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第7話 初めての喪失

 朝の針目は、昨夜よりも少しだけ粗く見える。
 細工町の祭りの余熱が、通りの石にまだ残っていた。紙灯籠の煤が指先に移る。笑いの側に寄せた縫い目は、夜が明けるとほんの少し緩むのだと、綾斗は初めて知った。

 ミナは窓辺で布を干し、工房の柱時計に短く目をやった。
「東の“風鈴坂”で、呼びがあった」
「礼の側?」
「たぶん、あいだ。——けれど、傾きやすい」

 風鈴坂は、夏の音でできている坂だ。
 家の庇ごとに違う音の風鈴が並び、風が吹くたび街の針目に涼しい音が縫い込まれる。
 その坂の中ほど、金具屋の老主人・道楽(どうら)さんが夜明け前に倒れた、と知らせが入った。器用で頑固、笑い縫いを教えた張本人のひとり。妻の澄江(すみえ)が駆け込んできたのだ。

「お願い、終わりを止めて」
 澄江の手は冷たかった。指には細い針の古傷が無数に走っている。
「昨夜まで一緒に笑ってたのよ。いつも通り、風鈴を外して磨いて、戻して……『また明日』だって。なのに、朝になったら、息が浅くて」
 “また明日”。
 赤い糸の言い方だ。
 約束は、終わりを先送りにもするし、正しい場所へ連れていく案内にもなる。

 坂の家に入ると、障子越しに風鈴の影が揺れていた。
 道楽は細い寝息を立て、胸だけが規則正しく上がり下がりしている。額には汗。唇は乾いて、言葉が外まで届かない。
 枕元には磨かれた風鈴が三つ。無色、青、薄金。
 澄江は泣かない。泣けない顔で、両手をひざに置いて座っていた。

「右でも左でもない針目で、いったん“座らせる”」
 ミナがささやき、白布を喉元へ軽くかざした。
「礼の側へ行きたがる呼吸を、ひと針だけ真ん中に止める」
 綾斗は瓶の芯(しん)から薄金を一本、白を一本選び、針に通した。薄金は約束を切らない芯、白は日常に戻る芯。
 一目、ふた目。——静かに座る。
 呼吸の波が、数えることのできる長さに整っていく。

 そのとき、玄関の風が重くなった。
 影の客だ。
 礼の側の気配を連れて、敷居の影に静かに立つ。
 昨夜よりも淡い。焦りはない。ただ、見守る。
 澄江は影を見ないふりをした。視界の端で、指が少しだけ震える。

「まだ、渡せない」
 綾斗が言うと、影はただ頷いたように見えた。
 頷きと同時に、廊下を挟んだ向かいの部屋の障子が、ひと筋だけ痩せた。
 ——裂き目の側の女が、いた。
 扇で頬を撫でるくせも、笑っていない目も、昨夜のまま。
「楽にしてあげればいいのに」
 扇の影が畳に落ちる。
「真ん中で足踏みさせるの、可哀想でしょう?」

 ミナが正面から女を見た。
「真ん中は足踏みじゃない。座って呼吸を整える場所よ」
「そう言っているうちに、布は擦れるの。ほら、お皿みたいに薄い人だもの」
 女は道楽の胸元に視線だけを落とし、愉快そうに目を細めた。
「あなたたち、上手くやってるわ。笑いも礼も、真ん中も。でもね、欠けを数える仕事をしている人間から見ると——」
 扇が、ことん、と膝に触れて止まる。
「——終わりは、早いほど綺麗なのよ」

 綾斗は、あえて女から視線を外した。
 視界の中心に置くべきなのは、布と呼吸と、針先の温度だ。
 喉の白布に、鎖綴じを一目足す。
 道楽の胸が、少し楽になる。
 澄江が、息を合わせる。
 影の客は、何も言わない。

 風鈴が、外で鳴った。
 薄金の音。
 澄江の背が、わずかに震えた。
「……あの音は、あの夏の音だわ」
「いつの夏?」
 ミナの問いに、澄江は戸惑うように笑った。
「取れない夏。——私たち、いちど“取れなかった”のよ」

