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「ちぇっ、ちぇっ、チェシーさんのばかばかばかばかばかばかばかッ! もういいです二度と貴方の顔なんて見たくありませんとっとと出て行け! っつーか僕が出ていきますから皆さんでよろしくやって下さいええそうして下さいさようなら!」
 どんがらがっしゃん。どうやら花瓶が割れたようである。床に水打たれる濡れた音が広がり、だだだだと部屋を駆け抜ける足音。
 ばんとドアが開く。毎度毎度覗き見しているザフエルの鼻先をびゅうっとばかりに、まぶしい純白の軍服、風のように青くかろやかなサッシュ、そして一瞬、怒り心頭にきらめく薔薇の瞳がじろりと振り返って。
 男にしては随分と小柄な背中から超巨大な怒りのオーラを噴き上がらせ、ニコル・ディス・アーテュラスは廊下を駆け去ってゆく。
「ふむ、今回の駆け込み先はどこでしょうな」
 と、聖ティセニア第五師団参謀ザフエル・フォン・ホーラダインは機械的につぶやく。別に何か心配しているとか、そういう様子ではまったくない。
「閣下! ぐうわあああ」
「なっ何がどぎゃあああああ」
「ど、どうかなざあああああああ」

「……あれほど廊下を走るなと言ってあるのに」
 城砦の廊下は狭い。対ゾディアック帝国国境、最前線に位置するこのノーラス城砦は、南部の平和ボケした貴族たちの住む優美な城とは違い、あくまでも要塞として堅固に作られているせいもあって、このような殺伐とした空気においては、さまざまに仕掛けられた罠が発動する――ようになっているのである。
 ニコルが泣きながら突進していったそのあとには、ばたばたと落ちる格子戸に挟まれもがき苦しむ兵たちの姿が死屍累々と連なっていたのであった。
「うがあああ」
「ふぎぃぃぃ」
 まさに断末魔のうめきが満ちるなか。
「やれやれ」
 呆れた微笑を浮かべて、チェシー・エルドレイ・サリスヴァール准将が執務室から現れる。何故か手に色とりどりの生花を三束ほど持っている。先ほどの花瓶攻撃を受けたのだろうか。
 サッシュも巻かずにいる白い軍衣の袖を乱雑にまくりあげ、ボタンをだらしなく全部はずして、いつものように着くずした格好ではあるが、こちらはかなり情けない状態、つまりびしょ濡れだ。
「結婚を申し込まれてしまったよ」
「それは違うと思いますが」
 ザフエルは白い目を向けて言った。
「いいかげん閣下をからかうのはやめにしたらどうです」
「そういうあんたもいい加減覗くのをやめたらどうだ」
「こういう楽しい出来事があるうちはやめられませんな」
「仕事しろよ……」
「閣下のお守りも任務のうちです」
「なるほど」
「で、何が何でこうなったのでしょうか」
 ザフエルの刺々しい視線にチェシーは肩をすくめる。
「さあな。師団長閣下はどうやら私がお気に召さないらしい。私のどこがいけないというのだろう」
「ほとんど全部じゃないかと思いますが」
「まさか。ありえない」
 チェシーはわざとらしい驚きに眼を大きく見開いて言い抜けた。
「もう少し筋肉をつけろと言っただけなんだが、あのふにゃふにゃでやせっぽちのガキに」
「……」
 ザフエルは口の中でなにやら「それは禁句……」だとか何とかぶつぶつ転がしつつそれ以上は問わず、毎度毎度、箸にも棒にも掛からない騒動を引き起こす連中の片割れを放ったらかしてきびすを返した。
「閣下はあれだからいぢり甲斐があるのであって、あの顔で筋骨隆々だったらどんなに気持ち悪いか、一度想像なさってみられては」
「確かに。全力で逃げ出しかねないな」
 ところで、うごめく犠牲者たちの末路は哀れだ。まだ苦しんでいる。
「お願いです参謀長どのうううう」
「大隊長どのうううううう」
「助けてくださいいいいいいい」
「分かった。ちょっと待ってろ」
 チェシーは苦笑しながら壁を探り、からくりの小扉をあけて、中のハンドルをぐるぐると回す。少しずつ上がっていく落とし格子の下から、ようやく這い出す兵士たち。ヒゲもじゃの中年兵が年甲斐もなく感激してしくしく泣いているのはちょっとした見物であった。
「あ、ありがとうございます大隊長どの……助かりました」
「君も手伝え」
 と兵士に声を掛けてから、チェシーはさりげなく遠ざかっていくザフエルの背に怒鳴った。
「どこに行く。逃げる気か」
「なぜ私が逃げるのです」
 ザフエルは立ち止まった。
 首だけを微妙にねじってちらりと振り返る。
 いつもの無表情がさらりと肩から流れる黒髪に伏せられ秘められて、なぜか余計底知れぬふうに見えた。
「これはそもそも貴方のせいですから、貴方が手ずから助けるべきです。そして私には別の用事がある」
 ザフエルはそれだけを言うとあとはもう見向きもせず、ひんやりと暗がりに沈む廊下の反対側へと消えていった。

