バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第5話 白い階段の下

 朝いちばんの光は、紙の匂いをいちばんよく立たせる。
 綾斗は、ミナが残した紙切れ——『図書館。地図の赤、北縁の先。——“白い階段の下”』を指先で確かめ、扉の鈴を軽く鳴らして通りへ出た。石畳の目地に残った夜気は薄く、湯気みたいにほどけていく。胸の真ん中を通る細い光は、眠りの間も途切れずに残っていた。

 図書館の扉を押すと、ルイスがもう鍵を開けていた。
「早いね」
「紙の匂いが、朝のほうが真っ直ぐ届くから」
 自分で言って、少しだけ可笑しくなる。そんな回りくどい言い方を、いつ覚えたのか。
 ルイスは笑って、カウンターの下から布張りの箱を出した。
「地図の続きと、関連する古文書。それから——“白い階段”の鍵代わりになったもの」

 箱の蓋を外すと、薄い冊子と、木の小箱が現れた。小箱には古い糸で「戻」の字が刺してある。
「この冊子は『綴調帳(とじしらべちょう)』。街の“綴じ直し”が起こったとき、司書が見たもの、聞いたこと、残せたことを記した記録だ。空白が多いけれど、空白の縁にだけインクが染みている」
 ルイスはページをめくり、指先で縁をなぞった。「白い階段」の語が、薄墨で浮いている。
『北縁の先/白い階段/下へ降りる/水のない水盤/糸の声あり』
「声、って?」
「読めた司書はほとんどいない。私は紙のほうが得意だからね」

 木の小箱は、親指ほどの鍵穴が付いていた。差し込む鍵はない。ただ、蓋の合わせ目に、ごく細い銀の線が通っている。
「鍵の形をした針でしか、開かない」
 ルイスがそう言いかけると、綾斗の指が先に動いた。
 針山から一本抜くときの要領で、空気の中に目に見えない糸の端を探る感覚——昨夜の“真ん中の縫い”が、指に残っている。
 細い呼吸をひとつ置いて、銀線の上へそっと針先を触れさせた。
 かすかに、鳴る。
 針受けに触れるような、清い音。銀の線が一目だけほどけ、小箱の蓋がわずかに跳ねた。

「開けた、ね」
 ルイスの声は誇らしげで、どこか安堵も混じっていた。
 小箱の中には、薄い針入れが一枚。色は白木。端に、赤い点が二つだけ打たれている。手に取ると、木肌が体温に馴染み、胸の奥の縫い目がそれに応えるみたいに、静かに伸びた。

「“白い階段の下”は、古い貯水槽だ。今は水がない。音がよく通る。——糸の声を拾うには向いている」
 ルイスは地図の上で指を走らせ、北縁通りの外れを示した。「ここから裏へ回る。気をつけて。階段は崩れていないが、足場が狭い」



 北縁の先は、街の縫い目の端縁(へり)の手触りがした。家々の背中が並び、庭の柵が低く、風が軽い。
 白い階段は、まるで紙を何枚も重ねて切ったように、角の落ちた段差を連ねていた。手すりはない。降り口に、薄く赤い印がある。誰かが指で、そっと触れて去ったような、色の薄さ。
 階段を降りる。靴底が石に触れる音が、遅れて腹に返ってくる。
 下は広い。床は浅い凹みになっていて、壁には古い目盛りが残っている。水のない水盤。
 中央に、丸い台がある。丸台の縁にも、赤い点が二つ。ルイスが言った通りだ。

 綾斗は木の針入れを台に置き、深く息を吸った。
 空気は乾いているのに、音だけ湿りを帯びている。ささやきが遠くから響く水路のように、細く、どこまでも続いている気配。
 耳を澄ませる——違う。耳ではなく、指先を。
 夜、真ん中を通したときの感覚で、右でも左でもない“あいだ”に指を置く。
 見えない糸が、そこにある。
 触れると、ひやりと少し温かい。
 引こうとして、やめた。引く強さが、まだ決まっていない。

 声が落ちてきた。
 水面がないのに、波紋みたいに広がる声。
 ——おい。
 若くて、強い。笑っている声。
 ——お前がやれ。
 昨夜の夢の続きか。
 続いて、落ち着いた低い声。
 ——終わりは、お前が決めるものじゃない。
 古い、懐かしい、芯のある声。
 針を渡したり、針を止めたりする、あの声。
 心臓の鼓動が、縫い目を叩いた。

