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第4話 影の客、訪う夜

 夜は、布の裏側だ。
 表で見えていた模様は静まり、縫い糸の結び目や渡り糸が、月の光にだけ微かに浮かぶ。
 ミナの工房には、ひとつだけ灯りが点っている。黄味の弱い明かりが、机の上で針先を丸く光らせる。綾斗は、昼間の少年——ユウと名乗った——が持ってきた報せの続きを待っていた。

「姉ちゃん、名前が言えないって……あれから、どう?」
 ミナが静かに問う。
 ユウは頷いた。泣き腫らした目の赤みは引き、代わりに決意の色が宿っている。
「喉まで来てるのに、声にならない。母ちゃんが何度も呼びかけたけど、姉ちゃん、口が止まっちゃう」
「なら、今夜は“言葉”を縫う」
 ミナは針山から、細く短い針を一本抜いた。
「右でも左でもない針目よ。——真ん中(まんかな)を通す」

「まん、なか?」
 ユウが首を傾げる。
 ミナは白い紙に、縫い目の図を素早く描いた。
「右は残す。左は送る。でも“言葉”は、どちらにも偏ると滑る。名前は人の真ん中に結ばれる糸。だから、真ん中を通す針目を使う」
 図には、小さな鎖のような縫い方が並んでいた。縫い糸が布の厚みの真中をゆく。
「この縫い目は“綴じ”に似ている。はがれそうなページを無理に糊で貼るんじゃなく、真中でゆるく『ここにいる』と止め直す」

 綾斗は、銀糸の端を手にした。
 糸の温度は、夜ほどは低くない。昼間、赤い糸と触れた余韻が微かに残っている気がした。
「言葉は、誰の声で縫う?」
「できれば、その人自身の声。無理なら、いちばん近い人。——今日は、ユウの声だね」

 ミサの家は、工房から北へ二つ通りを曲がった場所だった。
 玄関先の木枠はよく磨かれ、白い布が扉脇にかかっている。布には日常の刺繍が施してあった。湯気、湯飲み、パン、雲。生活の形をひと針ずつ縫いとめた、温かな布だ。

 部屋に通されると、ベッドの上にミサがいた。
 顔色はよく、目もはっきりしている。けれど、喉仏の上で言葉が止まるたび、肩先が小刻みに震えた。
「来てくれて、ありがとう」
 母親が頭を下げる。
「名を呼んでやると、笑うの。でも、自分で言おうとすると——」

「喉に、ひと針、足りてないのよ」
 ミナが穏やかに言って、ベッド脇に座った。
「ユウ、あなたの声を貸して。短い言葉でいい。“姉ちゃん”じゃだめ。——“ミサ”を」

 ユウは一度息を整え、ベッド脇に立った。
「ミサ」
 音は短いのに、温度があった。
 その音が部屋の中央に落ちると、床の目地に水が染みるみたいに、空気がすこし柔らかくなる。
 ミナが合図をする。綾斗は、喉元へかざした白い布に針を落とした。布は肌に触れない。けれど、音に触れる。
 一目、ふた目。鎖のように、真ん中を通す縫い目が続く。
 ユウの「ミサ」が、針目に吸い込まれていく。

 ミサの喉が、わずかに震えた。
 目が綾斗を見た。
 そして——
「……ミサ」
 小さな声。
 名前は、たしかに喉を通り、唇の形になった。
 母親の指が口元を押さえ、目の縁が濡れる。ユウは声にならない笑いを漏らした。
 ミサはもう一度、ゆっくりと言ってみせる。
「ミサです」
 ことばは、布に針を降ろすみたいに、落ち着いて着地した。

 ミナは針を抜き、縫い目の端を指で押さえた。
「大丈夫。あとは日常が縫いとめてくれる」
 ミサの目が、礼を言う代わりに静かに笑った。
 帰り際、ミサは枕元から小さな缶を出し、ミナに手渡した。
「これ、あなたに預ける。昔、わたしが縫った試し布。……糸が足りない人がいたら使って」
 缶の中には、細い赤糸と白糸が少量巻かれていた。見慣れない撚り方の糸だ。指で触れると、冷たいのに柔らかい。

 外へ出ると、夜気の重さが肩に乗った。
 工房までの道すがら、ミナが言う。
「名を縫いとめるのは危険もあるの。名前は“ここにいる”という杭だから。場所を違えると、杭が布を裂く」
「今日は合ってた?」
「合ってた。ユウの声が、針の場所を教えた」

