7.山犬一家
翌朝、台風一過のすっきりとした空が広がっていた。
シェイラは少し遅めの朝食を摂り終え、まだ少しぼうっとした頭のまま、“調査”に向けて準備を進めている。
(うぅ……眠い。いつ寝たのかも分からないし……)
身も心も高揚していたせいで、あまり眠れていない。“報酬”を食べた後はそのままベッドに入ったのだが、宿屋のベッドが二つしかないため、仮眠した時のようにベルグと一緒に眠っていた。
その際、ベルグが『いい匂いがする』と耳元で囁くように言ったものだから、シェイラはどぎまぎとし内から体温を上昇させたのが始まりである。
二人で眠るには狭いベッドなので、顔が近くなるのは当然なのだが、それでもどこかで“女”の
“弟”だと思っているため、目の前の《ワーウルフ》を異性だと捉えていないシェイラであるが、当時の幼い頃と違い、二人はもう“大人”なのだ。『もし何かの拍子に……』と考え始めると、どうするべきかの皮算用に一人悶々としてしまっていたのである。
薬草風呂の効用なのか、内面からのそれなのかは分からない。火照りを覚えた身体はじっとりと汗ばみ始め、少し引き締まりつつある腹の上に水滴を浮かばせていた。
(冷静になって考えれば、まず起こるわけないんだけどね――)
今思うと、どうしてあんな事を考えたのかと恥ずかしくなってしまう。
横の獣の体温と合わさって、ベッドの中の温度は最高潮となり暑くて堪らない。
はぁ……とため息をついて、まだ暗い部屋の天井を見れば、思い出すのはモンスター退治の事であった。
朝になっても、手はまだそれを覚えている。じっと見つめれば、じわりじわりとその達成感が広がってくる。
モンスターと言えど、“倒す”と言うことは命を奪う行為だ。それを喜ぶのはどうかとも思ったが、『冒険者らしくなった』と思うと、つい顔をほころばせてしまうのであった。
シェイラはまだ眠気が残る目で、もう一度その手を見た。
白くやわらかな手のひらには、女らしくないマメが点々と出来ている。
(よしっ! 今日も頑張ろう――!)
彼女は、これを恥であるとは思っていない。
ぐっとマメを握り込み、自信を胸に、槍を背にベルグ達の待つ畑へ足を向けた。
その一方――先に現場で待っていたベルグは、怪訝な目で野菜泥棒が潜む山をじっと見つめていた。犯人の予想はついているのだが、その動機が不明なままである。
彼の傍らには、昨日の作物の残骸と、シェイラが立ち回った足跡が大量に残されている。無事だった畑は三分の一程度であるため、持ち主であるマッシャ―婆さんは、このまましばらく畑を休ませるつもりのようだ。
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それからしばらくして――シェイラの到着と共に、三人は山へと足を踏み入れていた。
木々の間から澄みきった空が覗き、昨晩の強風が嘘であるかのような柔らかい風が木の葉を揺らし、夏の草木の匂いを届けてくる。
それ以外は、鳥が囀る静かな森――青々とした葉が落ちる中、湿った枯葉の上を六つの足が踏み歩く音がしているのみ。まるでハイキングのようなそれに、シェイラは任務を忘れ『やっほー』と言いたくなるのを、ぐっとこらえている。
「――犬っころ、待て」
だが、ここはモンスターが潜む山、三人はそれらの住処に向かっているのだ。
カートが先を行くベルグの肩を掴むや、無言で指を立て、地面を指した。
その先には湿る茶色の土の上、足首くらいの高さに、薄黄色のツルがピンと張られているのが見えた。
「……罠、か」
「ねぐらが近いって事だな。
シェイラ、そこに横に張られたツルがあるのが分かるか?