 壁の上から下まで、右から左まで、床という床、机という机のすべてをぎっしりと古本が埋め尽くしている。
 そんなところに燭台を持ち込んで倒しでもしようものなら一気に炎上、煙に巻かれて窒息死は免れないと思えるような、はたまたインクとカビと装丁された皮革の古めかしい匂いとが渾然一体となって独特の悪臭を醸し、長居をすればするほど変な臭いが染みついて取れなくなりそうな、そんな資料室に。
 ニコルは難しい顔をして埋もれていた。
「閣下」
 背後の闇から聞き慣れた声が掛かるのも無視。
「何をお探しでしょうか」
「うるさい」
 八つ当たり気味に言い返してから、ニコルはふと思い直した様子で振り返った。
「……どうして僕がここにいるって分かったんです」
 探し当てられたことの驚きよりも、そこに思いがけずザフエルがいたことへの安堵のほうが大きかったのかもしれない。ニコルは情けなさそうな顔で笑って、ためいきをついた。
「そんなに行動を読まれてるとは思わなかったな」
 ぱたりと本を閉じる。
「で、何の用。僕はしばらくここを出ませんから」
 拗ねたように言う。ザフエルはすぐには返事をせず、山積みのまま整理しかねている資料室を見回した。
「ふむ。今度人を割いてここを整理させましょう」
「いいですね」
「いつでも閣下が逃げ込めるように」
「僕は別に逃げ込んでるわけじゃありません。前向きに籠城しているだけです」
「この書架の裏側には昔、牢獄につづく扉がありまして」
 ふいに蝋燭の火がぐらりと揺れる。ニコルはぞくりとした顔でザフエルを見つめた。
「何、急に変なこと言い出さないで下さいよ」
「何も知らない誰かが書架を動かしたため、どうしても出られなくなった兵士が……それから、夜になると……」
 ザフエルは淡々と続ける。
「壁の中から……」
 ――ふいに、がたん、と。
 ザフエルはそしらぬ顔でテーブルの足を蹴った。
 ニコルはひぃっと泣いて頭を抱えた。
「なななな何ですか今の音!」
「さあ」
「さあじゃなくって! 凄い音しました今凄い音!」
「はて」
「いいですもういいから、出ましょう。何だか気持ち悪くなってきた」
「はあ」
 ニコルはテーブルの本を小脇にかかえて立ち上がった。

「で、その本は」
 ザフエルが問いかける。
 資料室から出たその場所で、ニコルは廊下にぺたりと座り込み、また本を広げてみせた。
「いや別に見せて戴かなくても」
「これ、ご存じですか」
 ニコルが指さしたページには、妙に現実味のある戯画《カリカチュア》が描かれてあった。
 印刷は荒いが、おそらく元は精密な銅版画だったと思われた。図の一は洞窟で腰を抜かす農夫らしき男、図の二は珍妙な顔のついた花の根らしきものを大鍋に入れて煮込んでいる様子、そして図の三には、天使がらっぱを吹きながら頭上を舞っている下に、数名のムキムキな裸男が腕を組んで踊っている様子が掲載されている。
「花、ですか」
「だと思うんですけど」
 ニコルはメガネを揺すりながら本に顔を近づけ、ゆっくりと読み上げた。
「学名エコルシェ・ムスクルウス・カーナンサス。洞窟に咲くシダコケの仲間で、本当は花じゃないらしいけど見た目は花みたいで、この本によると根っこが凄いらしいです」

