第15話 終わりを編む日
朝の光は、街の石畳を半分だけ照らした。
影と光の境目がはっきりしている朝は、**「座る日」**だと街は知っている。
針が、ほどけた糸を追いかけすぎず、ほどくべき糸だけを指先に残す朝。
綾斗が工房の扉を開けると、ミナはひとつだけ余計な針山を机に置いていた。
針山は細長い円錐形で、真ん中に浅いへこみがある。
そのへこみが、今日の印だった。
「今日、あなたは“縫う側”じゃない」
「じゃあ、何を?」
「“編む”。縦と横だけでない、道を作る仕事。——終わりを編むの日」
編む、という言葉は、縫うより手触りが深い。
ひと目、ふた目と布が重なり、どこかでまた別の布につながる。
街は、布と息の町だ。
終わりは閉じない。編むことで、次の息に渡す。
*
白い階段へ向かう途中、風鈴坂のあちこちに、人が立ち止まっていた。
座るでもなく、泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただ呼吸の速度を揃えている。
ルイスは欠け目帳と綴調帳の両方を抱え、今日だけは「何も書かない」と宣言していた。
「今日は数えない日。書けば“終い”が狭くなる。狭い終いは、裂け目に変わる」
裂き目の側の女も来ていた。
扇は開いていない。
閉じているわけでもない。
**“膝の上に置く”**という、滅多に見せない形で持っていた。
「わたしの仕事もしないの?」
綾斗が聞くと、女は肩だけで笑った。
「終わりを編む日は、裂け目が手を出すと邪魔になる。今日は指を動かさない」
「見てるだけ?」
「見てるだけが、一番むずかしいのよ」
ミナは静かに頷いた。
「“終い(しまい)”を邪魔しないための、街の礼儀」
*
白い階段の札は、今朝は揺れなかった。
ただ、“立って”いた。
張られた縄も、打たれた杭も、昨夜から何ひとつ変わっていないはずなのに、札の影が短くなっている。
影が短い朝は、扉が“外に開く”ときだ。
丸台の上の木の針入れには、紙片が一枚。
触れる前に湿りが滲み、字が浮く。
『——綾斗へ(おかえり、って言えたよ)』
その瞬間、胸の真ん中にほんの少し熱が落ちた。
痛みではない。
息が座った証拠。
二枚目はなかった。
たった一枚で足りていた。
「呼ぶの?」
ミナが問う。
「呼ばない」
「返す?」
「返さない」
「じゃあ、何を編むの?」
綾斗は針入れに手を伸ばし、木の蓋をそっと開けた。
中には、銀糸がほんの少しだけ、ひとりでに巻いてある。
昨日まではなかった糸だ。
この糸は、向こう側が置いていった。
「“道”を編む。
終わった声が、もう二度と外れてさまよわないように。
そこへ、帰り道があるように。」
*
縄を切らない。
杭を抜かない。
札を倒さない。
綾斗は階段のいちばん上、石と石のすき間に針を落とした。
縫うのではない。
編む。
灰をひと目、白をひと目、薄金をひと目。
そこに、向こうが置いた銀糸をゆっくり重ねる。
糸は引っ張らない。
たるませない。
ただ、布と布のあいだに**「戻る道」**を通す。
風鈴坂の空気が、息を止めた。
裂き目の側の女が、小さく呟く。
「これは……返しじゃない。
縫い止めでもない。
“座った声を、帰らせる道”」
ミナは頷く。
「そう。終わりを閉じるんじゃなく、座って、帰る場所を“編む”。」
銀糸が、階段の石に静かに染みていく。
水がないのに、音だけ水の気配を立てる。
そして——
“ただいま”
声が、今度ははっきりと聞こえた。
昨日とは違う。
呼ぶための声じゃない。
帰りついた声だ。
澄江は、ゆっくりと膝を折った。
泣かない。
笑わない。
ただ、その声に「座り」を返した。
「おかえり」
それだけ。
それ以上、いらなかった。
*
札は落ちない。
縄も杭も、何も変わらない。
けれど、白い階段が“閉じた場所”ではなく、
**“帰った声が座る場所”**に変わっていく。
影の客のひとりが、札の影から出てきた。
いつもなら形のない影が、
今日は、人の「シルエット」を持っていた。
「……座った。
だから、もう“取りに”来ない」
それが礼(らい)の側の仕事だった。
取りに来るのは、座りそこねた声だけだ。
今日は誰も取りに来ない。
影は、札に触れず、ただ頭を下げた。
礼の側が礼をするのは、滅多にない。
*
夕方、風鈴坂の家々から、声が静かに流れた。
呼ぶ声ではない。
名を叫ぶ声ではない。
ただ、「座って聞いてるよ」という高さの声。
ユウの笛は吹かれなかった。
ミナの針は一度も動かなかった。
ルイスの帳には、何も書かれなかった。
裂き目の側の女は、扇を膝に置いたまま動かない。
——邪魔をしないことが、最高の針仕事になる日。
*
夜。
工房の灯りで、綾斗はコートを広げた。
銀糸は返しを越え、薄金点の先に短く斜めの道を編んでいた。
その道の先は——裏地の端で止まっている。
止まっているのに、閉じていない。
**“座って待つ端”**だ。
ミナは静かに言った。
「向こう側は、そこに“帰った”。
終わったんじゃない。
座ってる。
——終わりを編むって、こういうこと。」
綾斗は初めて、胸の真ん中が空っぽではないと気づいた。
痛みでも、記憶でも、呼びでもなく——
座っている。
名前を思い出したわけじゃない。
声を聞いたわけでもない。
ただ、
「……帰ったんだな」
その一言が、自分の声に聞こえた。
誰にも届かなくていい声だった。
返事を求めない声だった。
*
夜更け、丸台の針入れに、紙片が一枚。
『——座っているよ。
呼ばなくていいよ。
また呼ぶから。』
影の客は、札を動かさず帰っていった。
裂き目の側の女は、扇で風を一度だけ起こした。
「数えない夜ね」
それだけ言って、坂の先の闇へ消えた。
綾斗は、コートをそっと畳み、針山のへこみに針を立てた。
針はもう働かない。
でも、必要なとき、必ず自分で立ち上がる。
今日、街はそれを知った。
明日、名を呼ぶかもしれない。
呼ばないかもしれない。
呼ばなくても、名は座っている。
終わりは閉じない。
帰ってきて座るだけ。
それが、終わりを編む街の仕事。


