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第11話 呼び杭

 朝の気圧が、紙の裏側からそっと押すように低かった。
 白い階段の札は風もないのに微かに揺れ、蝶番だけが覚えている音を、遠くの空気に伝えている。
 ミナは窓の桟に置いた白布を一枚手に取り、光に透かした。
「今日は“呼び杭(よびくい)”を打つ」
「どこに?」
「三か所。——“名綴じ証”を塀にしはじめた家、封鎖の札が重くなった階段の上、そして……あなたのコート」

 コートの裏地の銀糸は、昨夜から一目ぶん進み、真ん中に薄金が点のように座っている。二つの返し目の間には、ごく小さな“間”があり、糸の撚りが一度だけ緩む。
 ルイスが欠け目帳と綴調帳のあいだに新しい薄布をはさんで現れた。
「役所の“名綴じ証”、良かれと思って戸口に釘で打っている家が増えている。蝶番ではなく釘だ。——明朝には剥がすことを前提にしていない」
「呼び杭で、まず“外し方”を思い出させる」
 ミナは頷き、瓶の芯から灰と白を一本ずつ取り出して綾斗に渡した。
「杭は“抜き差し”してこそ杭。塀にすると、裂き目が寄ってくる」



 最初の家は、風鈴坂の下手にある古い長屋の一角だった。
 戸口の柱に、名綴じ証が二枚、釘で十字に打ち付けられている。最初の音が滑らないことを願って——いや、祈って。
 戸の内から、小さな声がした。
「……で」と言いかけて、そこで止まる声。
 母親の低い囁きが続く。
「言えるようにって、お役所の人が釘で止めてくれたのよ」
 止めて、しまったのだ。

 ミナは戸口の脇にしゃがみ、柱の木目を撫でた。
「釘は残る。——呼び杭は残らない」
 綾斗は、名札の裏側に指を差し入れ、釘の頭に触れないよう注意して、灰の芯で“返し目”の印を縫い描いた。
 一目、点、もう一目。
 “浮かす”手順を布に刻む。
 つづけて、釘穴のすぐ脇に、目に見えない浅い鎖を二目、真ん中に。
 杭は触らない。札は外さない。
 ただ、蝶番の音を家全体に思い出させるように、空気の継ぎ手に目を置く。

 戸の内の声が、もう一度 “で”の手前で躓き——それから、ゆっくり乗り越えた。
「——でんた」
 字は合っていない。けれど、最初の音が座った。
 名は後から来る。
 母親が小さく息を呑み、釘打ちの札を指先で撫でた。
「外して……いいの?」
「外して、また掛け直せるようにしておくんです」
 ルイスの声は柔らかいが、言葉の骨は固い。
「“釘の位置”を覚えるんじゃなく、“蝶番の音”を覚えてください。——座って呼吸できるように」

 釘はそのまま残った。
 けれど、札は釘では支えられなくなった。
 家の中の空気が、名札を“背凭れ”に変える。
 呼び杭は、見えないところに打つ。
 抜き差しは、家の呼吸がやる。



 二つ目は白い階段。
 封鎖の札は昨日よりも厚紙に変わり、日に焼けた縄も新しいものに替えられていた。しかし杭の深さは変わらない。
 “抜けない”ように見せることに、役所は長けている。
 札の角に、影の客の紙が一枚、風に貼り付く。
『——杭を数えるな。蝶番の数を数えよ。』
「蝶番の数?」
 綾斗が問うと、ルイスは札の裏を覗き込み、鎹(かすがい)に似た小さな金具が二つ付いているのを見つけた。
「見よ。——動くための“余地”が、必ずひとつは残っている」
 余地。
 杭そのものではなく、杭の“間”。
 綾斗は杭と杭のあいだ、札の陰が薄い部分に、灰の芯で鎖を一目落とした。
 次に、薄金を一目、真ん中に。
 “呼び杭”は、杭に触れず、杭の機能を“思い出させる”。
 少し遅れて、札がきちんと鳴った。
 蝶番の音。
 開かない扉が、開く準備だけをする音。

 丸台の上の木の針入れは、昨日と同じ角度で待っていた。
 紙片が一枚、挟まっている。
『——綾斗へ(“よべるようになったら、よんで”って言ったけど——いまは、まだ“よべない”。だから、かわりに——)』
 そこまで。
 続きはない。
 けれど、括弧の内側に薄い湿りがあり、紙地の繊維が、文字の形に先回りして柔らかく撓んでいる。
 “呼ばれる準備”。
 呼び杭は、ここにも要る。

 綾斗は、声輪を自分の喉に、もうひとつ、低く当てた。
 名は呼ばない。
 “ただいま”と同じ高さで、別の言葉を置く。
「——“いるよ”」
 薄金で真ん中に小さな点。
 紙は音も立てずにその点を飲み、括弧の内側にたしかな温度だけを残した。
 影の客が、札の影から短く頷く。
 ——礼の側の出番ではない。
 ——“いる”という事実が、暮らしの側の杭を立てる。



 三つ目は工房、コートの裏地。
 ミナは灯りを一段落として机を清め、針山からいちばん細い針を抜いた。
「“呼び杭”は、あなたの中にも打つ」
「俺の、どこに?」
「真ん中。——返し目と返し目のあいだ」
 そこは、いつも指の腹が確かめる、小さな支点だ。
 痛みではなく、手触りだけが残っている場所。

