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第6話 細工町の笑い縫い

 細工町は、針の先に乗るほどの小さな工夫が、通りごとに光っている。
 木の玩具に、金具のきらめき、紙の剣。屋号の札はどれも手彫りで、文字の縁に指の跡が残っている。昼の光が白く強く、影が短い。短い影は、布の地の目をむき出しにするから、綻びも見えやすい。

 ——笑い声が、糸を浮かせる。

 路地の奥から弾けた笑いは、よく磨かれたガラス球みたいに転がってきて、石畳の目地でかすかに割れて薄い皺になる。皺は三つ。ルイスが言っていた「薄いほつれ」だ。悲鳴でも嘆きでもなく、軽い笑いが、布の軽さをさらに軽くして、縫い目が浮いてしまう。

「ここだよ」

 最初の皺の傍で、紙笛屋の老婆が手招きした。指先は細く、指ぬきの跡が硬く残っている。
「午前中から笑いっぱなしでね、紙が息をしすぎる。笛の音が裏返るたびに、壁の布が浮くよ」

 店の奥、壁に掛かった色紙の端が、呼吸みたいにわずかに揺れていた。揺れと皺の方向が一致している。
 綾斗は針入れを開き、ミナから渡された特別細い針を一本。瓶に入った糸の芯を、白ひと筋、灰ひと筋、薄金ひと筋——三本のうち、今日は白と灰を選ぶ。日常に寄りすぎないための芯(しん)だ。

「右でも左でもなく、真ん中を浅く。笑いは軽いから、深く縫うと裂ける」

 自分に言い聞かせるように呟き、皺の谷へ針先を落とす。
 一目。針は抵抗もなく入った。けれど、引けばすぐ沈む。
 ふた目。笑いが近づくと、縫い目がふっと浮く。
 三目。——だめだ、固定しない。笑いは呼吸する。呼吸に合わせて、縫い目が緩んでしまう。

「笑っていいのよ?」
 老婆の声が背から落ちる。
「笑いを止めるな。笑ったまま縫うのが“細工町のやり方”さ。むすっと縫えば、布のほうが怒るからね」

 綾斗は、肩の力を抜いた。
 針目の速さを半歩落として、呼気に合わせる。笑いの「は」と「ふ」のあいだで目をすくい、吐き切る直前で引く。
 呼吸の真ん中——。
 薄い鎖のような「笑い縫い」が、皺の上に等間隔で並び始めた。
 紙笛の音が、裏返らなくなる。
 色紙の端の呼吸が、眠った子どもの胸みたいに静かになる。

「いい手だねえ」

 老婆は目尻を皺で折りながら、壁から一枚の白紙を抜き、針先で「笑」と一目だけ印を刺した。
「礼は取らないよ。代わりにこれ。細工町の“笑い縫い”は、印をつけておく。次にほつれたら、印の上から軽く撫でればいい」

 外へ出ると、二つ目の皺が通りの真ん中にうっすら見えた。玩具屋の軒先、独楽(こま)を回す子どもたちの歓声が当たって、石の表面が波打つみたいに見える。
 その波の端に、薄い紙片が貼りついていた。
『——ここは、笑いの側。針を強くするな。』
 影の客の紙に似ている。でも、文字には遊びがある。角が丸い。
 紙をめくると、裏に淡墨で小さく「わらって」とだけあった。

 針を握る指が、ふっと軽くなる。
 笑いは敵じゃない。
 笑いは、縫い目の重さを減らす。
 重い布を持ち上げるときの補助輪みたいに、軽さが支える瞬間がある。

 綾斗は、独楽の軌跡を目で追い、皺の走る方向と交差するように、細い「橋」をかけた。
 一目ごとに、子どもの笑いが針目に通る。
 右でも左でもない、真ん中の浅い縫い。
 皺は薄くなり、やがて「遊び」の余白に変わった。
 針先に、独楽の風が一度だけ触れていった気がした。

