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第2話 記憶の綻び

 朝の光は、夜よりも残酷だと綾斗は思った。
 裁縫工房の窓辺に差し込む光は、白すぎて、影の輪郭をやたらと強調する。
 柱時計の針は七時過ぎを指していた。夜更けに縫った銀糸の一目一目が、まるで別人の仕事みたいに規則正しく並んでいる。それを見ていると、自分の中に「知らない自分」が確かに存在する気がして、胸の奥が静かにざわめいた。

 ミナは、いつの間にか朝の仕度を終えていた。エプロンは昨夜より濃い布色で、糸屑ひとつついていない。眠った気配がないのに、疲れた色はどこにもなかった。
「起きてた?」
「起きたばかりです」
「なら、紅茶より水のほうがいいわね」

 彼女は氷を落とした透明なグラスをテーブルに置いた。水面に揺れる光が、糸巻きの色を薄く重ねていく。
「昨夜の縫い目、綺麗だった。あれは練習じゃできない」
「覚えがないんです。昔から縫ってた気がするけど、誰に習ったか思い出せない」
「技術は、思い出より嘘をつかないのよ」

 ミナはコートを手に取り、裏地の銀糸を指先でなぞった。
「終い糸は、持ち主の記憶を縫い止める。それが途中になってるってことは」
「持ち主の終わりが、途中で止まった?」
「もしくは——誰かが止めた」

 彼女はそこで言葉を切った。
 コートの胸元に、小さな白糸の縫い跡があった。昨日はなかったものだ。夜のうちに、自分が無意識で縫いこんだのか。それとも、あの影の客が触れたのか。

 ミナは糸切りを持ち、白い縫い目の一本を、慎重に切った。
 切られた糸の端が、花の花弁みたいにゆるく開いた瞬間、布がわずかに震えた。

 ——笑い声。
 昨日より鮮明だった。
 芝生の匂い。お弁当の包装紙の音。
 ピクニックシートの縁が、ひらひら揺れる。
 「こぼすから、そこ座んなって!」
 声。誰かの声。若い、けれど落ち着いている声。
 それから、白いワンピース。風の色。

 綾斗は息を飲んだ。
「誰だ……」
「誰かが、あなたの記憶ごと縫い止めてる」
 ミナが静かに言った。
「終い糸は、亡くなる人の記憶しか縫わない。生きている人の記憶が縫いこまれるのは——普通じゃない」

 胸の奥のざわめきが、波のように高まる。
 記憶の布が引き裂かれ、ちぎれた端と端が結ばれ、一度ほどかれて、また縫われたような感覚。
 もしかして、自分は「終わった側」なのか。
 いや、まだ息をしている。ここに立っている。けれど、自分という布地はどこまで本物なんだ。

「ミナ」
 綾斗は胸の奥から引きずるように声を出した。
「影の客は、誰の終わりを取りに来たんですか。俺じゃないなら、このコートの持ち主?」
「どちらとも言えない。影の客は、終い糸に引かれて来る。持ち主が誰でも、縫い手が誰でも」
「じゃあ、なぜ昨日は帰った」
「あなたが“決めていない”から」

 ミナの指は、机の上の針山をそっと押した。
「終い支度っていうのは、縫い目の方向に意味があるの。右へ縫うか、左へ縫うかで、記憶の収まり方が変わる。縫う人間が迷ってると、終い糸はどこにも落ち着かない。影の客も、引き返すしかない」

 綾斗は銀糸を見た。昨夜、あれを握ったのは自分だ。縫い進めたのも自分だ。なら、意志はどこにあった?
 針を持った瞬間、手が勝手に動いたのは、才能か、呪いか、それとも「経験」なのか。

「街を見たら?」
 ミナがふいに言った。
「ここには、あなたの知らない縫い目がたくさんある。誰かの終わりが織られて、誰かの始まりが縫われてる」
「歩けば、何か思い出せますか」
「それはあなた次第。でも、糸は嘘をつかない。引けば繋がる。ほつけば落ちる」

