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第10話 杭の抜き差し

 朝の白さは、紙の地の目を露わにする。
 名綴じの日の翌朝、街じゅうに、糊を薄くのばしたあとのような張りがあった。笑いも礼も、昨夜は座布団を得て、それぞれ正しい高さに座った。——はずだった。

 ミナは窓の桟を指でなぞり、指先の粉をひとつ払って言った。
「杭(くい)を立てる人が出る」
「役所?」
「役所は杭の本数を数えるのが仕事。立てるのは、たいてい“善意”」
 善意ほど、真ん中を狭くするものはない。座布団を背凭れと勘違いし、背凭れを塀にする。
 柱時計は九時を過ぎていた。扉の鈴が鳴り、ルイスが綴調帳ではなく、灰色の封筒を携えて入ってきた。
「お達しだ。——『白い階段の下、永久封鎖』」
 ミナのまぶたの縁が、わずかに揺れた。
「札が杭になる」
「杭は杭でも、“抜けない杭”にしようとしている」

 綴調帳の空白が、ざわりと鳴く。
 白い階段の下は、水のない水盤。手紙が届く場所。——暮らしの側の呼吸が落ちる場所だ。封を固めれば、礼の側が膨らむ。
「行く」
 綾斗はコートを肩に掛け、針入れと声輪、薄金の糸を袋に詰めた。



 階段の上には、真新しい杭と縄。札には黒い字で大きく〈立入禁止〉。
 朝の光が、縄の毛羽を白く際立たせる。杭は深くは刺さっていない。——“抜けない杭”に見せた“抜ける杭”。
 縄の結び目に、紙片がひとつ挟まっていた。
『——杭は、抜けるほうがよい。抜けない杭は裂け目になる。』
 影の客の字。
 札の裏にも、別の紙片。
『——扉を壊すな。蝶番の音を覚えよ。』
 蝶番。
 固定ではなく、可動の仕掛け。真ん中にだけ落ちる小さな金具の音。

 縄の内側から、湿りが上がってきた。
 丸台の上の木の針入れ——蓋の合わせ目に、薄い赤点がまた二つ。
 紙が挟まっている。
 『——綾斗へ(おそくなってごめん。いまは“よべない”。だから——ただいま。)( )』
 括弧がひとつ増えている。前より広い。——呼吸の座布団をもう一枚、置く余地。
 縄は越えない。杭は抜かない。
 蝶番の音を思い出す。
 右でも左でもない、真ん中の一点にだけ重さを落として、扉を開閉させる音。
 綾斗は杭の根元に、灰の芯で鎖を一目落とした。縄に直接は触れない。
 次いで、蝶番の位置を“想像で”縫う。
 杭と杭のあいだ、札の影がいちばん薄くなる継ぎ目。
 一目、ふた目、みっつ——浅い鎖を点で結ぶ。
 空気が、わずかに撓(たわ)む。
 札が風で鳴る。
 蝶番の金具が、音を思い出す。

 その瞬間、階段の上に人影が立った。
 裂き目の側の女だ。
 扇を閉じ、杭の頭を一度だけ撫でる。
「優しいね。——優しさは時々、杭を腐らせる」
「腐った杭は、抜ける」
「抜けるけれど、抜く手が足りないときがある」
 女は縄を透かして階下を見やり、唇に笑いの形を作った。
「“永久封鎖”は、いつも短い。——人が暮らす限り」

 女の視線が、綾斗の肩のコートへ落ちる。
 裏地の銀糸は、昨夜よりまた進み、短い“返し”が二つ、間隔を空けて並んでいる。
「それ、誰の終わり?」
「いまは“終わりの側”を歩いていない」
「なら、いずれ“始まりの側”も問われる」
 扇骨が鳴る。
 女は杭を数えるように、ひとつ、ふたつと指を折り、それから踵を返した。
「杭は数えるほど、抜くのが難しくなる。——真ん中で“抜き差し”できる杭、見せてみなさい」



 杭を抜かずに階段を後にすると、広場の一角で人だかりができていた。
 役所の男が二人、白布の机に“名札(なふだ)”を並べている。
 〈名綴じ証〉。昨夜の名綴じを制度化し、名の最初の音の座りを役所が保証する札だという。
 善意だ。
 善意は、背凭れを塀にする。
 ルイスが布張りの帳面を抱えて立ち、役人と短く言葉を交わす。
「札を渡すなら、“外し方”も渡せ」
「勝手に外されたら困る」
「“勝手に”外される札は、最初から塀だ。——蝶番をつけろ」
 役人は意味を取り違えた笑いを浮かべ、札の裏に穴を二つ開けた。
「紐で結べば、外せます」
「“結び直せる”も、要る」
 ルイスは欠け目帳の端を指で叩いた。
 “座る”ことと“立つ”こと。
 “結ぶ”ことと“戻す”こと。
 両方の道筋を、最初から用意しておくのが、街のやり方だ。