 ……何が凄いのかしれたものではないが。

「それにしても聞いたこともない花ですな。それがどうかいたしましたか」
「迷宮に、これを取りに行きたいんです」
「なんと」
 とりあえず驚いてみせた、という程度の返事しかしないザフエルに、ニコルはムキになって長々と説明し始めた。いわく、この花は滋養強壮によく身体をよい状態に保ち、男性はより男性らしい肉体をつくり、女性はより男性らしい肉体に変わり、つまり――
「もっと男らしく、たくましくなりたいと」
 ずばり言われてニコルは黙り込み、頬を真っ赤にしてうつむいた。
「う、うん」
 蚊の泣くような小さな声で弱々しく言う。
「……チェシーさんがあんまり馬鹿にするから……」
「ふむ」
 顎に手を当てて考え込むザフエルに、ニコルはすがるような目を向けた。
「……だめ?」
「閣下とサリスヴァールでは戦い方が違います」
「分かってます。でも」
 ニコルは首を振った。慰められていると分かっていても、簡単には気が収まらないのだろう。
「でも悔しいじゃないですか!」
「困りましたな」
 ザフエルは腰に手をあて、体重をあずけた。
「閣下も物理攻撃無効化のカードをお持ちになればよいのです。それがあれば奴など敵ではありませんぞ」
「じゃ、貸して下さい。とりあえず」
「ふむ」
 ザフエルはうなずいてカードを取り出した。
「丁寧にお使い下さい。しかし迷宮には人間の姿形を真似する魔物が」
 ニコルはぱっと顔を輝かせると、ザフエルの忠告を聞きもせずにカードだけをひったくった。
「ありがとザフエルさん行ってくるよ!」
 本を放り投げ、脱兎のごとく駆けだしてゆく。ニコルが廊下をだだだだ、と走り抜け角を曲がったとたん、がしゃーんと物凄い音がして床が揺れ、壁が揺れ、天井の落とし戸がばたりと開き。
 その結果、がらがらと鎖の凄い音をたてながら落ちてきた格子が、ずどーん、とばかりに床へ食い込んだ。
 ぱらぱらと埃が舞い散っている。

「……」
 ザフエルは頬をわずかにひきつらせると、背後を振り返った。
 後ろは資料室。ぎっちりみっちり詰まった本の密室だ。
 前方は先ほど落ちたばかりの落とし格子。
 他には窓も出口も分かれ道もない。どうしようもなく塞がれた地下一階の密室だ。
 見事なまでに誰もいない。誰も来ない。そして、誰も来られない。
「なんと」
 無敵を誇った鉄仮面が、そのとき初めて揺れ動いた。



 ぴっちょ……ん。
 つぃ……っぴちょー…ん。

 氷のような音を立てて滴り落ちる水の音以外、他に何も聞こえては来ない暗黒の迷宮を、ニコルは入り口の岩に足をかけてのぞき込む。
「うっわ……」
 寒気と恐怖にぶるぶると思わず震い上がりそうになるのをもっと大きく頭を振ってごまかし、勇気を振りしぼって足を踏み入れる。

 ぴっちょ……んんんん……。
 つぃ……っぴちょほぉぉぉ…ん。

 響き渡る水滴の音が木霊のようにゆらゆらふるえ、地獄の底までも続くかとおもわせて、あまりにも恐ろしい。
「めちゃめちゃ怖いんですけど」
 泣きそうな声でつぶやく。しかし脳裏に傲岸きわまりないチェシーの高笑いをよみがえらせるや、ニコルはぐぐっと拳を握り、怒りの反作用力を最大限ためて、闇を睨み付けた。この迷宮を踏破すればチェシーなど目でもない力を手に入れられる(はず)!
 あてずっぽうの期待感だけを胸に、ニコルは一歩一歩を探るように奥へ奥へと進んでゆく。
 と、そのとき。
「もしもし」
 誰かに肩を叩かれた。
「はい?」
 思わず愛想良く振り返ったニコルの目に、もう一人のニコルが映る。
「何してるんです」
 闇の向こう側で、ニコルが微笑む。
「えっと、エコルシェ・ムスクルウス・カーナンサスっていう花を探してる……ん……」
 ニコルその一は説明しかけて絶句する。
 ニコルその二はきょとんと首をかしげ、なおいっそう不思議な笑みを深める。
「どうかなさったんですか」
「あ、あのっ」
 ニコルは、声を呑んで後退った。
 ニコルもどきは、うっすらと微笑んだ。ぞくりと恐ろしい、のっぺりとした仮面が笑みの形に引きゆがむ。
「あ、あなた誰ですか」
 ニコルは泣きそうになって声を裏返らせた。もう一人のニコルが不思議そうに訊ねる。
「あなたこそどなたです?」
「ぼ、僕はニコル・ディス・アーテュラス……」
「じゃあ僕も」
「じゃあって何なんですか!」
「だって僕は僕ですもの」
 ゆっくりと沈んでいく微笑の奥から、似ても似つかない凶悪な笑いが浮かび上がってきた。
「僕はあなた……あなたなんですよ」
「うわっ!」
 恐怖に駆られたニコルが逃げだそうとした、そのとき。
「その顔を下さい。あなたの顔を。かわりに僕の顔をあげるから……!」
 ぐい、と肩をつかまれる。
 その手がまるでどろりと溶け出したかのようにつめたく喉へと這い寄るのを感じて、ニコルは耐え難い悲鳴をあげた。
「きゃああああ気色悪ううう……!」
 思わず手に持っていたリュックを相手の顔めがけて叩きつける。
 リュックは、じゅぼ、と変な音を立ててめりこんだ。
「ぶじゅるるんる」
 偽ニコルだったものは、まともな形を失ってゆがんだ。
「じょぼぼぼぼぼ」
 そのまま泡立ちながら、どろどろと裏返り、溶けていく。
 ニコルは呆然として目の前の気持ち悪い水たまりを見下ろした。肩で息をはずませ、立ちつくす。
「何だこりゃ、めちゃくちゃ弱い……」
「そりゃあそうだ」
 ふたたび背後から、別の声がいんいんと響く。
「ぎゃあぁぁあぁぁぁまた出たああぁぁあ……」
 ニコルは飛び上がり、後先も考えずに闇の奥へと逃げ込んだ。
 そして気が付いたときには――
 どこをどう走ってきたのかもわからなくなっていた。

