとなる動物や花のイラストを、私が描いてあげていた。中学生にはエジプトの象形文字も人気があったな。一人に唐草模様の枠を付けたら、他の子たちからもせがまれた。
もらった順に子どもたちが歓声を上げていくと、小杉君がつられてのぞき込み、「へええ・・」とつぶやいたっけ。その一言が誇らしかった。
そのときどきの参加者の年齢や人数によって、その場かぎりのルールを決めたり、私自身盛りあがってムードメーカー役になったり。小杉君も含めて七人、男女関係ではくっついたり離れたりもあったけど、よい友人たちだった。あのころが私の黄金時代だったな。
・・ってなんだか年寄りの回想じみてるね。

私は棒を拾うと、砂に唐草模様を描きはじめた。横にまっすぐ帯状にのばしていると、背の大きいほうの女の子が気づいて見にきた。
「そっち、のばしていいよ」
声をかけると、女の子は無言のまま、指で同じ形をくり返しはじめた。私が連続模様をやめて、生きたつる草のように斜めに立ちあげると、女の子も同じようにした。ほほえんでみせると、相手もあけっぴろげに笑い返す。
それからは二人で好き放題、縦横無尽に浜につる草をはわせた。

すぐにもう一人もやってきて、花や実をつけ加えはじめた。大きいほうの子は、その実に穴をあけ目玉の大きな芋虫をのぞかせては、声をたてて笑っている。
私はヒトデで花、貝殻で蝶、サンゴでトンボを作って、四方に舞いたたせた。すると、女の子たちは、巻き貝を見つけてカタツムリにした。最後は三人で、岩場から緑や紅や茶の海草をむしってきては草や土のように彩った。

‥やがて光が赤みを帯びはじめ、五時のサイレンが鳴る。女の子たちは、ふり返りふり返り手を振ったあと、手をつないで駅とは反対方向に駆けていった。私は砂上の巨大な根なし草を、満ち潮が消しさっていくのを、もうしばらくだけ眺めていた。
いい休日だった。さあ私も、午前午後二本ずつしかない最終電車を逃さないように、帰らなければ。
駅への道を辿りながら、今日の〆に思い巡らす。夕食はぜいたくついでに、乗換駅の店で食べて帰ろう。候補は二つあるから、駅で待つあいだにサイトを見て、どちらにするか決めればいい。

‥と、集落がとぎれて、いきなり見覚えのない景色が広がっていた。
反対むきに見る風景は、同じ道でも見ちがえやすい。頭を巡らせて真剣に確かめてみたが、目印になりそうな見覚えのあるものが何一つない。
このアウェー感‥まえにも味わったことのある苦い冷や汗。

こうなると、自分が地図上のどこに位置するのか、現在地がわからなくなる。もう日射しが弱っているから、影の方向のヒントもない。
そうだ、携帯電話のナビ機能。
肩かけカバンのなかを探すが、ぱっと見では見あたらない。いらついて中身をすっかり道路にぶちまけ、底の底まで確かめポケットのゴミまではたき出す。それから、ふたたびカバンの中へ一つずつ慎重に、ガムの包み紙まで戻していった。けど、ない。

〈不注意を支える七つ道具〉という表を、初回の作業療法でもらったことがある。
「付箋/胸ポケットに入るメモ帳/携帯電話(スマートフォン)/各種タイマー/ボイスレコーダー(ボールペン型)/長いストラップ/大きな肩かけカバンかリュック」
が挙がっていた。それぞれ隣の枠には「バイブレーション式タイマー → 職場でも可」などと使うべき生活場面が書いてあった。

なるほど、脳に働きのにぶい部分があるなら、それを補う外部装置をプラスすればいいってことね! これで全てが解決するように思って、携帯にもナビ機能はじめいろんな無料アプリを入れたのに‥。私の携帯=不携帯。
今ごろ、部屋で迷惑メールなんかを受信してるのに違いない。

‥道を聞こうにも人っ子一人通らない。ひとまず方向転換して、たどってきた道を必死でとって返す。しだいに濃くなりはじめる夕闇が背中におおいかぶさってくるが、気づかないふりをする。
大丈夫、大丈夫、明日も休みじゃない。せっかく田舎に来たんだから、計画外の道で旅気分を味わうのも一興じゃない。
しかし、これで元に戻れているのだろうか。パズルの迷路なら、突きあたったら分岐点まで、鉛筆の跡を逆にたどればいい。けれども、アスファルト道路にそんな印はない。童話のヘンゼルのようにパンのくずさえまいていない。

突然、さび色ににごる水路にでくわした。その奥には、雑然と野菜が植わった自家用らしき畑、その周りには耕作放棄された田に雑草がそよいでいる。
違う、この水路を渡った覚えはない。曲がりくねった道に惑わされて、方位が完全に狂ってしまったようだ。

