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グレる豹真とカッコ悪い僕

 翌朝、公民館に向かった僕は、通り道のあちこちにある桜の枝で、つぼみが膨らんでいるのに気づきました。
 もうすぐ咲くのだ、と思うと気が軽くなり、僕は自然と走り出していました。
 おかげで、公民館に早く着きすぎてしまったことといったら!
 それほど肌寒くもなくなった朝の空気の中で一人ぼっちでいると、そこへいつものトレパンにヤッケ姿の理子さんがやってきました。
 昨日はどうも、と挨拶しても返事がありません。背中を向けて、僕のほうを見ようともしないのです。何か怒っているのかと思いましたが、もうそれほど気にもなりません。僕も春の色に染まりかかっている朝の空を見上げていました。
 町内会長さんは、なかなかやってきませんでした。無言のまま二人で立っているのも気づまりで、何か話しかけようかと思い始めたとき、理子さんが鼻歌を歌っているのが聞こえました。
 理子さんが、鼻歌なんかを。
 思わず振り向くと、理子さんも僕をちらっと見たところのようでした。慌てて目をそらしましたが、理子さんも多分、そうしたんでしょう。
 勇気を振り絞って聞いてみました。
「それ、なんて曲ですか?」
 曲名は答えずに、理子さんは詞を付けて歌い始めましたね。
 英語でしたが単純な歌詞だったので、聞いただけでだいたいの意味は取れました。
 つらく寒い冬の果てに、春の陽が差してくる。
 四字熟語で言えば、「一陽来復」。 
 そこへ町内会長さんが鍵を持ってとぼとぼやってきましたが、僕たちを見るなり、両腕を広げて駆け寄ってきました。もっとも、ハグしようとした瞬間、理子さんは要領よくその腕をすり抜けたので、酒臭い身体で抱きしめられたのは僕一人でしたが。
 大人たちがいつものようにやってきて練習が始まると、知らないうちに来ていた豹真が横笛の音を流していました。
 
 始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の()らしたまふや、な……

 町内会長さんが再びダメを出しましたが、僕はアクセントを変えたり、言葉を変えたりしてごまかしをやめませんでした。
 大人たちは渋い顔をしましたが、町内会長さんは「まあまあ」となだめてくれました。しかし、とうとう一人が怒りだして町内会長さんと喧嘩を始めたのは、練習を繰り返すたびに堂々と間違いをやらかす僕の横着さに我慢が出来なくなったからでしょう。
 その怒りの矛先が僕に向かうのも当然です。
「おい、坊! ちょっとこっちこい!」
 そう怒鳴られても、僕はもう怖くありませんでした。
「すみません!」
 大げさなぐらいに頭を下げてみせましたが、そんなことで許してもらえないのは想定内です。
 やる気がないだの、大人を舐めてるだの、罵詈雑言が飛んできましたが、やりすごせば済むことです。
 勝負どころは、そこではないのですから。
 しかし、僕がやりすごしても、正面から受け止める者がいたら意味がありません。
 横笛の音がブチっと途切れて、甲高い声が喚き散らしました。
「うるせえんだよ、ジジイ!」
 豹真でした。
 CD操作を投げ出して、僕を怒鳴りつけていた大人に迫ります。
「遊んじゃいねえだろ、やってんだろ、『なんじ』って言えねえだけだろ、出来ねえことをやらねえって決めつけてんじゃねえよ、だから家んなかでも相手にされなくて、こんなところでブラブラしてんじゃねえの?」
 本当に余計なことをする男です。
 これには他の大人たちもカチンときたらしく、一人、また一人と豹真を取り囲み始めました。
 豹真はと見れば、あのひきつった笑みを浮かべています。
 背中に悪寒が走りました。言霊「ほむら」が使われるときに感じる、あの感覚ですが、それを知らないはずの理子さんが「樫井さん」とたしなめにかかるほど、その場の雰囲気は悪くなっていました。
しかし、これこそ僕の出番です。
 僕は恥も外聞もなく、町内会長さんを含む大人たちひとりひとりに媚びて回りました。
「すみません、何でか分かりませんけど、そこんとこだけ上手く出来ないんです。すみません、本当にすみません! 本番はしっかりやりますんで、どうか最初のとこだけ、どうか!」
 傍目からみれば、その場の空気に耐えきれずにテンパってしまった根性なしの高校生そのものだったでしょう。
 豹真を含め、理子さんも、町内会長さんも、その場にいる全員が引いてしまったことが、肌で感じられました。
 しばらく誰もが口を開かず、部屋一杯に気まずい雰囲気が充満していましたが、とうとう豹真がプレーヤーの電源を切り、アンプとの接続ケーブルを力任せに全て引き抜いたかと思うと、公民館を飛び出してしまいました。
 慌てた町内会長さんが後を追います。
 豹真との会話が、どんどん遠ざかっていくのが分かりました。
「ちょい待て!」
「俺、もう帰る!」
「ああ、そのコード……」
「これ、俺の私物!」
「それがないと……」
「だったら俺が吹いてやるよ!」
 次に出て行ったのは、さっき僕を怒鳴りつけた人でした。いい年をして、はるか年少の者にきちんと謝ることもできないようです。
 それに続いて、他の大人たちもぶつくさいいながら帰ってしまいました。
 残ったのは、僕と理子さんだけでした。
 やったことがどう思われているか気になって、理子さんの顔色を伺うと、思いっきりそっぽを向かれて心がひしゃげました。
「カッコ悪……」
 そのとき、強い風がどっと吹いて、窓ガラスをガタガタ揺らしました。
 やがて、町内会長さんが汗を拭き拭き戻ってきましたが、僕たちだけが残った公民館の中に座り込んで、それはそれは深い溜息をつきました。
 さすがにこれはやり過ぎたかと思って、声をかけるのもちょっとためらわれましたが、そこで動いたのは理子さんでした。
「あの、さっきいの要領でええんやったら、見てくれんかな?」
 町内会長さんが苦笑したのを覚えています。
こうして、その日の練習は、3人だけで再開されたのでした

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