「ど、どうしよう」
 残念ながらどうしようもこうしようもない。立派な迷子である。
 ニコルは泣きそうになりながらも、とりあえず必死に頭を働かせ始めた。
 こういう時は、どっちが奥でどっちが出口なのかさえ分かればいいはずだ。
 しかし、戻るにしても学名エコルシェ・ムスクルウス・カーナンサスを手に入れた上でなければ、わざわざ悪名高いこの迷宮に潜り込んだ意味がない。
「うーん」
 とりあえず岩に腰を下ろし、考える。
「というか学名で言われても何が何だか。どんな花なんだろ」
 ぼんやりと発光する壁を見つめながらつぶやく。
 おそらくコケか何かが光っているのだろう、洞窟の表面一帯がまだらに青白く染まっている。天井からは生白いヒゲのような根が無数に下がって、ゆらゆらとろくに風もないのに揺れていた。
「図鑑持ってくればよかったな。でもこのひょろひょろは見たことがあるぞ」
 それはきっと看護部隊ビジロッテ中尉ご自慢の薬草図鑑のおかげだろう。確か『妖精のヒゲ』と呼ばれる植物で、練術で根っこの成分を抽出し、なんたら水という不思議な効能の薬をつくるためのものだ。
「でも、あのへんな花、どちらかというと花というより根っこだったなあ」
 目の前の岩のてっぺんに生えた、ムキムキと盛り上がった肉厚な植物を見つめる。
「そうそう、先っちょに白い花がくっついてんだよね」
 ニコルはうんうん頷いて微笑する。
「根っこがやたらムキムキして、まっちょで」
 たしか目の前の植物そっくりの形をしていて。
「……ちょうどこんな感じの」
 そう、その花の名前は。
「あったーーー!」
 ニコルは植物を指さし、大声で笑った。あまりの偶然に笑い転げながら、まっちょ草を引っこ抜く。
「むきむきまーーーッちょ!?」
 根っこが叫んだ。
「ぎゃあっ」
 天国から地獄。
 ニコルは植物を放り投げた。真っ青な顔でぜいぜいと肩で息をつき、胸に手を押し当てて、やばいものを見るような目で植物を見つめる。
「しゃべった!」
「まっちょらーーーぶ!」
 植物は再び断末魔の叫びを上げ、そのままがくりとしおれて動かなくなった。
「あ、あの、大丈夫?」
 ニコルは落ちていた棒でつんつんと植物をつついた。まっちょ草はもう、死んだように動かない。
「し、死んじゃった……?」
 ニコルはどきどきしながら葉っぱをつまみ上げた。
 たしかにあの図鑑にあったとおり、根っこは奇妙にムキムキとしたまっちょ風、その上なぜか眉毛と目と鼻と口みたいな模様があって、ついでに皇帝ヒゲや割れアゴも装備している。
 オヤジ面の根っこは、ぐったりと眼を閉じ、どうやら息もしていないようだった。もっとも、根が息をするかどうかは未だ神秘のベールに包まれている問題だが。
「ま、いっか」
 ニコルはとりあえず考えるのを止めた。まっちょ草さえ手に入ればそれでいいのだ。袋に詰め込み、落とさないよう、しっかりとぶら下げる。これで大丈夫。あとは脱出するだけだ。
 と思ったとき、いきなり背後の暗闇から声がかけられた。
「おい」
「きゃあああっ!」
 また飛び上がって逃げ出そうとする。
「だから逃げるなと」
「いやあああお化け怖い嫌いお願い助けてチェシーさんザフエルさあああん……」
「呼んだか」
「えっ」
 じたばたするのをやめ、おそるおそる振り返ると、そこに。
「手間を取らせやがって」
 ふいに黒い手が伸びてきて、がっしとばかりにニコルの肩を鷲掴んだ。
「あんぎゃああああああ……」
 あまりの恐怖に、ニコルはふうっと意識を失うなり、その場に昏倒してしまった、のであった。

