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第8話 欠けを数える手

 風鈴坂の夜から一日。
 喪失の返し目は、指の腹で確かな手触りのまま残っていた。痛みは薄れたが、消えはしない。ミナはそれを確かめるように、朝一番の茶を置いて言った。
「今日は“針の市”。——人が集まる日は、あの人も来る」
「あの人」
「裂き目の側の人。欠けを数える人」

 針の市は、街の縫い目を年に何度か点検するような日だ。
 布屋は端切れを持ち寄り、糸屋は古い撚りをほどいて新しい撚りを試す。子どもたちは落ちたボタンを握って走り回り、大人たちは昼前に一度だけ真剣な顔で針を見せ合う。
 笑いの側が少し高くなる日でもあるし、礼の側に寄りがちな縫い目を“真ん中”へ戻しやすい日でもある。
 ——そして、裂き目の側が仕事をしやすい日でもある。

 通りに屋台が出た。銀の小皿に並んだ針の穂先が、朝の光でいっせいに小さく鳴る。
 ミナは工房の軒下に、白布と仮輪、それから瓶の芯(白・灰・薄金)を並べた。
 綾斗は、胸の真ん中を通る細い光が普段よりも静かに伸びているのを感じた。昨夜の返し目が、ただの痛みではなく“支点”になっている——そんな確かさ。

「綾斗」
 ミナが低く呼ぶ。
 通りの向こうから、扇の骨がひとつ、乾いた音を立てた。
 女は人波に紛れているのに、紛れない。眼差しが布に沿わないのだ。視線はいつも縫い目の「際(きわ)」に落ちる。
「楽にしてあげる」
 女は笑わない口で笑い、真綿を手で裂くみたいな細い動作で、屋台の端の薄金の糸に触れた。
 糸の表面に、音のしない傷が入る。
「“また明日”は、いいこと。でも“明日”が遠い人には重すぎる。——だから、軽くしてあげるの」
「軽い針は、抜けやすい」
 ミナは答え、瓶の蓋を閉めた。
「落としやすいとも言える」
「そう。だから拾ってあげる。ねえ、針の人。あなた、拾い役に向いている」
 女は綾斗を見た。
 胸の真ん中の縫い目が、ひと針ぶんだけ強く締まる。
「拾えないものを拾うのは、好きじゃない」
「そう。あなたの好きはきれい。でも、きれいだけでは間に合わない夜があるの」
 女は扇を畳み、指先で宙をひと撫でした。
 通りの喧騒が一瞬だけ濁る。笑いの側が、薄く沈む。
 ——欠けが増える音だ、と身体が先に理解した。

「ルイスは?」
「後ろ」
 いつの間にか、司書は人垣の陰に立ち、綴調帳の薄い冊子とは別の布張りの帳面を抱えていた。
「『欠け目帳(かけめちょう)』。裂かれた“約束”や“呼び名”の抜けを書き留める帳。紙に書かず、布に縫いとめる」
「書いたら、杭になる」
「うん。布なら、ほどける道も残せる」

 女は帳面を一瞥した。
「増えるわよ」
「増えたら、縫えばいい」
 ルイスは口の端だけで笑い、帳の端に最初の目を置いた。
 薄金の糸が触れられた場所。
 女は“増える”と言い残し、人波の中へ消えた。
 足音は残らない。かわりに、小さな紙片が三枚、軒先に舞い込んだ。
『——楽(らく)と楽(たの)しさは、似ていない』
『——礼の間では、早すぎる笑いに気をつけよ』
『——真ん中に杭を打つな』
 影の客の紙に違いない。欠けを数える女に引かれて、彼らも近くにいる。



 一枚目の欠けは、すぐ見つかった。
 屋台の端で、少年が「またね」と言えずに泣いている。
 さっきまで笑っていたのに、舌の裏がこわばって言葉が転ぶ。
 薄金の糸に入った音のない傷が、少年の「またね」を滑らせてしまうのだ。
 ミナは白布を喉へ軽くかざし、鎖綴じを二目、真ん中へ落とした。
 綾斗は瓶の“白”を芯に選び、一目、ふた目と浅く続ける。
 少年の眼の焦点が戻り、唇が自然にほどける。
「……またね」
 最初は小さな声、次は少し誇らしげな声。
 ルイスは『欠け目帳』に“薄金・舌裏・二目・戻り”と布で縫い記す。

 二枚目は、老婆の名。
 名を呼ばれても、うまく返事が返らない。
 礼の側へ寄りすぎた縫い目に、笑いの側から薄い橋をかける。
 ミナは灰の芯を選び、真ん中に短い綴じ。
 綾斗は、返事の最初の音を彼女の呼吸に合わせて布へ落とす。
「す」
 老婆が笑って、皺の奥から声が出る。
「すみ(江)じゃないけど、まあ似た名前で返しておくよ」
 悪い冗談が、縫い目を明るくする。
 礼の側で悲しみを言葉にし続けた筋肉が、少しだけ柔らかくほぐれる。
 ルイスの針が“名・返答・灰一・笑い縫い添え”と控えを縫う。

