スローライフ in 秘境
およそ半年後。
「ふぅ。ここの野菜もそろそろ収穫できそうね。あっちの畑はそろそろ次の種を植えないと……」
手についた土で顔を汚してしまいながら汗を拭うひとりの美女がいた。彼女が育てた野菜はどれも瑞々しく、とてもおいしそうな色艶をしている。
「一個だけ。ちょっと味見しよっかな」
真っ赤に実った果実を手に取り、口に運ぼうとした時──
「セリシア様。つまみ食いはダメですよ」
背後から声をかけられ、美女は身体を小さく震わせた。
この美女は聖都から逃げ出した元聖女のセリシア。そして彼女に声をかけたのはセリシアの護衛を担当していた聖騎士のアイギス。
「だ、だって、すごくおいしそうだったんだもん」
「じゃあ私にもください」
そう言いながらアイギスは土で汚れたセリシアの頬を布で優しく拭き取った。
「もう、しかたないなー」
アイギスの口に果実を押し込むセリシア。
笑いながら自分も果実を口にする。
「おいしいですね。以前より良くなってる」
「うん。土に神聖魔力流したのが正解だったね」
この地に移住した当初は土地に濃い魔素が充満していたことが影響して、人が食べられる野菜は育たなかった。
セリシアが土地を浄化することで、こうして無事に食べられる野菜を育てられるようになったのだ。
「森で果実が採れるけど、同じのばっかりで飽きてきたし」
「えぇ。そろそろ限界でした」
聖都から逃げる時、アイギスは様々な植物の種子を買い集めた。
ふたりきりでのんびり暮らしたいとセリシアが彼に懇願したからだ。極力自分たちだけで生きていけるよう、彼は僅か半日で出来る限りの準備を整えた。
人里から遠く離れ、周囲を険しい山々に囲まれた森の中でふたりは生活をしている。付近には強力な魔物が跋扈しているので人が来ることはない。森の一部を切り開き、そこに小さな小屋を建て畑を作った。
「アイギスは? 魚は獲れた?」
「2匹釣れました。塩焼きにしましょう」
「わーい!」
「ただ、残念なお知らせも」
「なにかな?」
「小麦がなくなりそうです」
「馬車であんなにたくさん持ってきたのに? もうパン作れないの?」
「やはり一度は街などに買い出しにいかないと」
「えー、やだなぁ。私たち指名手配とかされてないかな?」
「セリシア様は行方不明になっただけですので罪に問われることはないでしょう。でも私は聖女候補を守れなかったわけですから、もし生きていると分かれば指名手配されるでしょう。そして聖騎士団に捕まれば断罪されます」
「それはヤダ! アイギスが捕まっちゃうくらいならパンが食べられなくてもいい。私は我慢できるよ」
「ありがとうございます。セリシア様は変わらずお優しいですね」
「優しいのは、アイギスの方だよ……」
そう言いながらセリシアはアイギスに抱き着いた。
女神の力で死に戻りをする前、闇落ちしたセリシアのそばに仕えた聖騎士はアイギスだけだった。その記憶があるから、セリシアは何があっても彼と一緒にいたいと考えている。
「しかし、人は色んな食べ物をバランスよく食べないと長生きできません。私はこの地でずっと、永くセリシア様と一緒に暮らしたいんです」
「私もそうだよ。でもやっぱり街に買い出しに行くのは危ないと思う。小さな村に行ったって、誰かが私たちを見たのを聖騎士団に伝えるかもしれない」
彼女は死に戻りする前の人生で聖都から逃げている。その時もアイギスと共に逃げていたが、とある田舎の町で食料を購入していたら素性がバレて捕まってしまった。
聖都からどれだけ離れていても油断は出来ない。人がいる場所に行くというのは、それだけ捕まるリスクがあるということをセリシアは知っている。
「ですが……」
「それじゃあさ。私たちで頑張って小麦を育ててみようよ!」
「えっ?」
「私は聖女候補として色んななことをたくさん覚えさせられた。だから小麦の育て方からパンをつくるところまで知識はあるんだ」
「た、確かに。初めてパン作りに挑戦した時も、セリシア様の知識頼りでした」
「だからやってみようよ。小麦からつくるの」
困難があっても、ふたりで何とかしようとするセリシア。
「はい、承知しました。頑張りましょう」
そんな彼女の前向きで明るく積極的な姿勢にアイギスも突き動かされる。
「私ね。今すっごく幸せ」
「私もですよ。セリシア様」
闇落ちした聖女は二度目の人生を秘境で過ごすことにした。ひとりの元聖騎士が彼女を支え、笑いあいながらふたりで幸せなスローライフを送った。
──***──
その頃、セリシアがいなくなった聖都では、彼女と聖女の座をかけて競っていたマリーが聖女になっていた。
セリシアが前世で闇落ちしたのは、聖女に選ばれなかったマリーが呪いをかけたからだ。彼女の闇は女神すら見抜けないほど心の奥に根を張っていた。
そんな彼女が聖女になってしまったのだ。
マリーは聖女としての権利を振りかざしてやりたい放題をし、逆に聖女の使命はほとんど果たさなかった。
本来、彼女を諫めるべき立場の神官たち。彼らもマリーと一緒に贅沢三昧の日々を送り、誰も彼女を止めなかった。セリシアが闇落ちせずとも、既に聖都の上層部は腐りきっていたのだ。
聖女や、聖都の上層部だけではなかった。
聖都の住人たちも同様だ。その多くが堕落し、聖女の力で守られている自分たちは特権階級だと、聖都に入れない人々を見下していた。聖都内で得られる魔具を、聖女の力を含んだ品だと嘯《うそぶ》いて高額で転売する者も少なくなかった。
そんな状態なので、献身的に女神へ祈りを捧げるものなどほとんどいない。
聖都全体が腐敗していたのだ。
女神はそれを知っていた。
闇落ちする前のセリシアは、数少ない女神の信者だった。そんな彼女が呪いの影響で性格が変わってしまうのを、女神は止められなかった。
聖都の人々からの祈りが激減し、女神の力が低下していたからだ。
セリシアの精神力がもう少しだけ強ければ。彼女がひとりで抱え込まず、近くにいる聖騎士をもっと頼りにして心を強くできていれば……。
後悔しても仕方がない。
女神が愛したセリシアは、腐敗した聖都の民によって処刑されてしまった。
力を失った女神に唯一できたのは、セリシアひとりの意識を過去に飛ばすこと。世界の改変は無理でも、これだけなら何とかなった。
そして女神は、今の聖都を見捨てることにした。
また別の地で聖女を任命し、新たな聖都を創らせればいい。
時間はかかるが、新たな聖都から祈りが届いて力を取り戻せるようになるまで女神は待つつもりだった。セリシアと、彼女が自分の命より優先しようとした聖騎士がふたりで暮らしていくのを、のんびり見守るのも楽しそうだと考えている。
女神に見捨てられた聖都が荒廃するのは早かった。
マリーは聖女の力を失い、聖都を覆う結界を維持できなくなった。結界がなければ魔物の侵入を阻止できない。聖結界を頼りに、ろくな防衛戦力を保持していなかった聖都は瞬く間に魔物の餌場となってしまった。
数少ない敬虔な女神信者は事前に聖都から逃げるよう神託を授かり、魔物の襲撃を避けることが出来た。女神の信者たちは聖都の住人に神託の内容を告げたが、堕落した人々は安全だと信じ込んでいる聖都から離れようとしなかったのだ。
こうして、女神に愛された聖女を闇落ちさせた聖都は消滅した。