 綾斗は灰の芯を針に通し、返し目の間に浅い鎖を一目。
 続けて薄金を一目、ほんの点として落とす。
 “ここに座って息をする”。
 自分自身に向けた“呼び”。
 針を置く瞬間、胸の内側で古い声が短く鳴り、若い声が遠くで笑った。
 ——“そこだ”。
 ——“遅れてもいい”。
 返し目の間に、呼吸の座ができる。
 昔からそこにあったような確かさで。

「呼び杭は、明日には抜けているかもしれない」
 ミナが言った。
「それでいい。呼び直せるように、杭は“抜ける”」
「杭を嫌う人もいる」
「嫌う人は、“塀”を好む。塀は、いずれ裂け目になる」

 扉の鈴が、昼の終わりを告げるように一度鳴った。
 ルイスが欠け目帳を開き、白い布の片隅に“杭(呼)三”と縫い記す。
 呼び杭三本。
 街の“抜き差し”の仕方が、今日のうちに三か所で思い出された、という記録だ。



 その夕刻、裂き目の側の女が、風鈴坂の影で扇を半分だけ開いたまま立っていた。
 扇骨は鳴らない。
 ただ、歩幅が速すぎる人の肩に視線を置き、笑いの速度をひと目落としている。
 邪魔をしていない。
 珍しい光景だった。

「呼び杭、見たわ」
 女は扇を閉じ、工房へ向かう二人に歩幅を合わせてきた。
「杭と言うには頼りなさすぎる。——でも、塀にはならない」
「杭は、頼りないくらいがちょうどいい」
 ミナの答えは刃のない刃物みたいに滑らかだった。
「座って息を整えるのが目的だから」

 女はふと、綾斗の肩のコートに目を落とした。
「それ、名前が座る場所は、もうできた?」
「座る座布団は二枚。——名はまだ括弧の中」
「括弧は、わたし、好きよ」
 意外だった。
 女はうっすら笑い、扇で自分の頬を一度だけ撫でる。
「括弧は“早すぎる決め”を嫌う。欠けを数えるとき、括弧のある言葉は裂き落としにくいの。……針の人、あなたの括弧は、いい括弧だ」

「あなたは、杭を数える?」
 ルイスが尋ねる。
 女は肩をすくめた。
「数えない。——杭は“呼ぶ”ためのもの。数は、欠けと同じ形をしていない」
 そう言って、扇の骨を一度だけ、蝶番みたいな音で鳴らした。
 “覚えよ”。
 その音は、そう告げている。



 夜。
 白い階段の札は、昼よりも軽い音を出した。
 封鎖は変わらない。札も縄も杭も、見かけは同じ。
 ただ、蝶番の所在を街が“音”で覚え、呼び杭が三か所で呼吸の座を用意している。
 丸台の上の木の針入れに、紙片がまた挟まっていた。
『——綾斗へ(“いるよ”ありがとう。——“よべるようになったら、よんで”って言ったけど、わたし、いま——)』
 続きは、ない。
 けれど、括弧の端がふくらんでいる。
 言葉がそこに“立って”いる。
 座布団に座り、背凭れに預け、あとは蝶番が鳴るのを待っている。

 影の客が、札の影に現れ、今夜ははっきりと頷いた。
 礼の側は、今日は静かだ。
 “呼び”が済んだら、「送り」も「残し」も、きっと間に合う。
 いそぐ必要はない。



 工房に戻ると、机の上のコートの銀糸は、返し目のあいだをもう一目だけ、確かに進んでいた。
 薄金の点は二つに増え、間に小さな“間(ま)”がある。
 その“間”は、息が座るほどの幅。
 ミナが針先でそこを軽く叩き、短く言った。
「よく、待った」
「待ったのは、俺じゃない」
「待てる“座”を置いたのは、あなた」
 その言い方は、責めでも褒めでもない。
 ただ、事実の針目をなぞる手だった。

 扉の鈴が、夜半にふっと鳴った。
 敷居に紙片が置かれている。
『——呼び杭は、明日には抜けてよい。残るのは“音”。』
 影の客の字。
 ルイスは欠け目帳の片隅に、白糸で“音”の字を一目だけ縫い付けた。
「数えきれないものを、数える印。——“音”」
 欠けではない。
 埋めるものでもない。
 ただ、明日、また呼べるように。

 灯りを落とす前、綾斗は胸の真ん中に置いた呼び杭を、指の腹でそっと確かめた。
 痛みはない。
 あるのは、座布団の柔らかい手触り。
 古い声が低く言う——
 「杭は布のために。音は人のために」
 若い声が笑う——
 「杭を打ったら、音で呼べ」
 そして、自分の声が、ただ真ん中に座る。
 ——「いるよ」
 それだけを、今夜は繰り返し、胸の内側に縫いとめておいた。

 外では、白い階段の札が小さく鳴り、風鈴坂の無色の音が、針目の継ぎ目をやさしく撫でていった。
 呼び杭は、明日の朝には抜けているだろう。
 それでいい。
 音だけが残り、蝶番の在りかを街に知らせる。
 名は括弧のまま、しかし確かに“立って”待っている。
 ——遅れてもいい。
 呼べるようになったら呼ぶ。
 呼んだら、座って笑う。
 笑って、礼を思い出す。
 その順序で、街は今日も、ほどけずに眠った。

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