 三枚目は、難しかった。
 若い女が、婚礼の帯を手に「やめる」と言えなくなっている。
 言えないのは、怖いからではなかった。
 “言えば、欠けが増える”と身体が学習してしまっている。
 裂き目の側の女が、いつか彼女に「楽だよ」と囁いたに違いない。
 真ん中に針を通すには、仮輪が要った。
 綾斗は仮輪で帯の端を仮に止め、浅い縫いで“今は結ばない”という形を布へ刻む。
 言葉は要らなかった。
 女は帯を胸に抱え、長く息を吐いた。
 ルイスの針が“帯・仮輪・保留・真ん中三”と記す。

 欠け目帳の白い布は、昼までに小さな縫い跡でいっぱいになった。
 すべて強い針目ではなく、ほどける道を残した浅い縫い。
 増える、と女は言った。
 ——実際、増えた。
 だが、増えるたびに、街の誰かの指先が思い出す。縫い直しの手を。
 針の市は、縫う前に“手を思い出す日”でもあるのだと、綾斗は知る。



 昼の合図の太鼓が鳴り、人の流れが一度だけ止まる。
 その静まりの底で、白い階段の下と同じ匂いが、ほんの一瞬だけ通り抜けた。
 水のない水の音。
 礼の側の冷たさではない、紙を湿らせるような、静かな湿り。
 ——手紙の続き。

 ルイスが、眉を上げた。
「感じたね」
「感じた。今、階段は?」
「役所が封鎖を延長した。けれど、“音”は封鎖できない」

 ミナが糸巻きを一本、綾斗の手に押し込んだ。
「行って。私は市を続ける。……白い階段で“真ん中”を渡せるのは、たぶん今」
 通りの端で、扇の骨がひとつ鳴る。女は遠目にこちらを見て、つまらなそうに肩をすくめた。
「行ってらっしゃい。拾い役」

 白い階段は静かだった。
 封鎖の札が風に揺れ、その影だけが階段の角に乗る。
 下へ降りると、丸台の縁に置いた木の針入れが、最初に開けたときと同じ角度で待っていた。
 そこに、新しい紙片が挟まっている。
『——綾斗へ ( )』
 括弧の中は、空白。
 昨日より、明らかに“読むことができる”空白だ。
 綾斗は指先で、空白の縁をなぞった。
 返し目の痛みが、最小限の電流みたいに走る。
 目を閉じ、針の穴に薄金の糸を通す。
 約束は、杭になりにくい。
 でも、約束だけだと、抜けやすい。
 ——だから、真ん中を一目。

 一目。
 括弧の左端に、小さな鎖が落ちる。
 息が入る。
 ふた目。
 括弧の右端に、同じ鎖。
 吐く。
 三目。
 真ん中に、小さな点。
 呼吸が中に座る。
 紙の空白が、静かに湿って、文字が浮いた。

『——綾斗へ(おそくなってごめん)』
 身体の芯が、やさしく撓む。
 誰の字か、まだ分からない。
 でも、誰かが確かに、ここに“遅れてきた”。
 遅れても、来た。
 それが真ん中の針目にとって、どれだけ大きいか——胸の縫い目が、先に知っている。

 階段の上に、影の客が立った。
 今日の影は、礼の側の冷たさを連れていない。
 ただ、見ている。
 紙に宿った呼吸を、確かめている。
 影は一度だけ、ほんの少しだけ頭を垂れ、札の影へ戻っていった。

 針入れの底に、もう一枚、紙切れ。
『——( )を埋めるのは、暮らしのほうで。』
 ルイスの文体に似ている。けれど、彼の針ではない。
 オヤカタの声が遠くで笑い、若い声が「急ぐな」と囁いた。



 戻ると、市は午後の緩い呼吸に入っていた。
 欠け目帳は布の面積を増やし、ミナの針は減っていないのに減ったように見える。
 裂き目の女は、今度は子どもの輪に混じっていた。
 彼女の手から落ちる影は、子どもたちが“笑いすぎて息が続かない”方向へ、さりげなく方向を変える。
 ミナは気づいている。
 けれど、止めない。
 止めると、裂き目の側は深くなる。
 真ん中で座らせるには、“自分で息を整える瞬間”が要る。