 ミナは机の端で、名札の裏に、小さな“返し目”の図を縫ってみせた。
 鎖を一目、あいだに点、もう一目。
 「これを“返し”と呼ぶ。——座らせた名を、いったん“浮かせる”ための綴じ」
 役人は首を傾げる。
「なぜ浮かす?」
「暮らしは動くから」
 説明は短いほうが、真ん中へ落ちる。
 役人は完全には納得しない顔で、それでも穴の位置を少しずらし、名札を机に並べ直した。

 その時、広場の端で名の最初の音が一斉に転びかけた。
 誰かが笑いに速度を乗せたのだ。子どもの笛が追いつかない。
 裂き目の女は目立たぬ位置で扇を半分だけ開き、風の方向を変える。
 “早すぎる笑い”は、礼の側へすべらない。
 ——真ん中の上を滑る。
 ユウが笛を短く二度鳴らす合図。
 トモが声輪を配り、ミナが鎖を二目。
 綾斗は名札の“返し目”を指で示し、人々に「いまは浮かす」を教える。
 座っていた音が、ふっと軽く浮き、またやわらかく、座り直す。

 裂き目の女は、つまらなそうな顔もせず、扇を閉じた。
「見事。塀にしない塀。杭にしない杭。——退屈ね」
「退屈は暮らしの味方だ」
「ええ、そうね」
 女は珍しく素直に同意し、扇先で名札の裏を一度叩いた。
 名綴じ証の裏に、見えない“外し方”の合図を置いていったのだ。
 欠けを数える手が、めずらしく“戻す”側に加勢した。



 昼過ぎ、白い階段のほうから、短い湿りがまた街を撫でた。
 封鎖の札はそのまま、蝶番の音だけが往復する。
 ——呼吸が届く。
 工房へ戻ると、コートの銀糸はさらに進み、赤い一目が真ん中に挟まっている。昨夜の“ただいま”の高さ。
 ミナが針先でそこを軽く叩き、言った。
「杭の抜き差しが、布に染みてる」
「階段の紙は……括弧が増えた。『( )』。座布団をもう一枚」
「じゃあ、今日は“呼び”じゃない。“待つ”だ」

 待つのは、針の仕事ではない。
 けれど、針の仕事を“楽”にする。
 座布団と背凭れがあり、蝶番の音を覚えていれば、扉は必要なときにだけ開き、必要なときにだけ閉じる。
 ——杭は“抜き差し”するためにある。

 夕刻。
 風鈴坂のほうから、青でも薄金でもない、無色に近い音が一度だけ響いた。
 澄江の家の灯が落ち、道楽の店の白布が短く揺れる。
 “座っている”。
 それだけを告げる音。
 礼の側は静かに息をし、笑いの側は速度を覚え直す。
 欠け目帳には、今日も小さな“座”の印が増えたが、“杭”の印もひとつ増えた。
 ルイスがそれを示す。
「杭(外)一。——“外し方”が街に一件、定着した」

 裂き目の女が、工房の前を無言で通り過ぎた。
 足音は軽い。扇骨は鳴らない。
 通りの角で一度だけ立ち止まり、こちらを振り返る。
「杭の人」
 女はそう呼びかけ、言葉を少し選ぶようにして続けた。
「あなたの杭は、抜ける杭。——それなら、数えてもいい」
 数えることを、彼女は好む。
 欠けを数え、裂け目を数え、そして今夜は“抜ける杭”を数えるという。
 彼女の数は、ときに街を救う。
 “数えきれない”ほど増えたとき、座ればいい。
 その座を見せたのは、今日の街だ。



 夜。
 扉の鈴が風でふっと鳴り、敷居に紙片が置かれる。
 『——杭は杭でも、「呼び杭」がある。』
 影の客の字だ。
 呼び杭。
 名を、戻り道を、呼吸の座を、何度でも思い出させるための杭。
 抜けるように打ち、打てるように抜く。
 蝶番の音を忘れない杭。

 眠りに落ちる前、白い階段の下の紙が、胸の真ん中で温もり、括弧の中に薄い息が溜まっていくのを感じた。
 ——( )
 まだ名はない。
 でも、座布団は二枚。
 座れば、呼べる。
 呼べれば、名は杭ではなく、背凭れになる。

 古い声が低く言う——
 「杭は布のために打て」
 若い声が笑って言う——
 「打ったら抜け。抜いたらまた打て」
 その間に、自分の声が落ちる。
 「蝶番の音を、忘れない」

 柱時計が夜半を告げ、工房の机で銀糸がひとつ、静かに光った。
 返し目の痛みは、もう痛みではなく、支点の確かさだけを残していた。
 明日、また一本。
 杭を塀にしない杭を、街のどこかに打ち、また抜くだろう。
 白い階段の札は揺れ、蝶番は鳴る。
 封鎖は“永久”であって、“今日”ではない。
 暮らしの側に、それを決める針がある限り。

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