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第0話 春を呼ぶ少女

 初春の雪が降りしきる深夜、少女の鼻先には甘ったるい薬の残り香が漂っていた。東京都心のどこかにある石造りの豪邸は、今夜いつもと違う匂いをしているが、記憶を食らう怪物のように夜闇に佇んでいた。

 その腹の中で、たった一つの小さな心臓が、自由を求めて激しく鼓動している。

 普段なら大人たちの懐中電灯が規則正しく外壁を照らしているはずの時間。しかし今夜、その光は二時間前から消えている。

 理由は簡単だった——誰かが、大人たちを眠らせたのだ。

 少女の指先が扉の取っ手に触れた途端、金属の冷たさが骨まで染み渡った。心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、喉の奥で小さく「あ、あ…」と声を漏らしかけて慌てて手で口を押さえる。

 鼻をひくひくと動かす。甘ったるい眠りの香りが廊下の向こうから漂ってくる。他人の汗と煙草の匂いがするはずなのに、今夜は違った。

 重い扉を慎重に押し開くと、軋む音が闇に響いた。全身が石のように硬直する。鼻先に漂う人の気配は薄く、遠い。みんな深く眠っている匂いがした。

 ——にげる。にげる。

 言葉にならない想いが胸で渦巻く中、少女は廊下に立ち尽くしていた。窓を叩く音だけが、異様に静まり返った夜を支配している。

 階段を降りる際、靴音を消すために裸足になった。氷のような石段が足の裏を刺すが、痛みを言葉で表現することを知らない少女は、ただ「うぅ…」と小さく唸るしかなかった。

 突然、背後で床板がきしむ音がした。

 少女の動きが止まる。血の気が引いていく。鼻をひくひくと動かすと、かすかに違う匂いがした。起きている人の匂い——鋭く、冷たい警戒の香り。ゆっくりと振り返ると——誰もいない。ただ、廊下の奥で小さな影がゆらりと動いたような気がした。

 ——こわい。こわい。はやく。

 もう時間はない。

 玄関を抜けた途端、吹雪が少女を襲った。薄いコートでは寒さを防ぎようがなく、息は瞬時に白く凍りついた。それでも足を止めるわけにはいかない。

 ——さむい。いたい。でも、にげる。

 庭園の石畳は雪で覆い尽くされ、一歩進むたびに足を取られそうになる。転びかけて手をついたが、反射的に掌に雪の鋭い冷たさが食い込んだ。「ぁ…」小さな悲鳴が唇から漏れる。

 立ち上がろうとしたその時——豪邸の二階に灯りが点った。

 次の瞬間、もう一つ、また一つと窓に明かりが灯っていく。

 ——見つかった。

 恐怖が血管を駆け巡る。もう隠れることなど不可能だ。少女は雪を蹴散らし、庭園の奥へと必死に駆け出した。木の枝が頬を裂き、雪塊が首筋に落ちて溶けていく。足跡は追手にとって完璧な道標となるだろう。

 背後から怒号が響いた。

 「逃がすな!」

 門はまだ遠い。吹雪は勢いを増し、視界を真っ白に染めていく。振り返る余裕もなく、ただひたすら前へ進むしかない。足先の感覚は失われ、呼吸は荒く乱れ、喉は渇ききっていた。

 そしてついに、重厚な鉄の門が雪の向こうに姿を現した。少女の震える手が錠前に伸びる——しかし、複数の足音が急速に近づいてくる。

 ——でられない。どうして。どうして。

「こっち」

 突然、門の影から凛とした声が聞こえた。

 少女が振り返ると、自分よりも少し年上に見える女の子が雪の中に立っていた。その子の手には小さな懐中電灯と、何かの鍵が握られている。まるでお姉さんのような落ち着いた佇まいだったが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。

 鼻先に優しい匂いが漂った。温かくて、安心できる香り。この人は敵じゃない、とネネの本能が告げていた。

 「急いで。門の鍵、開けてあげる」

 女の子は迷うことなく門に走り寄り、慣れた手つきで錠前を開けた。カチャリという音と共に、重い門がゆっくりと開く。

 少女の頭の中に疑問が浮かんだが、それを言葉にすることはできなかった。ただ漠然と やさしい。だれ? という思いが心をよぎる。

 少女は女の子を見つめ、何かを伝えようと口を動かしたが、「あ…ぁ…」という音しか出てこない。女の子はそんな少女を優しく見つめ、理解したように頷いた。

 豪邸から複数の人影が現れ、懐中電灯の光が庭園を照らし始めた。怒声が夜気を震わせる。

 「そこにいるのは分かってる!大人しく戻ってこい!」

 風に乗って、怒りと苛立ちの匂いが鼻先を刺した。追手たちの興奮した気配が、まるで獣の匂いのように濃く漂ってくる。

 女の子は少女の手を強く握り、門の向こうへ押し出した。

 「絶対に振り返っちゃダメ。真っ直ぐ森の道を行って。バス停があるから」

 少女は困ったような表情で首を傾げる。女の子は慌てたように付け加えた。

 「そこで、パパを探して。本当のパパを見つけるの」

 少女の瞳が大きく見開かれた。初めて聞く音の響き——だが、なぜか胸の奥が温かくなる。口の形を真似るように唇を動かし、たどたどしく声に出した。

 「パゥパあぁ——?」

 不完全だが、確かに言葉だった。女の子の目に涙が浮かんだ。

 「そう、パパ。きっと…、きっと見つかるから。ネネ」

 そのまま、少女の中で何かが響いた。「ネネ」——それが自分を指す音だということが、なぜかわかった。忘れていた何かが、かすかに蘇るような感覚だ。

 「ネェネ?」少女——ネネは、その音を不思議そうに繰り返した。

 「そう、あなたはネネ。私の......」女の子は何かを言いかけて口を閉じたその時、彼女の表情に深い痛みが走った。「行って。ネネが自由になって、本当のパパを見つけるのを見るのが、私の唯一の願いだから」

 追手の声がもうすぐそこまで迫っている。

 「いた!門のところだ!」

 雪と闇の中、ネネの姿が森の向こうへ消えていく。口の中で「パゥパあぁ…」という音を転がしながら、少女は希望という名の光を胸に駆けていった。

 女の子は門をそっと閉め、深く息を吸った。背後から追手の声が近づいてくるが、もう怖くはなかった。

 ——あのこ、にげられた。よかった。

 雪が全てを覆い隠し、二人の少女の運命を白い静寂の中に包み込んでいった。そして森の奥から、か細く響く声があった。

 「パゥパあぁ、——パゥパあぁ——」

 それは、記憶を失った少女が初めて自分の名前と希望を同時に手にした奇跡の一瞬だった。

 春風に運ばれたその小さな声は、遠く離れた場所で、誰かの心の奥に眠る記憶の扉をそっと叩こうとしていた。

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