 三つ目の皺は、細工町の外れ、金具屋と紙細工の店のあいだに落ちていた。
 そこは、人通りが少ない。笑いは薄いのに、皺だけが粘る。
 近づいた途端、胸の真ん中の縫い目が、わずかに疼いた。
 ——ここは、昔も縫った。

 皺の起点に、木の箱。蓋の裏に、小さく刻まれた文字。
『綾』
 綾斗の「綾」に似ているけれど、字の形が違う。古い。
 箱の中には、針金で作られた小さな輪。指輪ではない。布の端を仮止めする、仮輪(かりわ)。
 輪の合わせ目に、銀糸の痕が薄く通っていた。
 ——自分の針の癖だ。
 右の目が深く、左の目が浅い。
 たしかに、昔の自分がここで止めている。

「誰か待ってたんだ」

 声がした。
 振り向くと、鍛冶仕事の前掛けをした青年が立っている。肩幅が広く、手の甲は火の色。だが目は穏やかで、声の端に笑いがある。
「その箱、祖父さんのだよ。俺はトモ。祖父さんがよく言ってた。“綾の字を持った針の人が、いつか取りに来る”って」

 胸が鳴る。
 古い声と、若い声。
 昨夜、白い階段の下で聞いた二つの声が、現実の輪郭を得る。
「祖父さんの名は?」
「綴(とじ)太(た)。みんな“オヤカタ”って呼んでた」

 ——古い声は、オヤカタだ。
 “終わりは、お前が決めるものじゃない”と、言った人。
 若い声は、目の前の青年に混ざった別の誰か。
 いや、声の主は重なる。
 たぶん、同じ血の針目を持つ者の声だ。

「祖父さん、ある夜を境に急に老けた。笑わなくなった。でも、笑いが嫌いになったわけじゃない。笑いのあるほうへ針を向ける練習を、俺に教えた。——“重いほうに寄るな。笑いの真ん中をまっすぐ通せ”って」

 トモは仮輪を取り出し、光に透かして見せた。
「この輪、祖父さんが“綾の針の人”に預けられなかった唯一の道具だ。渡すよ。今、お前みたいな手が来たなら、それで足りる」

 仮輪は、笑い縫いの補助輪だった。
 皺の両端を一時的に留め、真ん中へ針を通す間、布に息をさせる。
 輪を置き、針を浅く落とす。
 一目、ふた目。
 笑いの薄い場所は、針目を拒まず、しかし定着もしない。
 輪が小さく息を吸い、吐く。
 吐き終わりで引く。
 三目目で、皺がほどけ、そこに細い遊歩道のような「余白」が現れる。
 トモが息をついた。
「祖父さんが見たがってた針目だ。——ありがとな」

 仮輪を返そうとすると、トモは首を振った。
「持っていけ。祖父さんの言いつけだ。“いつか綾の人が、笑いを真ん中で通す夜が来る。そのとき渡せ”って」

 仮輪の縁に、刻印がある。
『綴』と、もうひとつ、見覚えのある小さな点。
 胸の奥で、若い声が笑う。
 ——お前がやれ。
 その笑いは押しつけじゃない。背中を軽く押す、合図の笑いだ。



 細工町の三つの皺が落ち着くと、風の通りが一段階軽くなった。
 紙笛屋の氷砂糖、玩具屋の油、金具屋の金属音。日常の音の粒が、糸の表面に滲み込み、縫い目が深呼吸を覚えなおす。
 そのとき、通りの奥から、低い太鼓が一度だけ鳴った。
 祭りの合図だ。
 細工町の夏祭りは、笑いの側へ布を寄せる儀のひとつ。
 笑いが増えれば、また軽いほつれが出る。

 祭りは悪くない。むしろ必要だ。
 布は泣きだけで持たない。笑いがないと、重さに耐えきれず破れる。
 ただ、笑いの縫い方を知らないと、笑いは自分で自分をほどく。

 その夜。
 綾斗はミナと合流し、工房の前で祭りの列を見送った。
 紙灯籠の光が、針目を柔らかく浮かび上がらせる。
 ユウが姉と母の手を引いて通る。ミサの喉はすっかり落ち着き、名前を言うのに力が入り過ぎなくなっていた。
 ルイスも列の外から短く手を振る。肩に綴調帳を抱えている。今日は記録を取るのではなく、ただ笑うために。