 工房の前まで戻ったとき、通りの風が急に止み、レースが鳴らずに揺れた。
 扉の鈴は鳴らなかった。
 それでも、来たのがわかった。
 影の客。
 今夜は、最初から工房の中にいるような気配で、暗がりが部屋の輪郭を柔らかく歪めていた。

 ミナは灯りをひとつ落とし、机の上にコートを広げた。
 裏地の銀糸は、二目ほど進み、その先がわずかに二手に割れている。
「今夜は“話す”みたい」
 ミナが呟く。
 影は、机の向こう側にじっと立ち、銀糸の分岐を見つめている——ように感じられた。

 綾斗は、影に向かって口を開いた。
「今夜は渡せない。まだ、針目を決めていないから」
 影は、すこし濃くなった。否定でも肯定でもない。
 ミナが針を一本、影のほうに持ち上げるように掲げた。
「教えて。あなたは、どちらの付き人?」
 返事はない。
 ただ、銀糸の分岐の片方に、ゆっくりと薄い気配が沿った。
 もう片方には、熱の気配。微かな体温の残り火のような。

「二つの終わりがある」
 ミナが結論だけを置く。
「一本は“送る”ための終わり。もう一本は“残す”ための終わり」
「二本とも、同じコートに?」
「そう。珍しいが、不可能じゃない。——綾斗、あなたは、どちらも縫ったことがある」

 胸の奥がわずかに鳴った。
 肯定の音。それとも、思い出しかけた記憶の音か。
「俺が?」
「銀糸の引きの癖。右目は深く、左目は浅い。両方の癖が同じ手のもの」
 ミナは針先で、分岐のすぐ手前をそっとなぞった。
「ここで一度、針が変わってる。——あなたが変えた。あるいは、変えさせられた」

 影の客が、机の端に手を置いた——ように見えた。
 存在感が、ほんの少し実体に寄る。
 冷たくはない。あたたかくもない。温度のない温もり。
 綾斗は、ゆっくりとコートに手を伸ばし、裂け目を開いた。
 銀糸のすぐそばに、細い赤糸が一本、紛れ込んでいる。昼間の赤い糸と、撚りが違う。けれど、意味は似ていた。
「帰る約束の糸」
 口が、勝手に言った。
 綾斗は、自分の声ではない響きを、喉の奥に感じた。

 ミナは、缶からミサの赤糸を一寸だけ出し、机の上に置いた。
「一本、足りない、と紙は言った。たぶん、それをここに通す」
「どっちへ?」
「真ん中」

 ミナは一呼吸おき、綾斗の手に針を渡した。
「あなたが縫う。——でも、聞きなさい。右に寄りすぎれば、終わりが終わらない。左に寄りすぎれば、街が削れる。真ん中を通すときは、誰のための終わりかを、はっきりさせるの」

 影の気配が、わずかに近づく。
 工房の柱時計が、正時をひとつ打った。
 綾斗は、針の穴に赤糸を通し、銀糸の分岐の根元に針先を置いた。
 目を閉じる。
 指の記憶が、自分よりも先に動こうとするのを、すこしだけ待つ。
 頭の中に、ふたつの路が見えた。
 右は、笑い声と湯気。朝のパン。
 左は、冷たい水と祈り。静かな礼の間。
 真ん中は、薄い橋。片側が落ちても落ちなくてもいいような、危うい幅。

 針先が、橋の上へ落ちた。
 一目、ふた目。
 布は拒まない。
 影の客は、動かない。
 三目目を落とすとき、胸の奥に、はっきりと重い音がした。
 ——誰かが、自分の名を呼ぶ。
 低く、やさしく、古い声。
 そして、別の声がそれに重なる。
 ——若い、強い声。「お前がやれ」と笑っている。
 顔は見えない。けれど、自分の手が、その声を知っている。

 針が、ひとりでに止まった。
 指先が熱を帯びる。
 綾斗は、思い切って目を開いた。
 銀糸の分岐の根元に、赤い縫い目が三つ、静かに座っている。
 分岐は、ゆっくりとほどけ、代わりに一本の滑らかな道になり始めた。
 真ん中に赤、左右に銀。
 右と左が、赤い言葉でゆるく橋渡しされる。

 影の客が、初めて明確に動いた。
 机の向こうから一歩、下がり、微かに頭を垂れるように見えた。
 それは感謝か、同意か、あるいは単なる合図か。
 扉の方の影が薄まり、レースがやっと音を立てた。
 影は、夜気といっしょに外へ流れていった。

