第13話 扉の立つ音
朝一番の風が、白い階段の札を揺らした。
鳴るのではなく、「立つ」ような音だった。
紙が湿って、乾いて、繊維が伸び縮みを繰り返すときにだけ生まれる音。
——扉が、場所を思い出している。
綾斗は針入れを肩に下げ、工房の机の上でコートの裏地をひらりと返した。
銀糸は昨夜から一目だけ前へ進み、薄金の点が短い間を挟んで一直線に並んでいる。
返し目の痛みは、もはや痛みではなく、“そこにいてくれ”という証拠だけを残していた。
ミナは細い長針を一本、光に透かした。
「今日は、名無し(ななし)を数える日になる」
「名無し?」
「名前を呼べるのに、呼ばれたことのない声たち。返事がないまま、座布団の上で丸くなっている声」
白い階段の札がまた鳴った。
蝶番(ちょうつがい)の金具が、昨日より明らかに軽い。
風吹きの向こう側で、紙の声が「準備は整った」と言っている。
*
風鈴坂の入口では、人が静かに集まりはじめていた。
誰も声を出さない。
ただ、呼吸の速度だけが揃っている。
澄江(すみえ)の家の戸は、半分ほど開けられていた。
澄江の手には白糸、ユウの手には笛、トモは声輪の箱を抱えている。
「来たわよ」
澄江は、見えない客に向けて言った。
その声は、哀しみではなく、**“座って聞いていい声”**だった。
裂き目の側の女が、道の端で扇を半分だけ広げた。
今日の扇は、数えるための扇じゃない。
見届けるための扇だ。
ルイスは、欠け目帳と綴調帳のあいだに、薄い紙を一枚挟んだ。
まだ白い。
まだ書いていない。
「“名”は、あとで書く。先に“座”を書く。」
彼はそう言い、針を一本、広場の真ん中の石畳にそっと置いた。
針は刺さらず、ただ“待つ”姿勢のまま立ち続けた。
*
白い階段の前まで来ると、札は揺れる前に、ふわりと傾いた。
抜かれたわけじゃない。
“杭を抜く力”が、街の側に揃った証拠。
縄は張ったまま、杭は刺さったまま。
ただ、蝶番が音を立てるための角度だけが自然に開いた。
丸台の上の木の針入れには、紙片が二枚。
一枚目。
『——綾斗へ(よべるよ)』
たったそれだけ。
けれど、字の高さが今までと違う。
音になって読み上げられるための高さだ。
二枚目。
『——(こわくないよ)』
括弧はある。
でも、括弧の内側が震えていない。
座って呼吸している字だ。
ミナは頷いた。
「今日、“呼ぶ側”が来る。——あなたじゃない。」
「誰が?」
「“名を失くした者”じゃない。“名を抱えたまま、返せなかった者”」
綾斗は喉に声輪をひとつ当て、薄金の糸を針に通した。
糸が震えず、針穴が揺れない。
——座っている。
胸の真ん中の“呼び杭”が、外側から軽く叩かれている。
その瞬間、白い階段の下で水のない水音がひとつ鳴った。
綾斗は、息の奥からそっと名前を呼んだ。
「……──」
その名は、音にしない。
音にしたら、“支える側”になる。
今日は、向こうが呼ぶ番だ。
胸の真ん中の“座”が、ぐっと広がる。
針入れの中の紙が、ひとりでに湿る。
湿って、ほどけて、文字が浮く。
『ありがとう』
向こう側の“声”だった。
誰かの息が、確かにここまで来た。
涙ではない。
けれど、呼吸が少しだけ高くなり、ミナがそっと綾斗の手を押さえた。
「座って。呼吸が立ってしまう」
綾斗は頷き、喉の声輪を一段階落とした。
*
そのときだった。
“おはよう”
白い階段の下から、ほんとうに聞こえた。
声は子どもの高さでも、老人の高さでも、大人の高さでもない。
男でも女でもない。
——“名前より先に、息を届けるための声”。
ミナは小さく息を呑んだ。
綾斗は、胸の真ん中を通る細い光が、ゆっくりと街全体に広がっていくのを感じた。
「……ただいま」
綾斗は言った。
それ以上、何も足さなかった。
名を呼ばなかった。
呼ぶ必要がなかった。
“向こう側”が、初めて名のない声で“こちら”を呼んだから。
それが、十分だった。
*
影の客が、白い階段の上で静かに頷いた。
裂き目の側の女は、扇を閉じた。
ルイスは欠け目帳の白い布に、短い字をひとつ縫った。
『——座』
名でも、終わりでもなく、
ただ “ここにいる” の一字。
風鈴坂の家々の扉が、一枚ずつ、蝶番の音だけ立てて半分だけ開いた。
笑いの側でもなく、礼の側でもなく、
真ん中にだけ開く扉。
街が、呼吸で動きはじめた。
*
夜。
工房の机の上で、コートの銀糸は返し目を越え、薄金の点は「座」を描くように並んだ。
名前の形ではない。
でも、
名を呼ばなくても、名が座る形。
ミナは優しく言った。
「これが“終わりを編む街”の針目よ。
終わりを閉じず、名を縫いとめず、
ただ“ここにいる”と座らせる。」
綾斗は、コートをそっと畳んだ。
返し目は痛まない。
呼び杭はもう抜けている。
音だけが残っている。
遠くで白い階段の札がまたひとつ鳴った。
今度は、
“ただいま”
という高さで。
返事をする必要はなかった。
呼ばれたのだから。
向こう側が、初めて「こちら側の高さ」で呼んだのだから。
明日、名を呼ぶかもしれない。
呼ばないかもしれない。
どちらでも、
街は座って生きていく。
そして綾斗もまた、
座って、呼ばれる側になった。


