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第15話 終わりを編む日

 朝の光は、街の石畳を半分だけ照らした。
 影と光の境目がはっきりしている朝は、**「座る日」**だと街は知っている。
 針が、ほどけた糸を追いかけすぎず、ほどくべき糸だけを指先に残す朝。

 綾斗が工房の扉を開けると、ミナはひとつだけ余計な針山を机に置いていた。
 針山は細長い円錐形で、真ん中に浅いへこみがある。
 そのへこみが、今日の印だった。

「今日、あなたは“縫う側”じゃない」
「じゃあ、何を?」
「“編む”。縦と横だけでない、道を作る仕事。——終わりを編むの日」

 編む、という言葉は、縫うより手触りが深い。
 ひと目、ふた目と布が重なり、どこかでまた別の布につながる。
 街は、布と息の町だ。
 終わりは閉じない。編むことで、次の息に渡す。



 白い階段へ向かう途中、風鈴坂のあちこちに、人が立ち止まっていた。
 座るでもなく、泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただ呼吸の速度を揃えている。

 ルイスは欠け目帳と綴調帳の両方を抱え、今日だけは「何も書かない」と宣言していた。
「今日は数えない日。書けば“終い”が狭くなる。狭い終いは、裂け目に変わる」

 裂き目の側の女も来ていた。
 扇は開いていない。
 閉じているわけでもない。
 **“膝の上に置く”**という、滅多に見せない形で持っていた。

「わたしの仕事もしないの?」
 綾斗が聞くと、女は肩だけで笑った。
「終わりを編む日は、裂け目が手を出すと邪魔になる。今日は指を動かさない」
「見てるだけ?」
「見てるだけが、一番むずかしいのよ」

 ミナは静かに頷いた。
「“終い(しまい)”を邪魔しないための、街の礼儀」



 白い階段の札は、今朝は揺れなかった。
 ただ、“立って”いた。
 張られた縄も、打たれた杭も、昨夜から何ひとつ変わっていないはずなのに、札の影が短くなっている。
 影が短い朝は、扉が“外に開く”ときだ。

 丸台の上の木の針入れには、紙片が一枚。
 触れる前に湿りが滲み、字が浮く。

『——綾斗へ(おかえり、って言えたよ)』

 その瞬間、胸の真ん中にほんの少し熱が落ちた。
 痛みではない。
 息が座った証拠。

 二枚目はなかった。
 たった一枚で足りていた。

「呼ぶの?」
 ミナが問う。
「呼ばない」
「返す?」
「返さない」
「じゃあ、何を編むの?」

 綾斗は針入れに手を伸ばし、木の蓋をそっと開けた。
 中には、銀糸がほんの少しだけ、ひとりでに巻いてある。
 昨日まではなかった糸だ。
 この糸は、向こう側が置いていった。

「“道”を編む。
 終わった声が、もう二度と外れてさまよわないように。
 そこへ、帰り道があるように。」



 縄を切らない。
 杭を抜かない。
 札を倒さない。

 綾斗は階段のいちばん上、石と石のすき間に針を落とした。
 縫うのではない。
 編む。

 灰をひと目、白をひと目、薄金をひと目。
 そこに、向こうが置いた銀糸をゆっくり重ねる。
 糸は引っ張らない。
 たるませない。
 ただ、布と布のあいだに**「戻る道」**を通す。

 風鈴坂の空気が、息を止めた。

 裂き目の側の女が、小さく呟く。
「これは……返しじゃない。
 縫い止めでもない。
 “座った声を、帰らせる道”」

 ミナは頷く。
「そう。終わりを閉じるんじゃなく、座って、帰る場所を“編む”。」

 銀糸が、階段の石に静かに染みていく。
 水がないのに、音だけ水の気配を立てる。

 そして——

 “ただいま”

 声が、今度ははっきりと聞こえた。
 昨日とは違う。
 呼ぶための声じゃない。
 帰りついた声だ。

 澄江は、ゆっくりと膝を折った。
 泣かない。
 笑わない。
 ただ、その声に「座り」を返した。

「おかえり」

 それだけ。
 それ以上、いらなかった。



 札は落ちない。
 縄も杭も、何も変わらない。
 けれど、白い階段が“閉じた場所”ではなく、
 **“帰った声が座る場所”**に変わっていく。

 影の客のひとりが、札の影から出てきた。
 いつもなら形のない影が、
 今日は、人の「シルエット」を持っていた。

「……座った。
 だから、もう“取りに”来ない」

 それが礼(らい)の側の仕事だった。
 取りに来るのは、座りそこねた声だけだ。
 今日は誰も取りに来ない。

 影は、札に触れず、ただ頭を下げた。
 礼の側が礼をするのは、滅多にない。



 夕方、風鈴坂の家々から、声が静かに流れた。
 呼ぶ声ではない。
 名を叫ぶ声ではない。
 ただ、「座って聞いてるよ」という高さの声。

 ユウの笛は吹かれなかった。
 ミナの針は一度も動かなかった。
 ルイスの帳には、何も書かれなかった。
 裂き目の側の女は、扇を膝に置いたまま動かない。

 ——邪魔をしないことが、最高の針仕事になる日。



 夜。
 工房の灯りで、綾斗はコートを広げた。
 銀糸は返しを越え、薄金点の先に短く斜めの道を編んでいた。
 その道の先は——裏地の端で止まっている。

 止まっているのに、閉じていない。
 **“座って待つ端”**だ。

 ミナは静かに言った。

「向こう側は、そこに“帰った”。
 終わったんじゃない。
 座ってる。
 ——終わりを編むって、こういうこと。」

 綾斗は初めて、胸の真ん中が空っぽではないと気づいた。
 痛みでも、記憶でも、呼びでもなく——

 座っている。

 名前を思い出したわけじゃない。
 声を聞いたわけでもない。
 ただ、

「……帰ったんだな」

 その一言が、自分の声に聞こえた。
 誰にも届かなくていい声だった。
 返事を求めない声だった。



 夜更け、丸台の針入れに、紙片が一枚。

『——座っているよ。
 呼ばなくていいよ。
 また呼ぶから。』

 影の客は、札を動かさず帰っていった。
 裂き目の側の女は、扇で風を一度だけ起こした。
「数えない夜ね」
 それだけ言って、坂の先の闇へ消えた。

 綾斗は、コートをそっと畳み、針山のへこみに針を立てた。

 針はもう働かない。
 でも、必要なとき、必ず自分で立ち上がる。
 今日、街はそれを知った。

 明日、名を呼ぶかもしれない。
 呼ばないかもしれない。
 呼ばなくても、名は座っている。

 終わりは閉じない。
 帰ってきて座るだけ。
 それが、終わりを編む街の仕事。

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