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ジーザスという名の犬

ピノとジーザスは、たった一年しか遊べなかった。

 ボクの家で犬を飼い始めたのは、志望の高校に受かった娘から、せがまれたのが始まりだった。娘は、インターネットでパピヨン専門のブリーダーを探しだし、生後三ヶ月のメスの子犬の予約までしている。毎日散歩して世話をするんだよというのが、娘との初めの約束。あれほど熱心だったので、当分の間は世話をするだろうと思っていたのだが、そんな決まり事も、新鮮な高校生活が楽しくてしかたがない娘は、すぐに忘れてしまっていた。

 マリーアントワネットが溺愛したと言われる小型犬パピヨンは、とても優雅で美しい犬だ。その名前の由来である大きな耳を持ち、明るく人懐っこい性格なのだが、はしゃぎ過ぎるのがタマに傷。リビングで追い駆けっこすると、一人ではまず捕まえることができないほど、足が速い。そんな愛犬の名前『ピノ』はボクが付けたのだが、好きなワインの葡萄の名前。娘には、そんな由来は説明しなかったのだが・・・

 犬を飼うのはボクは初めてだったのだが、これほど犬が可愛いものだとは知らなかった。フワフワとした白く長く美しい毛でくるまれているので、小さく見えないのだが、成犬になっても3kgを超える程度しかない。片手で抱っこできるくらい小さく軽いので、永遠に大人にならない幼児のようなもんだ。

公園デビューしてからは、土日の散歩はボクの役目となり、リードを付けて自慢のピノと散歩することは、いつのまにかボクの楽しみになっていた。

 ボクの近所の家は例外なく室内犬を飼っており、歯医者より動物病院の方が多い土地柄だ。夕方のお散歩タイムになると、近所の小川沿いの小道は、定番の「お散歩ロード」と化し、犬と散歩する人で列を成していた。

 お散歩を始めて半年も経つと、顔見知りの犬もできた。できるだけ毎回同じような時間帯に散歩することで、同じ犬達と遊べるようにもなった。人見知りをせず、誰にでも尻尾を振り、外ではまったく吠えないピノは、人気者だった。
一番よく遊んだ犬は、若い夫婦が連れていた『ジーザス』という大胆な名の柴犬だった。ピノと同じ、まだ1歳くらいの幼犬だったので、毎週のように一緒に公園で走り回って遊んだ。

 もう一頭は、おばあさんが連れていた『ポンタ』という名の、コーギーと柴犬のミックスだった。いつの間にか土曜日の夕方は、周りを樹木で囲まれた小さな公園で、三頭で遊ぶことがお決まりになり、一頭でもいないと寂しい思いがしたものだった。

 ジーザスと出会えなかったある日のこと。ポンタのおばあさんから、ジーザスとは毎日欠かさずに夕方からこの公園で遊んでいるんだよ、と聞かされた。ジーザスの飼い主は、どう見ても三十台後半に見える、知的で上品な若夫婦だったので、意外な感じがした。あまりプライベートなことも聞けないので、いったいどんな仕事をしているのか謎だった。

 とある木の葉が色づいてきた日の夕方。いつもの小さな公園で、落ち葉を跳ね飛ばしながら、三頭はじゃれあっていた。ジーザスの飼い主である夫が犬たちと追いかけっこをしている時、スリムで華やかな奥さんは、静かに語りだした。
「実は、来週から会えなくなります。やっと夫が仕事に復帰でき、引越しすることになりましたので……」

 あの若く物静かな夫は、実は長期の海外勤務でメンタル疾患となり、二年間の療養生活を送っていたのだった。子供がおらず、部屋に閉じこもりがちな夫のために、犬を飼うことを妻が勧めたのだ。毎日外出する理由つくるために……
幸いなことに、ジーザスと毎日数時間散歩をすることで、夫は次第に回復に向かい、職場復帰を果たせたのだった。

 翌週、ボクはいつものようにピノと散歩に出かけ、同じ公園でポンタと遊んだ。ポンタは中型犬なので、ちっちゃなピノだけだとあまり上手く遊べなかった。やはり柴犬のジーザスがいないと、ポンタも寂しそうに見える。おばあさんも最近ジーザスと会えないので、調子が出ないと嘆いていた。

 翌週からボクとピノは、散歩コースを変えた。結局、最後の日まで、ジーザスの名前の由来は聞けなかった。

 ジーザスと会えなくなった日、ボクは散歩から帰るとき、ピノに「ジーザスと会えなくて寂しいかい?」と聞いてみた。ピノは大きなウルウルした眼でボクを見上げながら、「ワン!」と吠えた。

『ピノとお散歩 其の一』

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