遠雷‥と思ったら最終電車の音だった。車輪の音を聞こえなくなるまで追って、線路の位置の見当をつける。予測より45度もずれていたが、おかげで地図の東西南北は修正できた。
こうなったら一泊もまたよし、と腹をくくる。でも、年中やっていそうな釣り宿の看板なんてあったっけ。
‥すっかり暮れてしまった。喉がかわいた、お腹もすいた。日焼けどめを衿元は塗りのこしていたようで、鎖骨の間がひりつく。
見おぼえのある景色などあったとしても、すでに薄闇にとけ込んでしまっている。

けれども、代わりに遠くの物音が聞こえだした。深夜トラックの貨物便が動きだしたようだ。単線の鉄道の駅前には食堂一つなかったが、自家用車で生活している地域では、幹線道路沿いにこそ商業施設もあるはず。店員がいれば何かしら役だつ情報も得られるだろう。
駅からは遠ざかることに不安を覚えないでもなかったが、まばらな林の細道に思いきって踏みこんだ。音の方向に歩きつづけること約十分、いきなり太い車道にでた。
暗くなったおかげで、遠くに一軒、店らしき電灯が輝いてみえる。近づいてみるとコンビニエンスストアだった。

涼しい店内の保冷棚に、見なれたサンドイッチや野菜ジュースを見つけて一安心した。いつもの弁当用の数だけ取ってカウンターに向かい、いや明朝の分も‥と引き返してカロリーの高そうなカフェオレのペットボトルも足す。
「478円になります」
片田舎でも、イントネーションまで同じマニュアル化された言葉づかいが、平常をとり戻させてくれる。私は長いバネの命綱でカバンに結びつけた長財布を取り出した。

ところが、札の仕切りにはあったのは、近所のスーパーと会社そばのデパートのレシートの束と、ポイント交換してもらった商品券が数枚だけ。いつもの店ではポイント狙いのクレジットカードで払っているし、切符は小銭で買えたから、ATMに寄るのを思いつかなかったのだ。
「これ使えますか」
と念のためクレジットカードを示してみたが、
「現金のみとなります」
と即座に返された。

詰めこんだレシートの間に千円札の一枚くらい紛れてないか、やみくもに探してみる。
・・あった!と取りだしてみたら、これが中学のころおじさんにもらった覚えのある、昔の壹圓紙幣。それが今になって現れるなんて、いったいどういうからくりなんだ。古銭商に持ちこんで売れば、額面の一円よりは価値があるのだろうが、ここで通用する話ではない。
硬貨入れも開けてみると、現代の貨幣ではあったものの、そろいもそろって小銭ばかり。十円玉2枚+五円玉1枚+一円玉3枚=28円。いったい、これで何を買えっていうんだ。私の生活は財布にさえだし抜かれる。

中年男性の店員が、辛抱づよく待っている。
「あの、お金を先におろすのを忘れてました。店内にキャッシュサービスはありますか」
われながら巧みにごまかせた。
「あいにく当店にはございません。一番近くで、隣の駅になりますが郵便局がございます」
地図をいっしょに見てもらうと、国道沿いに一本道。8キロほどあるが、2時間も歩けば着く距離だ。郵便局から駅へもシンプルな道順。今度こそ迷いはしないだろう。

けど、この先2時間も歩くとなると、脱水症状が心配になる。それでも、商品は返すしかない。謝りながら返品しつつ、恥を忍んで頼んでみた。
「では、たいへん厚かましいのですが、お水をコップ一杯だけ頂けないでしょうか」
「申し訳ございませんが、一人で任されておりますので」
そうでした、深夜労働者はトイレにも行けない。あなたも私もしがない勤め人でしたね。

ドアを出ると店先の灯りの下で、まっ先に家の鍵を確かめた。このぶんじゃ、これもまた消えてなくなってるかも。‥いや、あった。よかった。
ATMが開くのが明朝9時。通勤・通学に使われる始発電車には間に合わない、それまでどこで過ごすのか。これからの道のりと時間を考えると、どっとしゃがみ込んでしまった。

横目で店内を見ると、向こうも横目でこちらを気にしている。と思ったら入口から顔だけのぞかせた。ここにいたら商売のじゃまなのかな。
「また台風が発生したとかで、夜半から雨になるそうですけど」
なんだ、心配してくれてたのか。しかたない、屋根のある場所を探そう。時間は嫌というほどある、休み休み歩けばいいさ。そう自分を励まして立ちあがった。