 女と目が合った。
「遅かったわね」
「間に合った」
 綾斗は言い、紙片を一枚、彼女の扇の上に乗せた。
『——楽(らく)と楽(たの)しさは、似ていない』
 女は肩を上げ、目にだけ笑いの光を入れた。
「似ていない。似ていないから、交ざりやすいのよ。あなたたちの真ん中は、綺麗すぎる」
「綺麗に縫うのが仕事じゃない。ほどける道を残して縫うのが仕事だ」
「ほどける道は、裂け目にもなる」
「そうね」
 ミナが横から静かに言った。
「だから“欠け目帳”がある」

 ルイスが帳を差し出す。
 女は布の縫い跡を眺め、扇の骨で軽く叩いた。
「数えるの、楽しい?」
「楽(らく)じゃないけど、楽(たの)しいよ」
 ルイスの返事は、予想外にやわらかい。
「数えることで“いま”が見える。真ん中は、数えずに保てない」

 女は舌打ちも笑いもせず、扇を閉じた。
「また夜に」
「夜は、礼の側に寄りやすい」
「だから行くのよ」
 そう言い、女は人波にまぎれ、今度はすぐには消えなかった。
 彼女の足跡は、針の市の隙間に小さな切り痕をいくつも残す。
 ——追えば、深くなる。
 ——放てば、広がる。
 厄介な縫い目だ。
 でも、厄介な縫い目ほど、真ん中は綺麗に通る。



 日が傾き、屋台の影が縦に伸びはじめた頃、通りの端で太鼓が一度だけ低く鳴った。
 祭りの合図ではない。
 礼の側からの、短い呼び。
 風鈴坂のほうから、薄金と青の中間の音が風に乗ってくる。
 “早すぎる笑いに気をつけよ”。
 影の紙の警句が、遅れて頭の中で読まれる。

 風鈴坂の下に着くと、澄江の家の灯りがつき、道楽の店の前に白い布が掛かっていた。
 通りが静かだ。
 ——喪の静けさではない。
 ——呼吸の静けさ。
 誰かが、笑いすぎて早まった礼の歩幅を、真ん中で座らせたのだ。

 そこに立っていたのは、ユウだった。
 手にはミサから預かった白糸。
 喉の布に鎖綴じの浅い目。
「姉ちゃんが、教えてくれた」
 ユウは少しだけ誇らしげに言った。
「“笑いすぎるときは、真ん中に座る”って。……道楽さん、眠ったよ。きちんと“また明日”と言って」

 返し目の痛みが、やさしく痒みに変わる。
 綴調帳ではなく、欠け目帳に縫うべき夜だ。
 “早すぎる笑い”の欠け。
 “自分で座った”という戻り。
 ルイスは短く縫って、布の端に“座”の字を針で印す。

 坂を降りるとき、扇の骨が遠くで一度だけ鳴った。
 女は今夜も“数”を増やしに行くのだろう。
 けれど、同じ夜に、増えた数だけ“戻り”も増える。
 針の市で思い出した手は、夜になってからこそ強い。



 工房に戻ると、コートの銀糸はまた一目、前へ進んでいた。
 進んだ先に、ごく短い“撚り”の違い。
 右でも左でもない、真ん中にだけ入る撚り。
 ——白い階段の紙に、文字が一行、増えたのと同じ夜。
 ミナは銀糸の撚りを指でなぞり、目を細めた。
「手紙の人、遅れてきたのね」
「来た。『おそくなってごめん』」
「じゃあ、急がない。急ぐと、真ん中はすぐ細くなる」

 扉の鈴が、夜の入り口で小さく鳴った。
 誰もいない。
 敷居に、紙片が置かれている。
『——針の市の夜は、杭を抜かずに眠れ』
 影の客の字。
 ミナは読み上げ、柱時計の上に立てかけた。
「杭を抜くと、明日、笑いがへたる」
「杭を打つと?」
「今夜の欠けが、明日、名前になる」
 二人とも、同じところで頷いた。

 寝床に入る前、綾斗は仮輪を指先で一度転がし、机の上の欠け目帳を見た。
 布の白は、まだ広い。
 増える、と女は言った。
 ——増えろ、と今は思う。
 数が増えれば、座らせる手が増える。
 真ん中に座るという技は、誰かが“やってみせる”と、すぐに真似される。
 笑いと礼のあいだで、街は自力でバランスを取り始める。

 古い声は今夜、何も言わない。
 若い声も、遠くで笑っているだけだ。
 代わりに、階段の下の紙が、胸の真ん中で静かに温もる。
 ——おそくなってごめん。
 遅れてきた言葉は、終わりの側でも始まりの側でもなく、ただ“いま”に座る。
 その一点があるだけで、針はぶれない。

 灯りを落とす。
 夜は布の裏側へ戻り、渡り糸が微かに光る。
 明日は、また一本。
 欠けを数える手と、戻りを縫う手が、同じ通りを行き交うだろう。
 ——それでいい。
 真ん中の針目は、いつだって“いっしょに”でしか通らないのだから。

しおり