 丸台の上で、木の針入れがわずかに動いた。
 蓋の合わせ目に、紙切れが挟まっているのに気づく。
 引き抜くと、薄い紙に手書きの字。ところどころ滲み、ところどころ掠れている。
『——綾斗へ』
 見た瞬間、喉の奥が痛んだ。
 呼びかけの一行だけが、はっきりと残り、以降は空白と滲みで読めない。
 空白の縁を指でなぞると、指先に微かな熱が移る。
 それは欠落ではなく、“抜いた”痕だ。
 ここに、たしかに言葉があった。けれど、誰かが自分の手で針を抜いた。

 階段の上方で、空気がひとすじ縮む。
 影の客が、降り口に立っていた。
 今夜のそれは、昨夜よりも輪郭が薄く、しかし“視線”だけ濃い。
 敵意はない。焦りも薄い。ただ、確認するように、こちらの手元と紙切れを見ている。

「今、縫い戻したら、ここが歪む」
 自分の口が自分の意思より少し先に言った。
 影は、微かに頷いたようにも見えた。
 ——“今”は、縫わない。
 その合意が、空気の中に小さく結ばれた。

 丸台の縁、赤い点のそばに、ごく細い銀の線が走っている。
 夜の工房で見る銀糸よりも浅く、淡い。
 綾斗は針を構え、銀の線の“手前”にそっと針先を置いた。
 縫うのではない。触れるだけ。
 銀の線は、触れられるのを待っていたみたいに、わずかに明るさを増した。
 そこに、赤い点——“約束”の糸を短く渡す。
 右でも左でもない、真ん中の一目だけ。
 ほどけないように、でも、ほどけられるように。

 音がした。
 遠くの井戸に一滴落ちるような、清く軽い音。
 白い階段の下、見えない布に、ひとつだけ小さな目が増えた。
 影の客がふっと軽くなり、正面を避けるように背を向ける。
 去り際、床に薄い紙片が落ちた。
『——礼の間では、針を休めよ』
 ルイスの古文書で見た言い回しだ。礼(らい)の側に寄り過ぎるな、という忠告。

 綾斗は木の針入れと紙切れを胸に当て、一度だけ深呼吸した。
 空白は埋めない。
 道筋だけ、残す。
 抜いたのが自分なら、抜いた理由もまた、自分の中にある。
 それを思うと、不思議と肩の力が抜けた。



 図書館へ戻ると、ルイスは『綴調帳』の別の束を机に広げて待っていた。
「読めたかい?」
「“聞こえた”。そして、“触れた”。——これは俺宛ての手紙だ」
 ルイスの目が、眼鏡の奥で細くなる。
「やはり、そうか」
 綾斗は、白い階段で見たものをかいつまんで語った。紙切れをそっと差し出す。『——綾斗へ』の文字は、ルイスの指先にも重たく乗った。

「空白は、消されたのではなく“抜かれて”いる」
「うん。君が言うなら、そうだろう」
 ルイスは頷き、綴調帳の別ページを開いた。
 そこには、街の“戻り目”の記録がある。
 縫い戻しの始点と終点、糸の撚り、針目、見届けた者の署名——最後の欄だけ、いつも空白だ。
「署名欄が空白のままなのは、司書の怠慢じゃない。針が大きすぎると、誰の名前でも足りないからだ。名前は杭だ。杭は、時に布を裂く」
「ミナもそう言った」
「彼女は言葉を節約するが、骨は正確だ」

 ルイスは机の端に置いてあった、細いガラス瓶を綾斗に渡した。瓶の中には、色の違う糸が三本。白、灰、薄い金。
「“礼の側”に寄り過ぎないための芯。糸に芯を通すと、針目がそこへ寄りにくくなる。君は真ん中を選べるが、選び続けるには“芯”が要る」
 綾斗は瓶を受け取り、指の腹で軽く転がした。
 白は日常、灰は曖昧、薄金は約束——直感だけれど、糸はそう名乗っている。

「もうひとつある」
 ルイスは声を落とした。
「“白い階段の下”は、いずれ礼の側に大きく傾くだろう。水はしばらく戻らないが、人の出入りが増える。——君が針を置いたら、他の手も、置きに来るからだ」
「集まる」
「うん。良くも悪くも。だから『礼の間では、針を休めよ』。真ん中で渡した一本が、集まる針の重さで切れないように、ね」

