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第3話 赤い糸の行方

 昼の光は、針を短く見せる。
 ミナの工房の机に、銀糸の先がちょこんと出ていた。昨夜より、ほんの一目ぶんだけ前へ進んでいる。わずか一目の差なのに、そこに風が通るように胸の呼吸が楽になった。

「図書館に行くといい」
 ミナは糸巻きを片づけながら言った。
「街の古い記録に、“編み替え”の痕が残っている。私が語るより、紙が語るほうが、あなたの針に素直だと思う」

「ルイス、という司書さんが?」
「話が早い。くせのない人よ。紙にだけ、くせがある」

 工房を出ると、昼下がりの通りは、朝よりも色が薄かった。洗い立ての布が乾いて、白さに青が混じる。石畳の目地に溜まった水は消え、代わりに黒い糸のような影が伸びている。空気は馴染むが、土地勘はまだない。自分の足がこの街の縫い目にぴったりはまる感覚と、「ここではないどこか」の懐かしさが、同時に残っている。

 図書館は、小学校の音楽室みたいな匂いがした。木と紙と、微かなインク。
 出迎えたのは、やや背の高い男だった。淡い色のシャツに、ひび割れの少ない眼鏡。笑い方が、紙の端を指で揃えるように整っている。
「ルイスだ。ミナから聞いている。銀糸と、未完のコートと、影の客」

「綾斗です」
「君の手、針だこがない。なのに昨夜、よく縫えたそうだね。面白い」

 ルイスはカウンター越しに鍵を持ち、奥の書庫へ案内した。
「一般閲覧の棚にはない。——痕跡は、隠しておかないとね」
 冷たい廊下を抜け、重たい扉を開ける。乾いた風が顔に当たった。紙が眠っている風だ。

「この街の地図の原本だよ」
 長机に広げられたのは、刺繍の下書きみたいな地図だった。細い線は全て手で引かれ、そこかしこに糸目のような微細な点が続いている。インクは黒、ところどころに赤。

「この赤は?」
「ほどき跡——のはずだった。最初はね」
 ルイスは指先で赤線を辿る。
「昔、この街は一度、夜に沈んだ。音のない夜だった。翌朝、通りの配列が違っていたり、家々の間取りが少しだけ縫い替えられていた。人の記憶も、かなりの割合で“縫い目を跨いで”変わっていた」

「跨ぐ?」
「断ち切らず、少しだけまたいで繋ぐ。完全な喪失ではなく、誤差のような改変。だからこそ、気づく者と気づかない者が分かれた」

 ルイスは別の紙束を広げた。古文書の写しだ。
『終い糸は、生者の記憶に触れない。触れ得るは、受け手が“針を抜く覚悟”を持てるときのみ』
 薄い墨でそう書かれている。
「それでも起きた。生者の記憶に、銀糸の縫い目が走った。——例外は、編み替えが大きすぎた時だ」

「誰が編み替えたんですか」
「それがね、紙は曖昧なんだ。名前が全部、空白にされている」

 ルイスは眼鏡を外し、布で拭いた。
「ミナは言葉を節約する人だ。彼女が“紙を見ろ”と言ったなら、君は紙から針を受け取れる。——怖くないかい?」

 怖い、はずだ。
 けれど、胸の中心は静かだった。怖さは皮膚の表面を走り、指先の神経を鋭敏にするだけで、中身の重さは変わらない。
「怖いです。でも、決めたら縫います」

 ルイスは満足そうに頷き、机の端から箱を取り出した。
「赤い糸の封筒。地図に描かれた赤線に対応する、現地の“ほどき跡”の記録。——今日、一本、君に渡せる」

 封筒には小さな赤糸の切れ端が封入され、メモが添えてある。
『旧・北縁(きたべり)通り/路地の突当り/白い木戸/午後四時』
「この時刻、この場所で、何度も赤が“再縫合”された」

「再縫合?」
「ほつれを結びなおすこと。誰かがそこへ通い、見えない縫い目を作った。——その針目が、銀糸を嫌わない」

 午後四時。時計を見る。まだ時間はある。
 地図の赤線は、工房のある通りから、北へ白い糸のように細く伸び、途中で何度か結び目を作っている。まるで、誰かが歩いた道のように。

