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突然の辞令

「失礼します」

伊瀬界人は、上司の武藤に呼ばれ、憂鬱な気持ちで社内ミーティング用の会議個室のドアをたたいた。
界人はウィンストン・コンサルティンググループ日本法人に勤める27歳の若手コンサルタントである。
新卒で入社し、早5年。自分なりに成長しながらやってきたつもりではあるが、どうにも良い成績を上げることができず、同期入社の同僚とも差が開いているなと感じていた。

そんな中での今回の武藤からの呼び出しに、界人の足取りは重かった。
ウィンストン・コンサルティングは、近年急成長中のコンサルティングファームであり、会社の業績は好調を極めているが、その分想像に違わず激務である。


そして当然、社員は全員社畜(アンデット)である。


社内での担当者同士の情報交換等も活発に行われているが、この会議個室は特別な場合を除き、普段使われることは稀である。
ここは通称「裁きの間」と呼ばれており、ここに呼び出された場合、当人に起こりうることは二つしかない。

昇進(天の施し)か、説教(GO TO HELL)である。

何事も”それなりに”しかこなしてきていない界人は、本日の利用目的は当然、後者であろうと思った。
中でも武藤による「裁きの間」でもしごきは有名で、過去、しごきを受けた同僚がそれ以降機械のように働くようになった姿を思い出しながら、鉛のように重い足を引きずりながらようやくたどり着いたところであった。

「入りなさい」

中から、武藤の整然としつつもどこか冷たい声がする。
界人は軽く深呼吸をして、中に入った。

「お疲れ様です。部長」
「お疲れ様。とりあえず座りなさい」
「は、はいっ」

界人は無駄に座り心地の良いソファーの、できるだけ先端に腰かけた。

「君は今年で何年目になる?」

武藤が間髪いれずに切り出した。この人はいつもそうだ。無駄な前置き、世間話など一切しない。必要なことを、ただストレートに伝える。そこが武藤の優秀なところであり、怖さでもあった。

「5年目になります」
「そうか、ならそろそろ頃合いだろうな」
左遷だろうか、クビだろうかと、界人は思った。
「君は現状に満足しているかね?」
界人の目をまっすぐ見据え、武藤は尋ねる。
「い、いえ、より一層の高みを目指して頑張りたいと思っています」
界人は心にも無いことをとっさに答えた。こういう『やる気勢』的な態度は、当社では必須なのだ。
武藤は眉ひとつ動かさず、すこしだけ頷いた。

「そうか、ところで君、彼女はいるのかね?」
「は、はい?」
「彼女はいるのかと聞いている」

あまりにも唐突で、またこの場にふさわしくない武藤の問いに、界人は面喰ってすぐに答えることができなかった。

「い、今はいませんが、学生時代には何人か…」
「そういう与太話はいい。ご家族は?」
「一人暮らしです。親は姉と一緒に実家にいます」

界人は汗で背中がぐっしょりだった。なんなんだこれは。何が良いたいんだ。
武藤は変わらずまっすぐとこちらを見たまま、少し満足したようにこう切り出した。

「良いだろう。では、君に一つ任せたい案件がある」
「えっ、ほ、本当ですか?」
「長期の案件になるだろうが、君に向いていると思う。受けてくれるな?」

てっきり説教されるものとばかり思っていた界人は、予期せぬ状況に心躍った。まさか武藤から直々に自分に仕事に依頼をされるとは。もしかしたら自分は結構評価されているんだろうか。

「やらせていただきます!」

界人はピンと背筋を伸ばし、はっきりと答えた。
武藤は変わらずあくまでも淡白に冷酷に、こう言い残すと部屋を後にした。

「詳しくはメールで連絡する。今日からクライアントのところに行くように」

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