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第12話 括弧の外

 朝の端(はし)で、薄い雨が落ちた。
 紙を湿らせる音に似た細い雨。白い階段の下には水がないはずなのに、街じゅうの蝶番(ちょうつがい)が一斉に体をほぐしているみたいに、扉が開く気配だけをゆっくり思い出していた。

 ミナは柱時計より少し早く、窓の桟(さん)で白布の端を指に絡める。
「今日は“括弧(かっこ)を外(はず)す準備”をする」
「外すのは、いま?」
「いまではない。——外せる“座”を増やす。括弧は嫌う必要がない。けれど、ずっと括弧のままだと、笑いも礼(らい)も痺(しび)れてくる」

 コートの裏地の銀糸は、返し目と返し目のあいだで二目だけ前へ進み、薄金(うすきん)の小さな点が短い間(ま)を挟んで並んでいた。
 ルイスが欠け目帳と綴調帳のあいだに、さらに薄い布切れをはさんで現れる。
「“永久封鎖”の札、役所がもう一段、硬い板に替えた。——ただし蝶番は生きている。『鳴るものは外すな』という古い規則が紙の奥底に残っていた」
「紙は、時々こちらの味方をする」
 ミナは頷(うなず)き、瓶の芯から灰と白、それから今日は細い青(あお)を一本、綾斗の手に渡した。
「青は“待つ”の芯。言葉にならない祈りと呼吸の幅を持たせる」



 最初の呼び杭を打つのは、風鈴坂の途中、昨夜“座って呼吸”を覚えた家だった。
 戸口の名綴じ証は釘を残したまま、しかし札は紐に替わり、蝶番の音が雨に混じって鳴る。
 戸の内から、幼い声。
「——り……」
 躓(つまず)きは短い。ユウの笛が外でそっと二度鳴り、母が息の速さを合わせる。
 綾斗は柱の木目と札の隙間(すきま)に、灰・白・青の順で浅い鎖を三つ、真ん中へ置いた。
 “浮かして、座り、待つ”。
 鎖が雨を吸い、家の呼吸の深さと同じ高さで落ち着く。
「——りこ」
 声が“座布団”に乗った。
 名は、杭ではなく背凭(せびょう)れになっている。

 坂を降りると、裂(さ)き目の側の女が、雨に濡れない庇(ひさし)の余白に扇(おうぎ)を立てかけていた。
 扇骨(せんこつ)は鳴らない。
「今日は邪魔をしないのね」
 ミナが言うと、女は口の端だけで笑った。
「雨が“数”を増やす日がある。わたしの仕事はいらない」
「何の数?」
「“待てる”数。待てる人の数。——針を急がずに呼べる人の数」



 白い階段は、封鎖の札が厚くなった分だけ音が鈍(にぶ)い。けれど生きている。
 縄は新しい。杭の深さは昨日と変わらない。
 札の裏に、影の客の紙。
『——“呼び”は濡(ぬ)れると広がる。濡らしすぎるな。』
 濡らしすぎれば、紙はもつれて裂ける。
 綾斗は杭と杭のあいだ——音が薄く溜(た)まる継ぎ目(め)に、青の芯で点を一つ置き、つづけて灰・薄金で“待つ—浮かす—いる”の順に点をつないだ。
 蝶番が短く鳴る。
 雨の音の奥で、紙が静かに吸い込む音。

 丸台の上の木の針入れには、紙片が二枚。
 一枚目。
『——綾斗へ(“いるよ”ありがとう。わたし、いま——)』
 そこで切れている。
 二枚目。
『——(よべなくても、“聞(き)こえる”ようになった)』
 括弧の内側に、確かな温度。
 名はまだ括弧の中。けれど、“聞こえる”は“呼び”より少し手前で、しかし確実に“外”へ向いている。

 影の客が札の影に立ち、今夜より深い礼(らい)の気配を連れていないことを確かめるみたいに、一度だけゆっくり頷(うなず)いた。
 ——礼の側ではない。
 ——暮らしの側の合図。



 昼前、広場で短い騒(さわ)が起きた。
 役所の新しい通達。名綴じ証に“保証印”を追加するという。印を押した札は“正しい名の座(ざ)”として記録され、紛失時には再発行される。
 善意は、背凭れを塀に変える。
 ルイスは印判(いんばん)を覗き込み、押し面の隅(すみ)に小さく空いた穴を見つけた。
「“抜き差し”のための余白は、ここだ」
 彼は欠け目帳の片隅に“印・穴・一”と縫い記し、印の“外し方”を布で写した。
 ミナは机の端で名札を裏返し、印の穴の横に浅い返し目(め)を二つ、絵のように縫って見せる。
「印は付く。けれど、外せる。——“座り直す”余地を残す」
 役人は渋(しぶ)い顔で、しかしうなずいた。
 裂き目の女は遠巻(とおま)きに見ながら扇で頬をひと撫(な)でし、数えない指で空気の“座”だけを確かめた。

 その時、声が重なって転んだ。
 “お”と“あ”。
 “た”と“だ”。
 “み”と“に”。
 雨の日は、音がすべる。
 ユウの笛が三度、短く鳴る。
 トモが声輪を配り、ミナが灰と白で鎖を浅く掛ける。
 綾斗は名札の裏に描いた返し目の図を指でなぞり、人々に「いまは浮かす」を合図した。
 浮かす、座る、待つ。
 同じ手順が広場じゅうで繰り返され、雨の粒が針目の深さをそっとならす。