「もう一つ、教えて」
 綾斗はルイスに向き直った。
「右へ縫うか左へ縫うかで、何が変わるんです?」

「右へ縫うと、“残す”。左へ縫うと、“送る”。」
 ルイスは迷いなく答えた。
「右は日常の側、左は礼(らい)の側。——礼は“礼儀”の礼であり、“弔い”の礼でもある」

 針目の向き。
 昨夜、自分はどちらへ縫っただろう。
 思い返す。針は右から左へ、左から右へ。迷いながら、結局最後の直前で右へ落とした気がする。だから影の客は帰ったのだろうか。

 図書館を出ると、日差しは斜めになっていた。午後の空は淡い。白い布の乾ききった匂いがする。
 旧・北縁通りは、工房から見て北へ折れた先の静かな並びだった。店も看板もなく、家と家の間に細い隙間が規則正しく続いている。路地の突当りには、確かに白い木戸があった。古いが、汚れていない。手入れをする手が、ずっとあるのだ。

 木戸の前に立つ。
 午後四時まで、あと十分。
 張り詰めた沈黙が、糸を張る指の気配に似てくる。

 五分前、足音がした。
 振り返る。
 誰もいない。
 けれど、糸巻きが床に落ちたような小さな音が、確かにした。

 木戸の向こうから、風が動いた。
 次いで、誰かの囁き声。
 ——「またね」

 心臓が触れた。
 昨日の言葉。あの刺繍の、裏返しに縫われた文字。
 綾斗は木戸に手をかけ、押した。鍵はかかっていない。開いた先は、思っていたよりも広い中庭だった。石と苔と、浅い水面。
 そして、紐を渡したように細く延びる赤い糸が一筋、地面の上に見えた。

 赤い糸は、風で揺れない。
 人の気配で揺れる。
 見えない誰かが、その先にいる。

「ミサ?」
 声は、返らなかった。
 けれど、赤い糸はわずかに持ち上がり、先端が水面に触れた。波紋が広がる。
 綾斗はしゃがみ、糸の端に指を添えた。温度はない。だが、抵抗がある。引けば、向こう側からも引かれる。
 針を通す、あの手応え。

「帰ろう」
 誰に向けたともなく言った。
 糸が、一瞬、強く引かれた。
 同時に、背後の木戸がぴしりと鳴った。
 影の客だ、と直感する。気配が濃い。昨日よりも、近い。
 振り向くと、木戸のきわに真昼の影が立っていた。姿はない。けれど、目があるような感じがする。焦りと、怒りと、寂しさが、同じ温度で並んでいる。

 綾斗は立ち上がり、糸を握った。
「礼の側へは、まだ縫わない」
 右へ縫う、と自分に言い聞かせる。残すための針目を、糸に沿わせる。
 影の客は、少しだけ輪郭を濃くした。
 ここで逃げれば、影は糸の先を攫う。
 逃げなければ、向こう側の誰かが、帰る道を見失わない。

 木戸の外から、もう一つの足音がした。
 ミナだった。息は上がっていない。だが、目の奥が熱い。
「間に合った」
 彼女は糸を見た。赤い糸の先、見えない向こう側。
「そこは“縫い目の薄い場所”。——行き来が起こる。あなたがそこに立てば、針目が決まる」

「ミサですか」
「かもしれないし、違う人かもしれない。赤い糸は“帰る約束”の色」
 ミナは影に目を向けた。
「あなたは、どちらの付き人?」
 影は答えない。けれど、木戸の影がわずかに伸びる。
 ミナは綾斗の手を支えた。
「右へ。いまは右へ」

 綾斗は頷き、糸を引いた。
 赤い糸は、手に吸いつくように寄ってくる。
 一目、ふた目。
 視界の端に、白いワンピースが翻った気がした。
 風の色。笑い声。草の匂い。

 糸が近づくほど、影が濃くなる。
 足元の石が少し冷え、指先の温度が奪われる。
 でも、怖くない。
 なぜなら、糸の向こうで誰かが、確かに息をしている。
 ——「またね」じゃない。
 ——「ただいま」と言える距離だ。