 静けさの中で、ミナが小さく息を吐いた。
「……通った」
 綾斗は、針を置き、両手を膝に置いた。
 全身がほどよく疲れている。走ったわけでも、戦ったわけでもないのに、骨がわずかに軽くなったみたいだ。
「今の声、聞こえた?」
 ミナが尋ねる。
「少し。二つ。古い声と、若い声」
「どちらも、あなたの糸の側にいる声よ」

「俺の……側」
 言いながら、胸の奥で何かがきしんだ。
 思い出しそうで、思い出せない。
 名前のない部屋のドアに手をかけて、ノブが回る直前に目が覚める夢のようだ。

 そのとき、工房の扉が小さく叩かれた。
 ユウだ。息は上がっていない。
「姉ちゃん、眠った。安心して眠ったんだ。……ありがとう」
 彼は深く頭を下げ、それから顔を上げた。
「姉ちゃん、目を閉じる前に言ったよ。“またね”って。前みたいに」

 ミナは微笑み、缶から白糸を少し出して、ユウの手に巻いた。
「何か困ったら、この糸を一目だけ縫って。誰かが気づく仕組みになってる。——ただし、ほんとうに困ったときだけ」

 ユウが帰ると、工房には再び夜の音が戻った。
 柱時計の振り子、針山の金属、遠くの井戸に落ちるしずく。
 綾斗は、机の上のコートを見つめた。
 裏地の銀糸は、分岐を失い、真っ直ぐに続いている。
 その少し手前に、わずかな“段差”がある。
 そこが、針が変わった場所。
 そこに、昔の自分の指があるような気がした。

「ルイスの地図に、もう一本の赤があるはず」
 ミナが言う。
「“まだ、一本。”そう紙片は言った。今夜は通れないけれど、痕跡は残る。明日、図書館へ」

 頷きかけた綾斗に、ミナは少しだけ表情を曇らせた。
「それと、もう一つ。……あなた、たぶんこの街を一度、編み直してる」
 空気が、薄くなった。
 言葉は淡々としているのに、内側に火種がある。
「記録は空白だらけ。でも、針目の癖が同じ。街の縁(へり)に残った“戻り目”は、あなたの今夜の真ん中とよく似てる」

「じゃあ、俺は——」
「英雄でも、犯人でもない。“針”よ。大きな針」
 ミナは椅子の背にもたれ、視線を下げた。
「大きな破れが出たとき、誰かが一気に渡さなきゃ、布は二度と織れない。あなたは渡した。代償に、自分の縫い目がほどけた」

 納得より先に、妙な安堵が来た。
 誰かに断言してもらいたかった答えではないのに、胸のどこかが「そうか」と受け入れている。
 針を持つ手が、その話を知っているのだ。
 忘れているのは、言葉のほう。

 ミナは立ち上がり、窓の鍵をかけた。
「今夜はここまで。眠りなさい。夜は縫い目にやさしいけど、眠らない針は錆びる」
「ミナは?」
「私は少しだけ記録をつける。紙に残せるものは残す。空白にばかり頼っても、針は鈍る」

 工房の奥にある仮眠用の小部屋で横になると、天井の節が星座に見えた。
 目を閉じる。
 暗闇の奥で、二つの声がまた重なる。
 古い声が言う——「終わりは、お前が決めるものじゃない」
 若い声が笑う——「だからこそ、針を渡すのはお前だ」
 その間に、ひとつの呼び声。
 ——綾斗。
 はっきりと、名前を呼ばれた。
 夢なのに、夢ではない重さで、胸に落ちた。

 朝に近い薄明かりの中で目を開けると、工房の机の上、コートの銀糸は、さらに一目だけ進んでいた。
 夜の間に誰かが縫ったのか。
 針は針山に揃っている。
 ミナは、小さな紙切れを置いていた。

『図書館。地図の赤、北縁の先。——“白い階段の下”。』

 まだ一本は、そこにある。
 影の客は、今夜は来ないかもしれない。
 けれど、名前のない声は、昼でも夜でも、糸の真ん中を通って届く。
 綾斗は起き上がり、肩にコートをかけた。まだ人の匂いの薄い朝の工房は、糊と紙の匂いが濃い。
 扉の鈴が、夜の残り香を振り払うみたいに、軽く鳴った。

 街は、縫い目の表側を取り戻しつつあった。
 どの店先にも短い朝の挨拶が渡り、白い湯気が上がる。
 綾斗は歩きながら、胸の内側に手を当てた。
 そこに糸はない。
 でも、縫い目はある。
 右でも左でもない、真ん中を通ったばかりの細い光が、体の真ん中に一本走っているのを、たしかに感じた。

しおり