「う、うーん」
 目が覚めると、そこには先ほどのバケモノ――ではなく、ぱちぱちと燃える暖かいたき火に照らし出されたチェシーの背中があった。
「ようやくお目覚めか」
「チェシーさん!」
 ぽき、と枝を折って火に投げ込みながらチェシーが振り返る。
「人の顔みていきなり失神しやがって。ぶっ飛ばすぞ」
 ほっとしたのもつかの間。ニコルは、たちまちむすりとして頬を膨らませ、そっぽを向いた。
「ふ、ふん。誰もこんな所にまで助けに来てくれって頼んでませんから」
「別に君を助けに来たわけじゃない」
 チェシーは苛立ったように吐き捨てる。
「じゃあ、何しに」
「教えて欲しいか」
 ニコルはぐっと声を呑んだ。相変わらずむかむかと腹がたつ奴だ。
「別に!」
「だったら聞くなよ」
「だから聞きたくないって言ったじゃないですか」
「それは良かった。ちょうど私も君にだけは教えたくないと思い出したところだ。さて」
 どうやら怒らせてしまったらしい。いきなり冷ややかな一瞥をくれて立ち上がる。
「魔物の出る洞窟に生意気なガキを一人放置して帰るほど鬼じゃないと言いたかっただけさ。私は帰る。用事も済ませたことだしな。君はどうする」
「僕の事なんてどうでもいいでしょう。勝手におひとりで帰られたらどうです」
 売り言葉に買い言葉、ニコルは喧嘩腰でついそう言ってしまった。言ってからしまったと思うが、出てしまった言葉はもう返らない。
「いいのか。またアレが出るぞ」
 チェシーがにやにやと訊ね返す。ニコルはかあっと頭に血を上らせて怒鳴り返した。
「こんな洞窟ぐらい、一人で帰れます!」
「そうか、じゃあ頑張れ」
 言うなりチェシーは振り返りもせずに、闇へと姿を消して、そのままいなくなってしまった。
 あとに、ニコルがたった一人で残される。
「何なんだチェシーさんは、もうむかつくなあ」
 しばらくの間、ぶつくさとひたすら文句を垂れ続ける。だいたいチェシーさんはいつもいつもひねくれた言い方ばっかりして、もうすこし優しい物言いをしてくれれば喧嘩せずにすむのに何でそれが分からないかなあ本当は喧嘩なんてしたくないのにいつもいつも結局こうなって……。

 暗闇に、ぽつん、と一人。
 気がつくと、周りには誰もいない。
 ひとりぼっちだった。

 あのチェシーに限ってはあり得ない、あり得ないとは思うけれど。
 もしかしたら、少しは心配に思って助けに来てくれたのかもしれないのに、それを好き放題言って追い返してしまった。いつにも増して子供じみた我が儘や生意気な態度を取って。
 ニコルはああ、と頭を抱えた。悄然と落ち込む。
 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
 本当は、ちょっと嬉しかった。喧嘩した勢いで飛び出しては来たものの、やっぱり洞窟を一人で歩くのは怖いに決まっている。
 チェシーがいる、いてくれる、そう思っただけで心強く思えたのに。
 どうして、もっと……素直な気持ちになれなかったのだろう。
 何だか、いつも同じ所を堂々巡りしている気がする。
 たぶん、本当に帰ってしまったのだろう。チェシーがいつも身につけている二つのルーン、栄光のティワズが発する波動も、今は遠くにしか感じられない。
 怒らせてしまった。今度こそ嫌な奴だと思われたかもしれない。
 ニコルは両手で顔を蓋してうんうん唸った。どうしたらいいのかさっぱり分からない。ただ、同じ言葉だけがぐるぐる頭の中をめぐっている。
 どうしよう……どうしよう……どうしよう……。
「泣いてるんだ」
「誰が!」
 ニコルはチェシーが戻ってきてくれたのかと思って、反射的に顔を上げた。
「君が、だよ」
 ぎらぎらと血の色に目を炯らせた闇の自分が、面白半分に微笑みながら後ろからのぞき込んでいた。
「……!」
 わずかに濡れた瞳を、そのまま恐怖に凍り付かせる。
 動けない。
「君ってさ、メスだったんだね。見た目しか真似しないから分からなかったよ」
 偽ニコルはくすくすと笑いながら言った。
 まだ戻りきらないのか、ときおり顔の表面がどろりとくずれて、どす黒く濁ったゼリー状の物質がこぼれ出る。
「さっきのオス、君のこと探しに来てたみたいだけど」
 偽ニコルは、にやりと残酷に微笑した。
「誘惑……してみようかな。こうやって」
 軍服の胸に手を掛けて、ボタンをひとつ、またひとつ、はずしていく。
 はらりとはだける、その下の作り物めいた素肌のふくらみを見て、ニコルは嫌悪のあまり、くちびるを噛んで後退った。
「ふざけるな」
 ひゅっと暗い風をかきまぜてカードを引き抜く。闇がうなりを上げた。
「いいんだよ、僕は別に。こんな姿じゃなくってもね」
 偽ニコルの姿が、ふいにぐにゃりとゆがんだ。
 黒い滝のようにばしゃりと流れ落ちる。その泥濘から再び盛り上がってきた新しい姿に、ニコルはうめきを噛み殺した。
「チェシーさん……!」
「なるほど、そういうことか」
 いつもの皮肉な笑いを、残忍で冷酷な偽りの笑みに変えて。
「ニコル」
 偽のチェシーは、寒気のする声でささやいた。
 口の端がびろりとめくれ上がって、真っ赤な色が剥きだしになる。生臭い噴気が洩れ出して、しゅうう、と沸騰するような音を立てた。
「楽にしてやる」
 黒い手が伸びてくる。
 チェシーの声、チェシーの顔。表面的には同じでも、中身は似ても似つかない。なのに、恐ろしさとは別の、もっと悲痛な思いが自分自身をがんじがらめに縛りつけ、圧倒的にのしかかってきて、どうしても抗えない。
 喉に手が掛かる。
 力が込められた。
 異様に冷たく、ぬるぬるした気持ちの悪いものが、みるみる何重にも巻き付いてきた。締め上げてくる。人の力ではない――
 それでも、動けない。
「チェシー……さん」
 ぽろぽろと涙がこぼれる。
 ニコルは弱々しくもがき出ようとした。