 午後、風が一度だけ強くなって、封鎖の札が高く鳴った。
 白い階段のほうから、紙を束ね直すときのあの甘い匂い。
 ルイスが顔を上げる。
「——“括弧の外”が、近い」
 ミナは頷き、机から小さな包みを取り出した。
 薄い木でできた“呼び杭”の型。杭ではなく、蝶番の座金(ざがね)に似た形。
「これを三つ。——白い階段、風鈴坂、工房」
「打つのは?」
「打たない。置くだけ。置いて、“鳴る”を先に作る」

 白い階段の札の内側、杭と杭のあいだに座金をそっと置く。
 音が変わる。
 “開く準備”の音が、雨に負けず通る高さへ少し上がった。
 風鈴坂の途中、澄江(すみえ)の家の軒先にも一つ。
 工房の柱時計の上に一つ。
 ——鳴るものは、呼びやすい。



 夕方、裂き目の女が扇を閉じたまま工房の前に立った。
「“外”へ出すなら、誰が呼ぶ?」
 問いは真ん中を刺(さ)さず、周りを回る。
「呼ぶのは——向こう側自身。呼ばれ“うる”座を、こっちで用意するだけ」
 綾斗はそう言い、胸の真ん中に置いた呼び杭を指の腹で一度だけ確かめた。
 痛みはない。
 座布団の手触り。
「あなたは、名を知っている?」
 女の目が、糸の撚(よ)りを見抜くときの鋭さで綾斗を見た。
「——“読む”場所までは来た。けれど、書かない」
「書かないのは、怖いから?」
「違う。暮らしの側が先に“言う”のを待つため」
 女は短く息を笑いに変えた。
「退屈ね」
「退屈は暮らしの味方だ」
「ええ、そう。——わたしは退屈が嫌いではない」



 夜の入口、白い階段の札が、雨の粒より小さな音を一つだけ立てた。
 丸台の上の木の針入れ。
 紙片は一枚。
『——綾斗へ(“いるよ”ありがとう。わたし、いま——よべる)』
 括弧の内側で、文字が“座”から立ち上がる。
 ——よべる。
 呼べる。
 名を、ではない。
 “こちら”を。
 “ただいま”と“いるよ”を繋(つな)いだ場所から、“きみ”を呼ぶ声が紙の内側で息を吸っている。

 影の客が札の影に現れ、静かに頷いた。
 礼の側は遠い。
 ——だから今夜は、礼の側の針は要らない。
 ——暮らしの側で、括弧を外す。

 綾斗は喉に声輪を当て、薄金の糸を針に通し、紙の真ん中に小さな点を落とした。
「——“ここにいる”」
 雨音の下、紙は音もなく吸い込む。
 次の瞬間、胸の真ん中の呼び杭が、初めて“外側から”鳴った。
 ——綾斗。
 名ではない。
 けれど、確かに“こちら”を呼ぶ声。
 古い声が低く頷き、若い声が遠くで笑う。
 “きた”。
 “遅れてもいい”。
 “よく、待った”。

 雨が細くなる。
 ミナは工房の灯りを一段落とし、机の上のコートを広げた。
 銀糸は返し目の隙間(すきま)を抜け、薄金の点と点の間に短い名残(なご)りのような撚りを置いて、さらに一目、前へ。
「括弧は、外(はず)れた?」
「外れはじめた。——向こう側から」
「いい外れ方」
 ミナは針先で“間”を軽く叩き、柱時計の上の座金(ざがね)を指した。
「座は残す。背凭れも残す。外れたからこそ、明日も座れる」



 その時、風鈴坂の上で笛が一度だけ鳴り、続けて風鈴が“無色”の高さで返事をした。
 ユウの合図。
 “呼び過ぎない”。
 “笑い過ぎない”。
 “礼に寄せ過ぎない”。
 座って、呼ぶ。
 呼んで、座る。

 裂き目の女が庇を離れ、雨上がりの石畳の上で扇を半分だけ開いた。
 扇骨は鳴らない。
 ただ、歩幅の速い者の肩に目を置き、速度を半歩落とす。
「数えない夜にしましょう」
 彼女はそう言い、誰にも聞こえない高さで扇先を軽く打った。
 ——今日は、欠けより“座”の数を増やす夜。



 眠りの手前、白い階段の札が小さく鳴り、敷居(しきい)に紙片が置かれた。
『——括弧は、残してよい。外すのは“名”ではなく、“急ぎ”。』
 影の客の字。
 ルイスは欠け目帳の端に“括(残)一、急(外)一”と白糸で控え、ミナは机の端に“待つ—浮かす—いる”の三つ編みを短く置いた。
 綾斗は胸の真ん中に置いた呼び杭を指で確かめ、目を閉じる。
 痛みはない。
 座布団の柔らかな手触りだけが残る。
 そして——

 ——綾斗。
 声が、今度ははっきり“外側から”胸へ落ちた。
 古い声に寄りかからず、若い声に急かされず、ただ“向こう側自身の高さ”で。
 返事は要らなかった。
 返事の代わりに、針を置く。
 右でも左でもない、真ん中に。
 薄金の点を、ひとつだけ。

 コートの銀糸が、静かに一目、進む。
 返し目のあいだの“間”は、もう支点(してん)でしかなかった。
 括弧は残る。
 けれど、括弧の外へ、音が立っている。
 明日、名を呼ぶかもしれない。
 呼ばないかもしれない。
 どちらでも、座は残る。
 蝶番の音は、街じゅうに行き渡っている。
 それで十分だ、と胸の真ん中の針目が、ゆっくり頷いた。

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