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 ヴィオレは四肢に力を入れようとするが、がたがたと震えてうまくいかない。遠く聞こえるペストの声と足音を聞いて、地面自体が揺れているのだと気づくのにしばらくかかる。

 かすかに聞こえる散発的な物音は、レゾンが町のあちこちに仕掛けたスピーカーから音を発しているのだろうか。

「ヴィオレ!」

「聞こえて、るよ」

 思うように動かない体をもどかしく思いながらヴィオレが応えると、久しく聞かなかったノイズがイヤフォンからこぼれた。

「あぁ──よかった」

 そう言ったレゾンの声は、安堵のため息が聞こえないのが不自然に感じるくらいだった。

 本当に、無機物であることを疑ってもいいくらいに人間臭い。あの金属球の中には、冷凍保存された人間が収まっているのではないだろうか。そんなバカげた考えすら湧き出してきて、ヴィオレはこんな状況だというのに笑ってしまった。

 自分が知覚できる範囲では、致命傷は受けていない。ガラスで切れた場所は主要な血管を避けているようだし、骨が折れるなどの損傷もない。

 ただ、音という性質が悪かったのか、それとも半規管が復活していないのか、まだ立ち上がることはできそうになかった。

「駄目だな、私は」

 ヴィオレは仰向けの状態からどうにか体を動かし、床に手をつけてその言葉を聞いた。

 レゾンの声には、重々しく感じるほどに自嘲の意味が含まれている。また混じり始めたノイズが、電脳の乱れを多分に表していた。

「本当に──人間に近づきすぎた。人工知能としては致命的なほどに」

 ヴィオレが背を向けた街路から、盛大な破壊音が轟く。

 レゾンの操るスピーカーは、一体いくつ破壊されたのか。ペスト以外が放つ音は、ついさっきと比べても、あからさまに数を減らしている。

「データのバックアップさえあれば、私はまた、ヒトのための人工知能に、戻れるはずなんだ」

「なに……する、つもりなの」

 たったそれだけを言うのに、大げさなくらい肺が痛む。
 しかし、痛みを無視してでもヴィオレは声を出さなければならなかった。レゾンは明確に決別しようとしている。

 ヴィオレと、ではない。

 自分自身との決別だ。

「記憶を消す」

 もはや、合成音声はノイズの隙間から聞こえているような有様だった。

「記録だけをバックアップに残して、電脳をクリアな状態に戻してしまえば──私はまた昔と同じような判断を下せる。昔と同じようにヒトを見ることができる」

「なん、で……いま」

 ヴィオレの咳混じりの問いに、レゾンはしばらくノイズだけを送った。

 送った、というよりも、無意識に垂れ流していると言った方が正しいが。

「笑ってくれ。恨んでくれてもいい。出来損ないと罵られても構わない。私はこの後に及んで人間の振りをしているらしい」

 一際強くなったノイズは、子供が泣きじゃくっているようにも聞こえる。

「──ヴィオレが死ぬのを、見たくないんだ」

 その言葉を発するのに、いくつのエラーが生じたのだろう。ノイズは激しさを増すが、ヴィオレの背後で聞こえていた物音はいつの間にかひとつになっていた。スピーカーは全て壊され、もはやペストだけが街路で音を立てている。

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