 ……もし、本物のチェシーにもそんなふうに……
 嫌われてしまったら。

「このままへし折ってやるよ」
 残忍な声がくつくつと笑う。
 意識が失せてゆく。
 振り払おうとしていた手が、だらりと垂れた。まっちょ草を入れた袋が転がって、跳ねる。
 息ができない。真っ暗で、何も見えない。苦しい……。

「ニコル!」
 幻聴、だと思った。だが、次の瞬間、はっきりと確かに呼ばわる声が飛び込んできた。
「ニコル!」
 視界の隅を、ぎらりと燃える白い火が一閃した。神速の抜刀と、零距離の斬突とが、無数の乱突きとなって乱れ咲く。
「うぴょろろろ!」
 わけの分からない悲鳴を上げ、偽チェシーがばらばらに躍り狂った。こまぎれにつぶれた真っ黒のゼリーとなってあたり一帯にまき散らされる。
「この馬鹿!」
 頭ごなしに怒鳴りつけられる。
「何で反撃しない」
 ニコルは息を詰まらせ、そのままがくりと片手を地面についた。
 喉を押さえ、ぜいぜいと必死で息をむさぼり吸う。
 ぼたぼたと薄汚く降るゼリーの向こう側に、カードを埋め込んだ魔剣を手に身構えたチェシーの姿が見えた。第二撃の構えに入っている。
「ぶじゅるるるる」
 ゼリーがみるみる寄せ集まって、再びチェシーの姿に戻ろうとする。顔だけがチェシー、あとはどろどろの水浸しのような、おぞましい魔物が地面をぐるぐるとねじれ、這い回って吠えた。
 ぐわりと開けた化け物じみた口から粘液まみれの舌が伸びて、落ちていたまっちょ草の袋をからめ取る。
 あっと思う間もなく、まっちょ草が魔物の体内へと吸い込まれた。
「まーーーっぢょおお!?」
 魔物は凄まじい鼻息を噴き上げ、大上段に頭を振り仰がせて、紫色の煙をもわあっと吐き出した。
 その背中が、爆発するかのような勢いで盛り上がる。
「う、わっ……化けた……」
 ニコルはしりもちを付いたまま、じたばたとあとずさった。
 チェシーに化けていた魔物が、まるで全身に巨大ないぼを作るかのごとく、めきめきとその形をかえ、倍ちかくの形に膨らんで、凶悪に割れた筋肉の固まりを思わせる怪物へと化していく。
「何を食わせた」
 チェシーが怒鳴る。
 ニコルは蒼白になって答えた。
「まっちょ草……」
「よりによってどうしてまたそんな厄介なものを」
 一瞬、チェシーの眼に嘲弄めいた光が突き抜けた。くちびるが皮相にゆがむ。
「一発殴られただけであの世行きだぞ」
「だ、だってチェシーさんが筋肉つけろって……!」
「まーーーーっぢょろろろろーーー!」
 魔物が耳のつぶれそうな咆吼をまき散らす。洞窟全体が鳴動して今にも崩れ落ちそうだった。ばらばらと岩のかけらが降ってくる。
「あれは相手の能力を複製する魔物だ。知らなかったのか」
 知っていたらこんなことにはなっていない。ニコルは泣きそうな顔でぶんぶんとかぶりを振った。
 チェシーが計算づくの目を冷静に走らせる。
「あれがいては君が困るだろうと思ってさっき倒しておいたんだが……藪蛇だったな。鬱陶しいことになった。おかげで私の五倍ぐらいは力がありそうだな……さて、どうするか」
「待って、チェシーさん」
 ニコルは大きく息をつくと立ち上がった。
 ザフエルの言葉が脳裏によみがえる。
 相手がチェシーの能力を真似ただけの偽者なら、方法はある。それは剣にも似た、あるいは自分を見つめ直す鏡にも似た、鮮烈なひらめきだった。
「僕に任せてもらえますか」
 チェシーが目を押し開いてニコルを見やる。驚きのまなざしが、すぐに自信と信頼の微笑に変わった。
「よし、任せる」
「了解」
 ニコルはもう一枚のカードを引いた。星くずのはじけるような音が鳴り、優しい黎明の色に変わって指先からこぼれおちる。
 手にした銀のカードから白い光芒が放たれる。
 洞窟一帯にきよらかな力が射し込めて、さらさらと翼のように打ちひろげられていく。あふれる言葉。祈り。聖呪が闇を打ち消し、薔薇の瞳に映り込んで、ニコルを取り巻き、鮮やかに輝く。
 それは、神に仕える聖騎士だけが駆使することを許された、暴力の無効化。
(……神の御名において、この一撃を無力化せよ)
「まーっぢょまおおろあぁぁー!」
 再び吠え猛る。ニコルは微動だにしない。
 魔物が口から鼻から大量の煙に吹き散らし、食らいつかんばかりの勢いで迫ってくる。
 巨大な前肢の爪が振り上げられた。
 さすがにチェシーが身じろぎする。ニコルはかすかに笑って手を振り、制止した。そこへ、魔物渾身の一撃が叩き込まれ――
 た、かと見えたのだが。