 ルイスは綴調帳の最後のページをゆっくり開いた。
 紙は新しい。空白だ。
 けれど、よく見ると、消えた筆跡の“押し傷”だけがある。
 行の初めに、くっきりとした凹みがひとつ。
 ルイスは紙を斜めに傾け、窓の光で凹みを読む。
「ここに、たぶん、君の名前があった」
「……なぜ、わかる」
「紙は、書き手の呼吸を覚えるから。書いたのが君なら、読めるのも君だ」

 綾斗は息を整え、指で凹みをなぞった。
 肺に入った光が、真ん中の縫い目にそっと触れる。
 喉の奥で、古い声が言う——
 “名は杭だ。杭が折れると、布は裂ける”。
 若い声が笑う——
 “だったら杭ごと縫い直せ。杭を糸に変えて渡せ”。
 ふたつの声が重なるところで、心の中の誰かが呼んだ。
 ——綾斗。
 今度は、痛くなかった。



 工房へ戻ると、ミナは窓辺で糸をほぐしていた。
 コートの裏地の銀糸は、また一目だけ進み、その先に微かな“返し”が入っている。
「白い階段の下、行ったのね」
「木の針入れと手紙。俺宛ての」
 ミナはうなずき、針先で銀糸の返し目を軽く叩いた。
「戻り目を自分に返してきた。上手だった。礼の側へ寄らず、日常の側へも傾かず、真ん中を渡す癖は——やっぱりあなたのもの」

「影の客は、今夜は止めなかった」
「止めない夜もある。彼らは“終わらせるために来る”けれど、“終わりを急がせるために来る”わけじゃない。——そこを、あなたはわかってる」

 ミナは、昼前に受けたらしい町の修繕の依頼書を束ね、机の端へ寄せた。
「午後は縫い仕事が続く。合間に、ミサのところへ糸をもう一度渡して。喉の縫い目は一度で足りることもあるけれど、言葉は暮らしで擦れていくから」
「行くよ。ユウの糸も返す」
「あなたの糸も、少し、ほどいておきなさい」
 ミナは冗談めかして言い、すぐに真面目な声に戻した。
「“綴調帳”の空白を埋めようとしないこと。——埋めるのは、暮らしだ」

 そのとき、工房の扉が叩かれた。
 昼の光を背負って、ルイスが入ってくる。珍しい。
「いい報せと、悪い報せ」
 彼は眼鏡を外し、指で鼻梁を押さえた。
「いいほうから。『白い階段の下』の古い出入口、役所が一時封鎖にした。礼の側に寄らせないための配慮だ」
「悪いほうは?」
「街の東側——“細工町”で、薄いほつれが三つ、同時に出ている。紙の端で指を切るみたいな、軽いけれど嫌なやつだ。終い糸が引き寄せるタイプじゃない。日常のほうから、勝手に出ている」
 ミナは顎に手を当てた。
「右側(日常)からのほつれは、扱いが難しい。——笑い声のほうから裂ける」
「君ならそう言うと思った」
 ルイスは綴調帳の新しいページを机に置いた。
「“笑い”は軽いから、綴じが甘くなりがちだ。影の客は来ないかもしれない。君たちが行くべきだ」

 綾斗は針入れを握った。
 胸の真ん中を通る光が、少しだけ濃くなる。
 右でも左でもない、真ん中の針目を、笑いと悲しみの“あいだ”に通す——そんな仕事なら、今の自分の手でも届く気がした。

「行ってくる」
「気をつけて。——礼の側に寄らず、日常の側に甘えず」
 ミナは短く言い、針山から二本、特別細い針を抜いて渡した。
「“笑い”は布を軽くする。軽い布は、強い針で裂ける。細く、浅く、しかし確かに——真ん中を」

 扉の鈴が鳴る。
 夏へ傾く昼の光は白く、街の針目を短く見せた。
 綾斗は、細工町へ向かって歩き出す。
 角を曲がるたび、誰かの笑い声が風にほぐれ、誰かのため息が影の底に沈む。
 地図の赤は今日も静かに紙の上で眠っているが、街の糸は眠らない。
 “まだ、一本。”
 白い階段で拾った言葉は、脅しでも催促でもなく、街を生かすための合図だ。
 一本ずつ、真ん中へ渡していく。
 そう決めた手は、たぶん昔から、自分のものだった。

しおり