 工房を出ると、朝の匂いがした。洗濯物の石鹸と、焼きたてのパンの匂い。路地の石畳は夜露で少し黒く、店先の布地は日光で淡くなっている。
 気づけば、通りには職人たちが出ていた。糸屋、布屋、革の補修屋、靴の修繕屋。どの店からも針の音は聞こえないのに、仕事の気配が鮮やかだった。

 通りの中央に、市が立っていた。
 小さなテントの下、刺繍されたハンカチや布が整然と並ぶ。シンプルな模様のものから、鳥獣戯画のような緻密な刺繍まである。人は少ない。声を張り上げる店主もいない。

「兄ちゃん、初めて見る顔だな。」
 声をかけてきたのは、白髪混じりの老人だった。背は曲がっていない。布を扱う職人の、無駄のない背筋。
「見物か、仕事か」
「仕事……かもしれません」
 老人は綾斗のコートを見た。
「その糸、見せてみ」
 言葉より先に、綾斗の手が動いていた。老人は、銀糸を見るなり目を細めた。
「まだ途中だな。持ち主が迷ってる」
「持ち主……亡くなった人、という意味ですか」
「死んだとは限らん」
 老人はそう言い、布見本の山から一枚を抜いた。花刺繍の端に、ほんの小さなほどけがある。
「終い糸を縫うとき、一番大事なのは“誰が最後に針を抜くか”だ。自分の終わりを受け入れた者だけが、針を抜ける」
「じゃあ、受け入れなければ?」
「終わりは縫われず、影の客は迷う。迷いが長すぎれば、街ごとほどける」

 老人は声を潜めた。
「この街はな、一度ほどけた。糸が弾け飛んで、誰の記憶も残らん夜があった。誰かが大きな針で一気に編み直した。誰かがだ」
 その「誰か」が、誰なのかは言わなかった。
 綾斗が聞けなかったのか、老人が言わなかったのか、それは判断できなかった。

 店を離れると、視界の隅に白いものが見えた。
 石段の端に、白いハンカチ。
 昨日見た夢の断片と、同じ模様。
 綾斗は駆け寄り、手に取った。刺繍は、小さな花と、細い蔓。裏返すと——

 「またね」

 刺繍の文字。
 手が震えた。声が同時に蘇った。

「またね、綾斗」

 誰かが自分を名前で呼んだ。
 確かな記憶だ。絵でも音でもなく、現実としてそこにあった言葉。
 息が止まり、膝がゆっくり落ちる。
 手の中の布が、温かかった。
 泣くほどではない。でも、胸の奥が、焦げた紙みたいに静かに崩れていく。

 気づけば、視界の端に人影があった。
 影の客ではない。
 小柄な少年だ。綺麗な縫い目のついたベストを着ている。
「それ、返してほしいんだ」
 少年の声は不思議と落ち着いていた。
「それは、姉ちゃんの大事なやつなんだ。返さないと、ずっと帰って来れなくなる」

 綾斗は立ち上がる。
「君の姉さんは……誰だ」
「ミサ」
 聞き覚えがあった。
 昨日の断片。
 笑い声。弁当。風に揺れる白い服。
 ハンカチの模様が、少年の袖の模様と同じだった。

「姉ちゃんは、まだ終い支度をしたくないんだ。でも……」
 少年は歯を噛んだ。
「影の客が、姉ちゃんの糸を引いてる。縫い止めないと、全部ほどけちまう」

 綾斗はハンカチを見た。
 刺繍の「またね」が、夜の銀糸と重なる。
 これは誰かが残した「帰るための糸」だ。

「ミナの工房に来い」
 綾斗は言った。
「終い糸を縫う場所は、あそこだ」

 少年は不安な目をした。
「影の客が来ても?」
「昨日来た。帰った。今日も帰らせる」

 自分がなぜそんなことを言えるのか、理由はわからない。
 けれど、針を握った瞬間と同じ確信があった。
 縫える。
 縫い止められる。
 終わらせるでもなく、紡ぐでもなく、繋ぎ直すことができる。