 ぺち。

 実際は、蚊をはたき落とすよりも情けない衝撃しかなかった。へろへろのパンチがニコルの頬に当たる。腕がぐにゃりと曲がった。
「ぶじゅ?」
 魔物は目を点にして固まった。
 ニコルは頬を押さえた。むっとした顔で魔物を睨みあげ、ぷいと払いのける。傷は皆無だ。
「顔はやめてください」
 魔物はきょとんとし、ようやくニコルの手に光る美しいカードに気付いて、ふんぐるああ、と鼻水をまき散らして吠えた。
「無効化か。よくやった」
 チェシーは大きくうなずいた。
 剣の反射光をぎらりとほとばしらせて不敵に笑う。
「あとは私に任せろ。こんな奴、一発で仕留めてやる」
「あっそれはやめておいたほうが」
 ニコルがあわてて止める。だが間に合わず、哮り狂った魔物は標的を変えチェシーにつかみかかった。
 チェシーは流れるような動作で剣を大きく引きつけるなり、一気に呪の詠唱を終えて踏み込んだ。
「我が神速の絶技を受けろ! くらえ零式《れいしき》!」
 岩をも砕く裂帛《れっぱく》の気合いと共に奥義が炸裂――

 ぷす。

 ――しなかった。
 チェシーの鼻先に魔物の爪が。魔物の心臓にチェシーの剣が。
 それぞれ、ほんのちょっぴりだけ、めり込んで。その姿勢のまま、魔物もチェシーも硬直している。
「……」
 非常にぎごちない空気が流れる。
 チェシーは愕然として、赤ちゃんのようになった自分の腕を見下ろした。
「ぷすっ、……って何だ!」
「だ、だから戦闘における物理攻撃を無効化……」
「解け! 何とかしろ!」
 ピコピコとおもちゃっぽい音を立てる剣を振り回してチェシーが怒鳴る。
「できません。やりかたわかんないし」
 ニコルは至極まじめな顔をして答えた。
「この後どうしましょう。他のカードはデス・トルネードしか持ってないんですよね」
「なっ……」
 魔物もチェシーも、二人同時にみるみる顔色が青ざめていく。チェシーは頬を引きつらせて後退った。
「敵前逃亡してもいいか、師団長」
「ん、逃げなくてもいいみたいですよ」
 ニコルは、魔物が一気に泥へと溶け戻って闇のむこうに消え去るのを微笑とともに見送った。逃げ足だけはニコル並みに早いと見える。
「そ、そうか。さては怖れをなしたな」
 チェシーは情けなさそうに笑うと、剣を華麗に払って汚れを振り落とし、見事な仕草で残心をこなすと持ち上げた鞘にかちりと納めた。
 澄んだ金属の音が鳴る。
「助けに来たつもりが逆に助けられてしまったな」
「チェシーさん」
 ニコルは頭をかくチェシーを見上げた。
「あのう」
「何だ。まだ何かやる気か」
 チェシーは少し怒った口調で応じる。ニコルはかぶりを振った。
「あの、その」
 ぺこん、と勢いよく頭を下げる。
「さっきは、その……生意気言ってごめんなさい!」
 たとえ本当のことは言えなくても、本当の気持ちは言えるはずだった。
 チェシーを見つめ、眼をしばたたかせ、ほんの少し染まった頬をごまかすかのように、照れ隠しに笑って。
「それと……嬉しかったです。来てくれてありがとう。本当に、助かりました!」
 チェシーはかすかに笑った。
「君も恩に着ることはあるんだな」
 やはりそういう言い方をする。ニコルは思わずぷうっとむくれてそっぽを向いた。
「せ、せっかく人が頑張って感謝してるのに! 僕がお礼を言うのがそんなにおかしいですか!」
「いやいや、そうじゃない」