よぉし、苦境だって長調できり抜けるんだ。私はうろ覚えの”Bad day”をサビばかりくり返しながら、テンポに合わせて行進を開始した。
長距離となると、サンダルのヒモがかかとにすれて赤くなったので、途中からは脱いでみた。アスファルトは昼の余熱でぬくくて、思いのほか気持ちがいい。
国道では大型車が間遠に、眠気を覚ます勢いで通りすぎる。調子っぱずれに声をはりあげても、爆音がかき消してくれる。明日も休みだし、午後からゆっくりすれば疲労も回復するはず。
そう、♪今日はちょっとついてなかっただけ。

けれども、やせ我慢で旅情を味わおうにも、道路脇には山がせまって月も見えない。舗装道路とはいえ、ときどき小砂利で痛い思いもする。しかたなく、再びサンダルをはいた。
・・しだいに足が重くなってきた。あごが出て歌が続かなくなった。喉がからから、髪は潮風でごわごわだ。シャワーを浴びたいなあ。
トラックの轟音が遠ざかると、その合間を夏虫のか細い声が埋める。せっかく浮き世を生きぬくエネルギーを充電したばかりなのに、一歩進めるごとにまた消耗してゆく‥。

山並が切れたあたりで、垂れこめた灰色の雲に、木々がまっ黒なシルエットとなってざわつきだした。その音がしだいに強まってきたと思ったら、細かい水滴が腕に触れた。
おもわず上を向いて、恵みの雨で喉をうるおそうとしたが、飲めるほどには口に入らない。生ぬるい霧雨が、クモの巣のように顔にまとわりつくばかり。

そのくせサンダルの中は、ぬるぬるする。脱げないように気にしていたら、今度はサンダルの底がずるっとすべって、初心者のスケートみたいに片足だけ思いきり前へすべってしまった。ピシッと全身に電流が走り、危ういところで踏みとどまった。
路面から犯人らしき光るシワをつまみあげ、次の街灯まで運んでかざしてみると、私が買おうとして買えなかった「ツナたっぷりサンド」の文字が見えた。袋の中には、マヨネーズと覚しき白っぽい油がべっとり残っている。勝手に唾が湧いてきて、空腹が倍増する。

空しく歩きだしてみると、足の付け根が重痛い。ごわついていた髪が、額に首筋にぺったりと貼りつきはじめた。いっそシャンプー剤を持ってれば、歩いてるうちに髪を洗えたか‥
おまけに、頭がひんやりしてありがたかったのは初めだけで、服もぬれて貼りつくころになると、気化熱で体が冷えてきた。雨宿りしたくても、ガードレールは見渡すかぎり切れ目がなく、軒を借りられそうな建物に続く脇道もない。うう、今度は低体温症の心配か。
交番にかけ込めば一晩ぐらい保護してくれたかも、とひらめいたが、暗くて地図が見えない。コンビニで確かめなかったのを後悔するが、今さら戻るには遠すぎる。

とどのつまり、休憩もとらずに歩き通し、予定より半時間遅れで目標にたどり着くと、郵便局の狭い軒下に倒れこんだ。かかとのマメはつぶれ、かばいながら歩いていたせいで、土ふまずが板のように突っぱっている。
上空では映画の効果音並みの音で、いよいよ気流が渦巻きだした。いまにも突風で物がとんできて、ぶち当たりそうだ。雨はしれているのに、寒くて歯の根が合わない。夏とはいえ、全身ぬれたまま眠りこんだら凍死しかねない。

上半身だけでもと、誰も通らないのをいいことにブラジャーまではずして、日よけ用にもっていたヨットパーカーに着替えた。フードをかぶり、すそを三角座りで膝にかぶせ、手先はそれぞれ反対側の袖口につっ込む。
その姿勢のまま横になってみたが、ただのコンクリートが氷のようで、すぐに起きなおった。このあと数時間して空が白み人通りがでてきたら、女が一人、ここに転がっているわけにもいかないだろうな。

「私・ハ大丈夫、私ハ大・丈夫、カイク・グッテ・生・キルンダ」
がくがく震えながら、十代から親しんだ呪文をとぎれとぎれに唱えてみる。でも、もしかして「ついてない日」ではなく、まるごと「ついてない人生」なのだったら‥

鍵をジャラジャラぶら下げたうす汚い女が、頭によみがえる。素性の知れないあの女だって、昔は勤め人か平凡な主婦だったんだろうか。ひょっとして鍵をなくしたのが元で、クビか離婚の憂き目にあって、そのあげくの果ての姿なのかもしれない。
私だって、店の前で不良よろしくしゃがみ込んだり、軒下でホームレスのように寝ころんだりしたいわけじゃない。なのに私の現実は、なぜかこんなだ。

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