 言葉の形が異質だった。
 この街の言い回し。
 一度、街がほどけた夜のことを、誰かが柔らかく言い換えるときの言葉。
 取れなかった夏。
 綾斗の胸の真ん中に、古い痛みが走る。
 白い階段の下で読めなかった手紙の、空白の縁が熱を帯びる。

「——あなたが、針を渡してくれた人?」
 澄江の視線が綾斗に向いた。
 謝るような、礼を言うような、どちらも選べない目。
「道楽が言ってたの。『大きな針が通った夜、おれは笑いの側へ戻れた』って。あなたの縫い目は、あのときの“真ん中”と同じ」

 古い声——オヤカタの声が、胸の中で短く鳴る。
 “針を渡すのは一度きりだ”。
 若い声が笑う。
 “でも、渡された針は巡る”。
 針は巡り、この坂に戻ってきた。

 喉の鎖綴じを整え終えたとき、道楽の目がひらき、視線が澄江を探した。
 唇がゆっくり開く。
「……また、明日」
 薄い声。けれど、形がはっきりしている。
 澄江が笑う。涙はまだ出ない。
「ええ、また明日」
 二人の間に、薄金の糸が一本、静かに渡った。

 その瞬間、廊下にいた女が小さく肩をすくめた。
「楽にしてあげるタイミング、逃したわね」
 ミナの横顔は動かない。
 女は扇を畳み、姿を撫で消すみたいに薄くなった。
 影の客だけが残る。
 澄江はようやく女のいた方向へ目を向け、薄く眉根を寄せた。
「いまのは?」
「裂き目の側の人」
 ミナが一息だけ置き、澄江に向き直る。
「“楽”は選んでいい。でも、誰のための“楽”かだけ、間違えないで。——あなたの“楽”が彼の“苦”になる夜が、ある」

 昼過ぎ。
 道楽は浅い眠りに入り、坂の風は涼しかった。
 綾斗たちは工房に戻り、茶を一口ずつ飲んだ。
 柱時計が二時を打つ。
 扉の鈴が鳴り、不意に通りの空気が凍った。
 ユウが飛び込んでくるのかと思ったが、違った。
 道楽の向かいの家の青年が、顔を蒼白にして立っていた。

「澄江さんが——」
 言葉が喉でつまる。
「坂の途中で、息が荒くなって、そのまま……」
 綾斗は立ち上がった。
 ミナも針山を掴んで走る。
 坂はさっきよりも急に見えた。
 風鈴の音が重なり、どの家の音か分からない。
 澄江は、道端の石に寄りかかっていた。胸が小刻みに揺れる。目は開いているが、見ようとしない目だ。

「礼の側に寄りすぎた」
 ミナが短く言う。
 綾斗は瓶から“灰”の芯を一本選び、白布を喉にそっとかざした。
 灰は曖昧の芯。日常でも礼でもない、薄い橋をつくる芯だ。
 一目、ふた目——
 澄江の呼吸が、いったん戻る。
 けれど、目は遠い。
「道楽、道楽……」
 名を呼ぶ声が、布に刺さらない。
 針が布の表をなぞるだけで、裏へ抜けていかない感じ。
 縫えるのに、縫えない。
 真ん中の橋が、踏み出す足を拒む。

 影の客が、風鈴の影の下に立っていた。
 午前より近い。
 礼の側は、夜を待たないことがある。
 道楽の声は聞こえない。
 代わりに、風鈴が三つ、違う高さで鳴る。
 ——無色、青、薄金。
 薄金は先ほど渡した約束。
 無色は日常、青は祈り。
 澄江の胸の上で、それらが音にならずに擦れ合っている。

 裂き目の女が、坂の上に立っていた。
 声は出さない。
 扇の骨が、ぱちり、と一度だけ鳴る。
 欠けを数える目だ。
 “このまま楽に”。
 街のことばで、そう言っていた。