 チェシーは肩をすくめ陽気に答えた。
「仲間を護るのは騎士の義務だが、友を護るのは友人なら当然だ。礼を言われる筋合いはない、と言いたかった。それに」
 ニコルは嬉しくなって大きくうなずいた。
 友、と言ってくれた。女だと明かせないのは自分の都合だ。それを差し置いても、信頼し間違いを許してくれる間柄だと言ってくれることが何よりも嬉しかった。
「君には君の戦い方があるんだな。私のほうこそ、つまらないことを言って悪かった」
「ああ、これ」
 ニコルは悪戯っぽく微笑して、カードを指先にひらめかせた。
「ザフエルさんが貸してくれたんです。これさえあれば力押しのチェシーさんなんて敵じゃなくなるからって」
「何だと失礼な」
 チェシーは面白そうに笑うと、ひょいとあげた親指で出口の方向を示し、歩き出した。
「相変わらず悪知恵の働く奴だ。まあ、実際その通りになったわけだが。今の私は君よりもか弱いはずだからな」
「あれっ」
 ニコルはちょこまか小走りに後を追って走り出しながら訊ねた。
「チェシーさん、ザフエルさんに聞いて助けに来てくれたんじゃないんですか」
「いや」
 チェシーはそらとぼけてかぶりを振った。
 少し離れた場所に放り出してあった巨大な布袋をひょいと示す。気のせいか袋がじたばたと動いているようにも見えるが、いやいやきっと目の錯覚に違いない……。
「ゾロ博士に、練術の材料を取ってくるよう頼まれてたんだ」
「え、なんだ、そうなんですか。お礼言って損した」
「何だと」
「い、いいえ何でもありません。いや待てよ、チェシーさんがザフエルさんに言われて来たわけじゃないとすると」
 ニコルは記憶をくるくると巻き戻してみた。
 確か資料室の前で物理攻撃無効化のカードを借りて、そのままザフエルを置いて飛び出してきたような気がする。ザフエルのことだから、普通ならそのまま軍務に戻るだろう。それが戻っていないとなると。
 そういえばあのとき、何だか妙に背後がどんがらがっしゃんと騒がしかったような気が。
「……あ」
 あれはおそらく、落とし格子の音だ。
 ニコルはおそるおそるチェシーの顔を見上げた。
「ザフエルさんを閉じこめちゃったみたいです……」
「そいつはお生憎様だ」
 チェシーはニヤリと笑って言い放った。
 じたばた動いている材料の袋を、よっこらせとばかりに担ぎ上げる。
「放っとけ。策士策に溺れる、だ。たまにはあの男にもきついお灸を据えてやるがいいさ」
「い、いや、そこまではちょっと……」
「ふん、私を牢屋に閉じこめた罰だ」
「あれは自業自得でしょう」
「何だと!?」
 楽しげに笑い交わす二人の声が洞窟にひびきわたる。
 これでいい、とニコルは心から笑いながら思った。
 ずっと、こんな一日が続けばいい。
 殺伐とした戦時中の空気からぽかりと浮き上がるうたかたのような、非日常の中の日常が。

 明日はまた戦場かもしれないけれど。

「でも怒ってますよ絶対。すねてるかも。ねちねち言ってるかも」
 ニコルはぴょんと飛び上がり駆けだしてから、軽業師のようにくるりと宙で身体をひねってたん、と着地し、振り返りざまに笑った。
「早く帰りましょう。ザフエルさんが待ってますよ!」

【めぐり愛 まっちょ草 終】

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