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第14話 名の返し

 白い階段の札が、夜明け前にひとつ鳴った。
 高くも低くもない、ただ**「そこに扉がある」**と知らせるための音だった。
 綾斗は目を開け、胸の真ん中に置いた“呼び杭”が、もう完全に抜けていることを静かに理解した。
 ——残っているのは、音だけ。
 音だけで座れる夜がある。

 ミナは工房の奥で、針を一本ずつ布に刺し替えていた。
「今日は、“返す日”になる」
「何を返す?」
「名前の座(ざ)。ずっとこちらに預かっていた声を、向こうへ返す」

 返す。
 奪われたものをではない。
 返事を返せなかった声を、正しい場所へ“座り直す”作業。

 机の上のコートは、銀糸が返し目の境を越え、薄金の点が**「座れ」と言わずに座っている**。
 名はまだ書かれていない。
 けれど——

 **“呼べば返る高さ”**が、もうできていた。



 風鈴坂の途中で、澄江(すみえ)が待っていた。
 背中を丸めず、息の速度も一定。
 手には、白い布袋。

「……今日、あの子を呼ぶつもりなの」
 澄江は、誰かに誤解されたくない人が選ぶ声の高さで言った。
「名前を言うんじゃない。“座”を返すだけ。あの子が、自分の足で座れるように」

 彼女は、袋の口を開けた。
 中には、小さな上靴と小さな紙。
 紙の端には、薄金で小さく点が打たれている。
 字ではない。
 座る場所だけが描かれている。

 ユウが笛を低く鳴らし、トモが声輪を二つ配る。
 ミナは、澄江の指先に灰の芯を渡した。
「浮かして、座らせる。結ばない、縛らない。返すときは、必ず**返し目(め)**を」

 綾斗は黙って頷いた。
 返す作業は、縫うより難しい。
 縫い止めることは、誰にでもできる。
 だが、**縫い止めずに“座り直す”**のは、街のやり方だった。



 白い階段の札の前に立つと、裂き目の側の女が扇を閉じた。
 邪魔もしない、数えもしない。
 今夜の彼女は、ただ「見届ける側」に立っていた。

 ライ麦色の髪が風に揺れ、瞳は雨のあとの石畳より静かだ。
「針の人。今日、あなたは“呼ばない”」
「呼ばない」
「呼ばせる?」
「違う。“返す”。呼ばれた声を、返す」

 女は唇の端だけで微笑んだ。
「退屈ね」
「退屈は、暮らしの味方だ」

 女は初めて、扇を完全に閉じたまま頷いた。
 それが、邪魔をしないという最高の合図だった。



 札が、小さく鳴った。
 一度だけ。

 丸台の上の木の針入れに、紙片が一枚挟まっている。
 空気に触れる前に、湿りが文字を浮かび上がらせた。

『——綾斗へ(“おはよう”が言えた)』

 字が震えていない。
 座って呼吸している字。
 それだけで、胸の真ん中に静かな熱が落ちた。

 二枚目。

『——(もう一度、呼ぶね)』

 “ね”の高さが、完全にこちら側だった。
 向こうが呼ぶ準備を終えた証拠。

 綾斗は、声輪を喉に軽く当てた。
 息を押し出さない。
 座ったまま、ただ聞く。

 階段の下で、水音がひとつ鳴った。
 水はないのに、水の音だけが鳴る。
 いつか誰かが泣いて、胸にしまったままの水が、今ほどけている。

「……ただいま」

 その声は、幼い。
 けれど、幼いだけではない。
 帰る側の声だった。

 澄江は、そっと袋の中の上靴を胸に抱いた。
 泣きもしない。
 笑いもしない。
 ただ、息を座らせた。

「おかえり」

 彼女の声は、ほどけた糸をもう一度きれいに撚りなおすみたいにやわらかかった。
 上靴の内側から、薄金の点がひとつ落ちた。
 それは雨粒ではなく、座れた証拠だった。



 札の影から、影の客がゆっくり現れた。
 今日は取りにも、返しにも来ない。
 ただ、見守る立ち方だった。

「返しは、済んだ」
 ユウが小さく笛を吹く。
 ミナは針を引き抜かず、ただ手の中で休ませた。
 ルイスは欠け目帳の白い紙に、一文字だけ縫い付けた。

『——返』

 裂き目の側の女が、扇を軽く叩く。
「終わりじゃないの?」
「うん」
 綾斗は答えた。
「返したから、座れた。
 座れたから、明日も呼べる。
 終わりを閉じないための終わりだ」

 女は、ゆっくり頷いた。
「あなたの“終い(しまい)”は、閉じ方じゃないのね」
「うん。
 閉じた扉は壊れる。
 開けっぱなしの扉は風で飛ぶ。
 ——座る扉は、鳴るだけでいい」

 女は扇を肩に載せ、短く笑った。
「退屈。
 けれど、好きよ。こういう終い方。」



 夜。
 工房の灯りの下で、綾斗はコートの裏地に針を落とした。
 銀糸が“返し”を越え、今夜初めて別の方向へ針目を変えた。

 縦でも横でもない。
 斜め。

 ミナが目を細める。
「これは、“向こうからの縫い目”」
「俺じゃない?」
「うん。——呼んだ側の針」

 針は、綾斗ではなく、
 向こう側が動かしている。

 銀糸は、返し目の奥でひと目だけ進み、
 薄金の点が静かに並ぶ。

 形になっていない。
 名前になっていない。
 でも、そこにはひとつの高い針目があった。

『——ありがとう』

 文字ではない。
 音でもない。
 ただ、針目に残された息の熱。

 ミナは微笑んで言った。

「これはもう、“失くした名”じゃない。
 “返ってきた声”」

 綾斗は、針を布からそっと抜いた。
 胸の真ん中の“間”に、何の痛みもない。

 返した。
 呼んだ。
 呼ばれた。

 街のどこかで、子どもの笑いが小さく立ち、
 風鈴坂の石畳で、蝶番が短く鳴った。

 今日、名は“返し”として座った。
 書かれなくても、そこにある。

 そして綾斗は初めて、自分の声で、誰にも聞こえないほど低く呟いた。

「……おかえり。」

 返事のいらない言葉。
 返事がなくても座れる言葉。
 街が、それを知っている。

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