第9話 名を綴じる日
朝の空気は薄く湿っていた。
白い階段の下には水がないはずなのに、街じゅうが“紙を湿らせる音”をうっすらまとっている。
ミナは窓を少し開け、柱時計に目をやってから言った。
「今日は“名綴じ(なつづじ)”をやる」
「誰の?」
「皆の。——“欠け”が同じ型で増えはじめた。名前の最初の一音が滑って落ちる」
欠け目帳の布には、昨夜ルイスが縫った“座”の印のとなりに、同じ針目がいくつも増えていた。
“あ・か・さ・た——”最初の音ばかりが、薄金の上で転ぶ。
ミナは瓶から灰と白の芯を一本ずつ抜いて、綾斗の手に渡す。
「笑いでも礼でもない“あいだ”で、喉の入口に浅く留める。座布団を敷くみたいに。——今日は市じゃない。授ける日」
*
広場に白布の長机を出したのは、午前の二刻め。
ルイスは司書台の隅に“名綴じの手順”を布で縫い書き、オヤカタの孫・トモは鉄の小さな輪を束にして持ってきた。仮輪よりもさらに軽い“声輪(こえわ)”。
ユウは、ミサにもらった白糸を結び直して配り、子どもにだけ合図の笛を渡す。吹きすぎない笛。笑いの側に傾きすぎるのを止める笛だ。
最初の来訪は、早かった。
学び舎の先生が、小さな子の手を引いて来た。
「り」が言えない。名簿で呼ばれるたび、舌の裏が滑って「い」になる。
喉の白布をかざし、灰の芯で鎖を一目、真ん中に。
ユウが耳元で、その子の名を短く、呼ぶ。
「り」
針目が“り”の形の影を覚え、声輪が喉の入口で小さく震える。
子は、おずおずと繰り返す。
「り」
布に音が座る。
ミナは針を引いて頷く。
「もう一度」
今度は笑いの色が乗る。
“名の最初の音”が、すとん、と胸の真ん中に落ちた。
二人めは、店の娘。
「た」が飛ぶ。
同じ手順。
浅く、真ん中に。
娘は照れ笑いしながら、今度は自分で声輪を喉に当てた。
「た」
布に“座”の印が増え、欠け目帳に短い縫い目が並ぶ。
“名・一音・灰一・座”
午後までに二十。
夕刻までに、四十。
針の手順は、驚くほど速く街に広がった。
ユウの笛が強すぎる笑いを制し、トモの輪が息の出入りを助ける。
ルイスは縫いながら“誰でも縫える形”へ文言を削り、ミナは針の深さを都度たしかめつづける。
“座らせるだけ。結ばない。杭は打たない。”
言葉は短いほど、真ん中へ落ちる。
*
昼を少し過ぎた頃、白い階段の下からの湿りが、はっきりと街の真ん中を通った。
——手紙の続きが近い。
合図のように、扇の骨が一度、乾いた音を立てる。
裂き目の側の女だ。
今日は遠巻きに見ているだけではなかった。
女は広場の端に立ち、通り過ぎる人ごとに、最初の音を少しだけ揺らす。
「また明日」が「またあした」に、
「ただいま」が「ただいま」に。
——些細なのに、積もると布目がずれる。
女は扇を顎に当て、楽しげに首を傾げた。
「“最初の一音”は杭でもあるのよ。杭は多すぎても邪魔。——ねえ、針の人。あなたは杭を嫌うのでしょう?」
「杭を“固定”に使うのは嫌いだ」
綾斗は答え、声輪の束を机の端へ寄せた。
「でも“座布団”には要る。座りやすい背もたれは人を自由にする」
女の目の端が、ほんの少しだけ笑った。
「自由、ね」
扇の骨がかすかに鳴る。
広場の空気が、糸の表面でひやりとする。
——早すぎる笑いが混じる前触れ。
ユウが短く笛を鳴らし、子どもたちが笑いの速度を一段落とす。
トモが輪を配り歩き、ミナが鎖を追加する。
ルイスは欠け目帳の白の余白を広げ、縫うべき箇所が増えたときの逃げ道を布に仕込む。
女は近寄ってきて、机の端の白布を人差し指で押した。
布がほんの指幅だけ、裂ける。
——切り痕。
綺麗な、悪意の薄い、しかし切り口のまま放置すれば“欠け”を呼ぶ切り痕。
「見てみたいの。あなたの返し目」
挑発ではない。純粋な好奇心の温度だ。
綾斗は仮輪を一つ置き、切り痕の両端を軽く留めた。
深くは縫わない。
浅く、真ん中に、灰の芯で鎖を三つ。
一目で“止まる”ことを教え、ふた目で“ほどける道”を残し、三目で“どちらへも寄らない”を刻む。
最後に薄金をひとかけ、言葉の座布団を小さく添えた。
「——“いま、ここ”」
女の扇が止まり、目が綻ぶ。
「綺麗ね。つまらないくらい、綺麗」
「つまらないが、暮らせる」
「暮らせる、と言えるあなたは、針の人だわ」
そのときだった。
白い階段の方向から、音のない風が一筋、広場を撫でた。
針と糸の匂いに混じって、紙をほどいたときの甘い匂い。
木の針入れの蓋が胸の中で勝手に開くような、呼び。
——来た。
ミナが顎で階段のほうを示す。
「行って。ここは持つ」