 工房の扉を押すと、ミナが糸をほどいていた。
 少年を見るなり、ミナはわずかに目を見開いた。
「ミサの弟?」
「姉ちゃんを、帰してほしくて……」

 ミナはハンカチを受け取り、刺繍の裏を見た。
「あなた、この子に見せたのね」
「勝手に見つけただけです」
「いいえ。終い糸は、必要な人間の前にだけ現れる」

 その瞬間、空気が変わった。
 工房の奥の扉が、僅かに揺れる。
 風ではない。
 少年が震えた。
「来た……また来た」

 影の客。
 昨日よりも近い。
 輪郭が、かすかに人型に寄っている。
 まだ顔は見えない。けれど、「焦り」が見える。

 綾斗は針山を掴む。
「ミナ」
「準備できてる」
 ミナは机の上に、白い布とミサのハンカチを広げ、銀糸を一本、引き出した。
「縫い止めるのは、あなた」
「俺が?」
「ミサが縫い手に選んだのは、あなた」

 その言葉が胸に刺さるのに、痛みはなかった。
 綾斗は針を取り、糸を通した。
 少年は涙で視界を滲ませながら、それでもしっかり見ている。
 影の客は、机の横まで来ていた。
 もう逃げ道はない。
 針先を、ハンカチの端に落とす。
 一目、ふた目。
 銀糸が光り、影が止まった。

「姉ちゃんを、返してあげて」
 少年の声は、泣いているのに、綺麗だった。
「帰る場所、まだあるから」

 三目めの縫い目が落ちた瞬間、工房の扉が、ひとりでに開いた。
 冷たい空気が入ってくる。
 けれど怖くなかった。
 影の客は、綾斗の縫い目を見ていた。
 何も言わず、何も残さず、ただ一歩、外へ出た。
 光が揺れ、扉が閉まる。

 静かだった。
 少年が、泣きながら笑った。
「ありがとう。姉ちゃん、きっと帰ってくる」
「その時は、今度はあなたが縫う番」
 ミナが優しく言う。
「終い糸は、家族のほうが綺麗だから」

 少年は何度も頷いて、走り去った。
 ミナは深く息をついた。
「あなた、本当に縫えるのね」
「……みたいです」
「しかも、昨日よりも糸の通りがいい。この街にいると、思い出す人が多いから」

 綾斗は針を置いた。
 針の先が震えなくなっている。
 自分の指の感覚が、確かに「戻ってきている」。
 ミナは、綾斗の手の甲を見た。
「昔、縫いすぎて指先に針の傷があった人は、記憶を失っても“痛み”だけ残るの。あなたは痛くない?」
「痛くありません」
「じゃあ、きっとあなたは——」

 そこまで言って、ミナは口を閉じた。
 影の客の気配が、まだ遠くで揺れている。
 決着ではない。ただの先延ばしでもない。
 糸は、まだ途中だ。

「綾斗」
 ミナが静かに言った。
「あなたのコートの持ち主、たぶん、生きてる」

 心臓が、痛いほど跳ねた。
 生きている。
 なら——
 自分は、何を縫っている?

 ミナは針山を片付けながら、付け加えた。
「そして、あなたはその人の“終わり”を編みかけたまま、ここに来た。理由がある。まだ、その針を抜いていない」

 綾斗は、自分の胸に手を当てた。
 そこに、銀糸はない。
 けれど、縫い目の幻が、脈と一緒に動いている気がした。

「探します」
 言葉は、自分でも驚くほど自然だった。
「この街に来た理由も、その人も」

 ミナは小さく笑った。
「それが、この街で“生きてる”ってことよ」

 工房の窓から、昼の光が差し込む。
 針は、夜とは違う色で光った。

 ——コートの裏地の銀糸が、ほんの少しだけ、昨日より前へ進んでいた。

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