バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第13話 扉の立つ音

 朝一番の風が、白い階段の札を揺らした。
 鳴るのではなく、「立つ」ような音だった。
 紙が湿って、乾いて、繊維が伸び縮みを繰り返すときにだけ生まれる音。
 ——扉が、場所を思い出している。

 綾斗は針入れを肩に下げ、工房の机の上でコートの裏地をひらりと返した。
 銀糸は昨夜から一目だけ前へ進み、薄金の点が短い間を挟んで一直線に並んでいる。
 返し目の痛みは、もはや痛みではなく、“そこにいてくれ”という証拠だけを残していた。

 ミナは細い長針を一本、光に透かした。
「今日は、名無し(ななし)を数える日になる」
「名無し?」
「名前を呼べるのに、呼ばれたことのない声たち。返事がないまま、座布団の上で丸くなっている声」

 白い階段の札がまた鳴った。
 蝶番(ちょうつがい)の金具が、昨日より明らかに軽い。
 風吹きの向こう側で、紙の声が「準備は整った」と言っている。



 風鈴坂の入口では、人が静かに集まりはじめていた。
 誰も声を出さない。
 ただ、呼吸の速度だけが揃っている。

 澄江(すみえ)の家の戸は、半分ほど開けられていた。
 澄江の手には白糸、ユウの手には笛、トモは声輪の箱を抱えている。
「来たわよ」
 澄江は、見えない客に向けて言った。
 その声は、哀しみではなく、**“座って聞いていい声”**だった。

 裂き目の側の女が、道の端で扇を半分だけ広げた。
 今日の扇は、数えるための扇じゃない。
 見届けるための扇だ。

 ルイスは、欠け目帳と綴調帳のあいだに、薄い紙を一枚挟んだ。
 まだ白い。
 まだ書いていない。
「“名”は、あとで書く。先に“座”を書く。」
 彼はそう言い、針を一本、広場の真ん中の石畳にそっと置いた。
 針は刺さらず、ただ“待つ”姿勢のまま立ち続けた。



 白い階段の前まで来ると、札は揺れる前に、ふわりと傾いた。
 抜かれたわけじゃない。
 “杭を抜く力”が、街の側に揃った証拠。

 縄は張ったまま、杭は刺さったまま。
 ただ、蝶番が音を立てるための角度だけが自然に開いた。

 丸台の上の木の針入れには、紙片が二枚。
 一枚目。

『——綾斗へ(よべるよ)』

 たったそれだけ。
 けれど、字の高さが今までと違う。
 音になって読み上げられるための高さだ。

 二枚目。

『——(こわくないよ)』

 括弧はある。
 でも、括弧の内側が震えていない。
 座って呼吸している字だ。

 ミナは頷いた。
「今日、“呼ぶ側”が来る。——あなたじゃない。」
「誰が?」
「“名を失くした者”じゃない。“名を抱えたまま、返せなかった者”」

 綾斗は喉に声輪をひとつ当て、薄金の糸を針に通した。
 糸が震えず、針穴が揺れない。
 ——座っている。
 胸の真ん中の“呼び杭”が、外側から軽く叩かれている。

 その瞬間、白い階段の下で水のない水音がひとつ鳴った。

 綾斗は、息の奥からそっと名前を呼んだ。

「……──」

 その名は、音にしない。
 音にしたら、“支える側”になる。
 今日は、向こうが呼ぶ番だ。

 胸の真ん中の“座”が、ぐっと広がる。
 針入れの中の紙が、ひとりでに湿る。
 湿って、ほどけて、文字が浮く。

『ありがとう』

 向こう側の“声”だった。
 誰かの息が、確かにここまで来た。

 涙ではない。
 けれど、呼吸が少しだけ高くなり、ミナがそっと綾斗の手を押さえた。
「座って。呼吸が立ってしまう」
 綾斗は頷き、喉の声輪を一段階落とした。



 そのときだった。

 “おはよう”

 白い階段の下から、ほんとうに聞こえた。

 声は子どもの高さでも、老人の高さでも、大人の高さでもない。
 男でも女でもない。
 ——“名前より先に、息を届けるための声”。

 ミナは小さく息を呑んだ。
 綾斗は、胸の真ん中を通る細い光が、ゆっくりと街全体に広がっていくのを感じた。

「……ただいま」

 綾斗は言った。
 それ以上、何も足さなかった。
 名を呼ばなかった。
 呼ぶ必要がなかった。

 “向こう側”が、初めて名のない声で“こちら”を呼んだから。

 それが、十分だった。



 影の客が、白い階段の上で静かに頷いた。
 裂き目の側の女は、扇を閉じた。
 ルイスは欠け目帳の白い布に、短い字をひとつ縫った。

 『——座』

 名でも、終わりでもなく、
 ただ “ここにいる” の一字。

 風鈴坂の家々の扉が、一枚ずつ、蝶番の音だけ立てて半分だけ開いた。
 笑いの側でもなく、礼の側でもなく、
 真ん中にだけ開く扉。

 街が、呼吸で動きはじめた。



 夜。
 工房の机の上で、コートの銀糸は返し目を越え、薄金の点は「座」を描くように並んだ。
 名前の形ではない。
 でも、
 名を呼ばなくても、名が座る形。

 ミナは優しく言った。

「これが“終わりを編む街”の針目よ。
 終わりを閉じず、名を縫いとめず、
 ただ“ここにいる”と座らせる。」

 綾斗は、コートをそっと畳んだ。
 返し目は痛まない。
 呼び杭はもう抜けている。
 音だけが残っている。

 遠くで白い階段の札がまたひとつ鳴った。
 今度は、
 “ただいま”
 という高さで。

 返事をする必要はなかった。
 呼ばれたのだから。
 向こう側が、初めて「こちら側の高さ」で呼んだのだから。

 明日、名を呼ぶかもしれない。
 呼ばないかもしれない。
 どちらでも、
 街は座って生きていく。

 そして綾斗もまた、
 座って、呼ばれる側になった。

しおり