ルイスが欠け目帳の端に糸を一目置き、女は扇を畳んで道を空けた。
「拾い役」
呼びかけはもう、揶揄の温度ではない。
*
白い階段は、封鎖の札の影が薄くなっていた。
降り口に、誰かの足が一度だけ、ためらって置かれた跡。
下は相変わらず水がない。
けれど、音はあった。
紙の上にゆっくり水を垂らしたときの、あの柔らかい吸い込み音。
丸台の上の木の針入れには、新しい紙片。
『——綾斗へ(おそくなってごめん。いまは“よべない”。だから——)』
そこまでで、言葉が切れている。
括弧の外側に、薄い赤い点が二つ。
——約束の印。
薄金の糸だけでは座らない。
必要なのは声。
“自分で呼ぶ声”が、まだ戻っていない。
階段の上に影の客が立つ。
礼の側の気配は薄い。
ただ、待っている。
——呼び名を縫うのは、暮らしの側だ。
綾斗は自分の喉に、声輪をひとつ当てた。
誰の名かわからない。
だが、呼びたいという“向こう側の息”は届いている。
ユウがミサを呼んだときと同じように、短く、軽く。
——「ただいま」
名ではない。
けれど、“名の座布団”にはなる。
薄金の糸を括弧の真ん中へ一目、小さく落とす。
右でも左でもない、真ん中の点。
呼吸の置き場所。
音が、布の下で変わった。
“おそくなってごめん”の続きに、空白の湿りが声を含みはじめる。
紙に、もう一行が浮いた。
『——(ただいま)』
綺麗な字だった。
誰のものだか、まだ思い出せない。
けれど“ただいま”の高さが、綾斗の胸の真ん中と、ぴたりと重なる。
白い階段の下に水はないのに、喉がやさしく潤う。
影の客は、今度ははっきりと頷き、札の影へとすっと戻っていった。
——礼の側の出番ではない。
——今日は暮らしのほうだ。
針入れの底から、もう一枚。
『——(よべるようになったら、よんで)』
括弧の内は小さく、しかし迷いがなかった。
“よべるようになったら”。
名綴じの日に、ふさわしい手紙だ。
*
戻ると、広場は夕刻の手前で、いい具合にゆるんでいた。
最初の音を取り戻した者が、次の者に輪を貸し、短く呼び、笑いすぎない速度を保つ。
裂き目の女は遠くで扇を閉じ、欠け目帳の布に増えた小さな“座”の印をしばらく眺めていた。
「——数えきれなくなるわ」
すこし、寂しそうに言った。
ルイスは首を傾げる。
「数えきれなくなったら、座ればいい」
「座ったまま、針は動く?」
「座ったまま動く手を、今日はずいぶん見た」
女の視線が、綾斗の胸の真ん中に落ちる。
「あなた、呼んだわね。階段の下で」
「名は呼べなかった。——“ただいま”だけ」
「十分よ」
女は扇を頬に当て、目の温度を少し落とした。
「“楽”は、たぶん、あなたの針ではない。あなたは“楽”を渡さない。座布団と背もたれを置いて、『座って呼吸して』と言うだけ」
「それで暮らしは動く」
「動く。——だから、今日は邪魔をしない」
女は踵を返し、人波に消えた。
足跡は残さない。
けれど、切り痕も残さなかった。
扇の骨が遠くで一度だけ鳴り、風が笑いの側と礼の側のあいだをなめらかに往復する。
*
日が落ちきる前、ユウが走ってきた。
息は上がっていない。
眼はまっすぐだ。
「道楽さん、名前を“座らせられた”よ。——『どうらく』って、ちゃんと笑って言った」
ミナは笑って頷き、白糸をひと筋ユウの指に巻いた。
「いい縫い目。座って呼吸して、呼べるところから呼ぶ。……明日もできる?」
「できる」
ユウは短く答え、笛を胸に仕舞った。
“また明日”。
薄金の細い橋が、広場のあちこちで静かに渡される。
工房に戻ると、コートの銀糸は、昨日より長く進んでいた。
進んだ先に、また短い“返し”がある。
返しのすぐ脇に、薄金が一目、真ん中に落ちている。
——白い階段の“ただいま”と同じ高さ。
ミナは針先でそこを軽く叩いた。
「手紙の人、呼べるようになったのね」
「まだ名は書けていない。括弧のまま」
「括弧はいい。暮らしが中身を連れてくる」
扉の鈴が、夜の端で小さく鳴った。
敷居に小さな紙片。
『——名は杭。杭は座布団にもなる。』
影の客の字だ。
今日の彼らは、遠くから見ている時間のほうが長かっただろう。
礼の側は、静かに息をしている。
眠りに落ちる前、胸の真ん中の針目が、はっきりと“座っている”のを感じた。
古い声は、今夜は低く短く頷くだけ。
若い声は、遠くで「遅れてもいい」と笑う。
白い階段の紙は、胸の内で温度を残し、括弧の形のまま、柔らかく光った。
——(ただいま)
呼べるようになったら、呼ぶ。
その時、名は杭ではなく、背もたれになる。
真ん中に座る者の、明日のための。