 最後の一目の前で、糸が硬くなった。
 向こうの躊躇いが、こちらの指に伝わる。
 綾斗は深く息を吸い、糸に乗せる言葉を探した。
 たぶん、これまでに何度も言ってきた台詞。自分が忘れてしまった言葉。
「終わりは、あなたのものだ。針を抜くのも、あなた」
 声が、糸の中へ落ちていく。
 硬さが、ほどけた。
 最後の一目が、こちらへ滑り込む。

 赤い糸の端が、綾斗の手のひらに落ちた。
 その瞬間、木戸の影がふっと軽くなり、庭の空気が夏目のように柔らかくたわんだ。
 背後で、影の客が一歩、下がる。
 ミナは肩の力を抜いた。
「帰ってきた」

 目には何も見えない。
 けれど、確かに、誰かがこの街の縫い目へ戻ってきた。
 遠くの路地で、子どもの笑い声が跳ねた。
 水面の波紋が、ひと呼吸遅れて静まる。

 綾斗は赤い糸を指に巻き、ミナに渡した。
「ミサに渡して」
「ええ。弟に、ね」
 ミナは微笑んだ。
「君の縫い目は、やさしい」

 木戸を閉めると、影の客はもういなかった。
 代わりに、門の下に小さな白い紙片が落ちていた。
 拾い上げる。糸で作ったような文字で、短く。
『——まだ、一本。』

 ミナが紙を見るなり、表情を引き締めた。
「これは“合図”よ。影の客は、敵じゃない。彼らにも役割がある。未完の終わりは、一本じゃないと告げてる」

 工房へ戻る道、夕陽は傾き、影は長く伸びた。
 ミナは歩きながら言う。
「あなたのコート。——あれは集めている。未完の終わりを。そして、あなたは“編み替え”を知っている手」
「俺が?」
「まだ断言しない。でも、あなたが右へ縫うと、街が“保たれる”。左へ縫えば、“送られる”。今日は右でよかった」

「いつ、左が要る」
「その人が“針を抜ける”と決めたとき。優しさだけでは、布は歪む」

 工房の扉が鳴る。
 柱時計は、夜の入口を告げた。
 机の上、コートの裏地の銀糸は、昨日よりもさらに一目、進んでいた。
 赤い糸の端をそっと隣に置くと、銀糸と赤糸が、短く触れ合った。
 ほんの一瞬、微かな音が鳴った。針が受け皿に触れるような、心地よい音。

「ルイスの地図、借りられそう?」
「頼んでみる」
 綾斗は答え、ふと自分の両手を見た。
 指先に、薄い線のような跡がある。針の古傷に似ているが、痛みはない。
「痛くない?」とミナが尋ねる。
「はい」
「じゃあやっぱり、あなたは——」

 言葉が途切れた瞬間、外の通りで、人の駆ける音がした。
 扉がひらき、昼間の少年が飛び込んでくる。
「姉ちゃん、帰ってきた! でも——」
 少年の顔は喜びと恐れで揺れていた。
「“誰かの名前”が、言えないって。喉まで来てるのに、どうしても言えないって!」

 ミナと綾斗は目を合わせた。
 銀糸の一目。赤い糸の一目。
 足りない一本は、名前の糸だ。

 ミナは迷わず、針山から一本の針を抜いた。
「今度は“言葉”を縫う。右でも左でもなく、真ん中を通す針目がある」

「真ん中?」
「礼の側でも日常の側でもない、“あいだ”の縫い方。名前は、その人をここへ結び止める糸だから」

 夜は始まったばかりだった。
 影の客は、今夜は来ない。
 代わりに、言葉が待っている。
 綾斗は深く息を吸い、針に糸を通した。
 指はもう、震えなかった。

 ——コートの銀糸が、静かに光る。
 「まだ、一本。」
 紙片の言葉は、脅しではない。約束だ。
 終わりは、いつも誰かの手で、始まりのほうへ引かれていく。
 今夜、その一本を見つけに行く。

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