「今日は“礼の側”の気配が薄い」
 ミナが空気を嗅ぐように言った。
「影の客は来ないだろう。笑いの側は、私たちの針で間に合う」

「白い階段の下に残した一目は?」
「今夜は触れない。礼の間では針を休める。影の紙は、あなたにも私にも宛てている」

 ミナは小さな紙片を取り出した。影の客が置いたものだ。
『——礼の間にて、欠けを数える者に注意せよ』
「欠けを増やして歩く人がいる。——笑いの側でも、礼の側でもない『裂き目』の側の人」

 裂き目。
 言葉は、針より鋭い。
 真ん中を通す縫い目が、切られることがある。

 太鼓が二度、三度と鳴り、通りの笑いがふくらむ。
 そのふくらみに合わせて、工房の壁がほんの少しだけ息をする。
 笑いは、悪いものじゃない。
 笑いの裏に、傷が潜んでいるだけだ。

 列の最後尾に、見知らぬ女がいた。
 顔は派手ではない。着物の柄も地味だ。けれど、歩幅が縫い目と合わない。布目に逆らう歩き方だ。
 女は工房の前で立ち止まり、綾斗の顔をまっすぐ見た。
「——針の人」
 そう呼ばれた瞬間、胸の真ん中の縫い目が、細く強く締まった。
 女の目は笑っていないのに、口が笑っている。
「礼の側で、欠けを数えるのは疲れたの。真ん中で笑いなさいよ。楽よ」

 ミナが半歩、前へ出た。
「ここで“楽”と言う人は、滅多にいない」
「言ってみただけ」
 女は扇で頬を撫で、列へ戻るふりをして、ひらりと消えた。
 足音も匂いも残らない。ただ、空気の裾に、薄い切り痕が残る。
 裂き目の側——。
 笑いと礼のあいだを切り離す手だ。

 祭りが遠ざかると、夜はゆっくりと厚みを戻した。
 柱時計が時を打つ。
 工房の机では、コートの銀糸がまた一目、前へ進んでいる。
 赤い仮輪を横に置くと、銀の道に短い影ができた。
 オヤカタの声が、遠くでひと度だけ響く。
 ——針を渡すのは、いつも一度きりだ。
 若い声が笑う。
 ——でも、渡された針は巡る。

「欠けを数える人、明日も来るわ」
 ミナが言う。
「笑いの側へ寄せてやれば、裂き目は自分で疲れる。礼の側へ押し返せば、欠けが増える。——真ん中で足を止めさせるのが、いちばん難しい」

「仮輪がある」
 綾斗は指で輪を転がす。
 輪は音を立てない。重さもない。
 なのに、心の重心がすっと整う。
「真ん中で息をさせる。足を止めるんじゃなく、歩幅を合わせる」

「それを“針の人”の言葉で言うなら?」
 ミナが少しだけ意地悪そうに笑う。
 綾斗は考え、夜気をひと口吸って答えた。
「——“笑え”」
 ミナは目を細め、頷いた。
「いい言葉。軽くて、真ん中に落ちる」

 窓の外で、紙灯籠の最後の灯が消えた。
 夜は、布の裏側へ戻り、渡り糸だけが微かに光った。
 影の客は来ない。
 代わりに、白い階段の下から、静かな水音の夢が届く。
 水はないはずなのに、音だけがある。
 ——そこに、たぶん、次の一本が眠っている。

 眠りに落ちる直前、胸の真ん中を通る光が、細く、しかし確かに強くなった。
 笑いの側で縫った目が、礼の側へ逃げず、日常の側に甘えず、真ん中に座っている。
 古い声が問う。
 ——まだ、縫うか。
 若い声が笑う。
 ——まだ、笑えるか。
 綾斗は、声に針を通す。
 「——まだ、縫える。まだ、笑える」

 返事は、胸の内側の縫い目にだけ、静かに縫いとめられた。

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