 ミナがわずかに首を振った。
「送るなら、いま。——あなたが針を抜くのよ」
 それが、澄江に向けたのか、綾斗に向けたのか、一瞬わからなかった。
 けれど、次の瞬間にはわかった。
 澄江が、唇を噛み、目を閉じて頷いたのだ。
「わたしが抜く」
 指先が震える。
 それでも、喉の布に添えた指は、美しい位置に置かれた。

 綾斗は、針を左へ向けた。
 “送る”針目。
 右目が深い自分の癖を、掌で押さえる。
 針は布の真ん中を掬い、礼の側へ浅く落ちる。
 一目、ふた目。
 影の客が、風の温度をひとつ分だけ下げる。
 三目目。
 澄江の呼吸が、すっと細くなって、そして——
 深く、長く、静かに抜けた。

 風鈴が、遅れて鳴った。
 青の音。
 祈りの高さだ。
 綾斗は針を止め、澄江の手をそっと下へ戻した。
 指はもう震えていない。
 ミナは布を外し、影の客に目をやった。
 影はたった一度だけ、確かに頭を垂れた。
 礼の間での挨拶。
 それから、風鈴坂の風へ溶けていった。

 ——喪失は、静かだった。
 声はなかった。
 涙も、最初の一滴までに長い時間がかかった。
 坂の上の女は、いつの間にか消えていた。
 残ったのは、薄い切り痕のような冷たさと、風鈴の音の位置が微かに変わったことだけ。

 夕方、工房に戻ると、コートの銀糸は長く進み、途中に短い“返し縫い”が一つ増えていた。
 その返しは、美しかった。
 けれど、指先に触れると、針の手が少しだけ痛んだ。
 初めての喪失の重さが、指の腹に残っている。

 ルイスが入ってきた。
 綴調帳を抱え、顔に疲れが出ている。
「風鈴坂は、紙に書けない音が多すぎる」
 半分、冗談。半分、本音。
 ミナが頷く。
「礼の側で“針を抜いた”記録、空白にして」
「もちろん」
 ルイスは筆を取らず、ただページの端を指で押し、凹みをひとつだけ付けた。
 ——針を抜いたのは、澄江。
 文字にしない凹みの署名。

 夜。
 針山は静かで、銀糸は呼吸を覚え直すように、間を開けて光った。
 綾斗は、仮輪を指先で転がしながら、白い階段の下の手紙の空白を思い出していた。
 “綾斗へ”の先に、言葉はなかった。
 抜いたのだ、誰かが。
 ——今日の澄江のように。
 針を抜くのは、誰かの終わりのためだけではない。
 残る者の暮らしのためにも、抜かれる。

「痛む?」
 ミナが訊いた。
「少し。指の腹の、返し縫いのところ」
「なら、いい縫い目」
 ミナは湯気の薄い茶を差し出した。
「痛みは、“ここにいた”という印よ。痛みがすぐ消える縫い目は、たいがいどこかを急いでいる」

 扉の鈴が、夜半にふっと鳴った。
 誰もいない。
 けれど、敷居に白い紙片が置かれていた。
『——針を止める勇気は、針を渡す勇気と同じ。』
 影の客の手か、白い階段の下からか。
 字はきれいで、角が立っていない。
 ミナがそれを読み上げ、柱時計の上に立てかけた。

 眠りに落ちる前、古い声と若い声が、もう喧しくはなかった。
 古い声は、静かに頷く。
 若い声は、遠くで笑っている。
 ——まだ、縫える。
 自分の声が、今度は誰にも重ならず、胸の真ん中にまっすぐ落ちた。

 朝になれば、坂の風鈴はまた鳴る。
 薄金、青、無色。
 どれも、昨日と少しだけ違う高さで。
 その“少し”を、街は暮らしの針で受け止める。
 初めての喪失は、街のどこにも派手なほつれを作らなかった。
 ただ、銀糸の道に短い返し目をひとつ——そして、真ん中を歩くための重さを、指にひとつ残した。

しおり