あれは恐らく、そこの
「う、うん……」
森の中で仕掛ける罠は、迷宮内にある毒ガスや電撃床のようなものはないが、
シェイラは、まだ迷宮探索の訓練を受けていない。ついでだから、とカートより罠の説明を受けていたのだが、罠にかかった末路まで話されたため、足下が不安で堪らなくなってしまった。
鋭く尖る金属棒が潜む落とし穴――など、想像するだけでも恐ろしくなってしまう。
(外歩けなくなるかもしれない……)
目の前の罠も、自然の物を利用しているからか、精巧にカムフラージュされている。
木と木の間に張られているそれは、じっと目を凝らしてやっと気づくような物だ。
もし知らずに触れてしまえば、すぐ傍で大きな
“罠にかかる”と言う言葉が、とてつもなく恐ろしく感じてしまっていた。
一歩一歩確かめるように『慎重になりすぎる方がいい』とのカートの言葉に従い、ゆっくりとツルをまたいでゆく。
「――や、やったっ……!」
そのせいか、たかだか二メートルほど歩くのに、五分以上かけてしまっていた。
本人は高く上げているつもりであるのに、震える脚は十センチも上がっておらず、いざ高く足を上げれば、その場で足踏み……一歩も前に進まなかったのだ。
だが、それでも罠を発動させる事に比べれば、十分でも二十分でもかけてくれる方がマシである。
罠の察知や解除は
カートが先行し、罠を位置を察知してはそれを知らせ、解除できる物は先行してそれを潰してゆく――。
長く緊張状態が続いたせいだろう。その罠の一帯を抜けた時には、シェイラの肩はバキバキに凝り、頭もよく働いていない様子だった。
目も乾燥しているのか、瞳をぎゅっとつむって目を潤ませている。
「あの洞穴の中だ――」
「あれは……もしかして、《コボルド》か?」
「わ、あの小さいの可愛いっ」
「うむ。群れを離れたのだろう、どれ……俺が話を聞いて来よう」
疲労困憊のシェイラを横に、ベルグは茂みから二足歩行の犬を指さした。
《コボルド》と呼ばれたそのモンスターは、好奇心旺盛で比較的温厚な種族である。
そのため、敵意を見せない限り、向こうから攻撃を仕掛けてくることはまずない。
……のだが、まさか“遠い親戚”のような、大柄な犬が尋ねて来るとは予想だにしておらず、現れた“犬”に慌てふためき、尾を股の間に挟みながら武器を構えていた。
「――待て待て。俺はお前たちを襲いに来たわけではない。
俺は“北のワーウルフ”だ。畑の持ち主から依頼を受け、調査に来ている。
で、だが……お前たち、人間の畑から作物を盗んでいるな?」
その言葉に、《コボルド》はウォッ!? と目を見開き、動揺を見せた。
目を伏せ、耳を垂らしたそれにベルグは、ふぅ……と一つ息を吐く。
「俺も“被害者”も、お前たちを罪に問うつもりはない。
しかし、人間の畑から盗みを働いた理由を聞かせてくれんか」
観念した様子で、小さく頷いたのを見たベルグは、外で待つ他の二人を呼び寄せた。
シェイラは父親の後ろから顔を覗かせた、幼い《コボルド》を見て目を輝かせる。
まだ人間を知らない、幼い《コボルド》の黒真珠のような瞳は、目の前で顔をほころばせる女に興味を向けていた。
それを他所に、“父親”は淡々と犬の唸り声をあげ始め、ベルグはそれをふんふんと聞いている。
『我々は群れを離れ、湖の
突然、《キングクラブ》の親玉がやって来て、我々の家や畑を荒らし始めたんでさ……』
この《コボルド》は恋人が孕んだ事を知り、この機会にと二人と産まれてくる子供だけの暮らしを求め、ここラスケットの郊外に居を構えたのだ、と言う。
そこに《キングクラブ》に住処を追われたため、食うに困った《コボルド》の一家は、やむなく、マッシャ―婆さんの畑から作物を盗んでいたようであった。
「な、何て言ってんだよ?」
「どうやら《キングクラブ》に住処を追われたらしい……。奴らが来た理由は分かるか?」
『海面が上昇し、根城にしてた浜磯が水没したとか言ってやした』
「ふむ、やはりこの水位の上昇か……。奴らも住処を失ったようだ」
「――なら、国の奴らに急がせねェとな。俺達の出る幕じゃねェ」
『“断罪者”にお願いしやすっ!
あの生意気な《キングクラブ》をやっつけてくだせぇ!』
「それは、《オーク》が出す依頼ではないか……。
だが、自然災害が原因なら国の役目――我々は手が出せないのだ」
『時間がありやせん! あいつらは町を乗っ取る気でさ!』
「な、なんだと!?」
ベルグはその言葉に目を見開く。
住処を返せ、と《キングクラブ》のヌシに直談判に行った際、人間の町に移るので、その時に返す――と、言っていたと話した。
昨晩やって来たのは、それに先走ったモノ達であり、遅かれ早かれ自分たちの物になるのだからと、先に唾を付けに来ていたのだ。
ベルグからそれを聞いた、シェイラとカートも同様に、その目を見開いてしまっていた。
「ま、ますます倒さなきゃいけないじゃないっ!?」
「うぅむ……」
『報酬ならありやす! このキラキラの石で請けてくだせぇっ!』
「え、エメラルドじゃねェかこれ!」
《コボルド》は、コバルトの採掘も行っている。
その際、こうして宝石も掘り起こしてしまう事もあるのだが、彼らにとってはキラキラ光る石程度の認識しかなく、あまり価値が無いものであった。
この《コボルド》が差し出した五センチ角ほどのそれでも、人間からすれば大判金貨十枚は下らない代物だった。
「へへっ、こんな報酬があるなら受けるに決まってら」
「お、お金でやるわけじゃないけど……町の人が助けられるならやろう!」
「うぅむ……。だが、《キングクラブ》が相手であると装備がない」
『ジャック・オー・ランタンなら可能みたいなんですがね……』
《コボルド》は黒い瞳を向けた先には、オレンジ色のカボチャ頭がいくつか転がっていた。