第4章 別れと誓い
――空が、やけに高く見えた。
秋の気配が忍び寄る王都アウリディア。
青と金が混ざる午後の光が、城の庭をやわらかく包み込んでいた。
その中心で、王太子レオニールが声を張り上げていた。
「よしっ! 今日が本番だ! “お嫁さんごっこ”の最終日!」
彼の声は相変わらず大きい。
けれど今日のレオニールは、いつもより背筋が伸びていた。
王妃の侍女たちが観覧席に並び、貴族の子女も見学に来ている。
――子供の遊びのはずが、いつのまにか「王太子の教育儀式」扱いになっていた。
花嫁役のマリーネ・バルツァは、ピンクのリボンで髪を飾り、鏡の前でうっとりとしている。
「今日こそ王妃になる日なの!」と息巻くその姿に、周囲の大人たちは微笑ましそうに頷いていた。
だが、リシェリア・アウリディアは違った。
彼女は白い台帳を胸に抱き、静かに舞台を見つめていた。
今日で“仲人”の役目が終わる――そのことを、彼女は朝から何度も自分に言い聞かせていた。
(これは遊び。でも……わたしは、遊びを本気でやりきりたいの)
噴水の水音が鳴り、ユリウスが聖書を持って立つ。
レオニールとマリーネが並び、リシェリアがその前に進み出た。
静寂が、庭を包み込む。
「――これより、“誓いの儀”を行います」
リシェリアの声は澄んでいて、どこか大人びていた。
侍女たちが息を呑む中、ユリウスがゆっくりと“誓いの言葉”を読み上げる。
「永劫の契りにおいて、ふたつの灯は交わる。
女神の御前にて、真実の心のみが結ばれる……」
――誰も笑わなかった。
あの三日前、レオニールが大声で笑い飛ばしたあの文章。
今日は、彼自身が真剣に聞いている。
声の重みが、少しだけ大人に近づいていた。
リシェリアは二人を見つめ、静かに尋ねる。
「それでは、王太子レオニール殿下。あなたはマリーネ様を“好き”と申しましたね。
その“好き”とは、どんな意味をお持ちでしょうか?」
レオニールは一瞬、目をぱちくりとさせ――
次の瞬間、誇らしげに胸を張った。
「好きってのはな! 一緒にいると楽しいってこと! それから……笑顔がかわいいってこと! あと、お菓子をくれる!」
マリーネが「まぁ!」と頬を染め、侍女たちはくすくすと笑った。
リシェリアは微笑み、静かに頷いた。
「とても素敵な答えですわ。……では、マリーネ様。あなたにとって“好き”とは?」
「えっと……王妃になれること!」
周囲の笑い声が、少しだけ大きくなった。
レオニールも楽しそうに笑う。
だが、リシェリアの瞳だけは、微かに揺れていた。
(“好き”の中身が、こんなにも違うのね……)
彼女はゆっくりと本を閉じ、最後の言葉を告げる。
「それでは、これにて“お嫁さんごっこ”の仲人の役目を終えます」
「えっ?」
「殿下の“結婚式の練習”が終わりましたもの。わたしの務めはここまでです」
レオニールが慌てて近づく。
「お、おい! なんで終わりなんだよ! まだ続けようぜ!」
「いいえ。婚約者として、次に務めるのは“待つこと”です」
リシェリアの声は、どこまでも静かだった。
五歳の少女が、まるで年老いた賢者のように言葉を選んでいた。
「殿下が誰を“本当に好き”になるのか、その答えが出る日を、わたしは見届けます」
「……リシェリア?」
「どうぞ、あなたのままに」
言葉を終えると、彼女は花冠を外して両手で抱え、深く一礼した。
風が吹き、金色の髪が光の帯を描く。
その光景に、大人たちさえ息を飲んだ。
――“神童王女”。
誰かがそう呟いた。
レオニールは何か言おうとして、言葉を失ったまま立ち尽くす。
マリーネは花の裾を握りしめ、少し不安そうな顔をしていた。
そして、リシェリアは一歩、二歩と後ろに下がる。
彼女の足取りは穏やかで、まるで儀式の続きを歩むようだった。
庭を出るその瞬間――。
「リシェリア!」
ユリウスの声が響いた。
彼は手にしていた聖書をぎゅっと抱え、駆け寄ってくる。
「どこに行くの?」
「……役目を終えましたから。しばらく王都を離れますわ」
「行かないで」
小さな声。けれど、その響きは胸を突くほどまっすぐだった。
「あなたがいなくなると、静かすぎる」
「ふふ、それは困りましたね」
「ぼく、大きくなったら――」
ユリウスは一瞬、言葉を探すように空を見た。
そして、震える声で言った。
「大きくなったら、君を幸せにできる人になる」
リシェリアは目を見開いた。
そして、微笑んだ。
「……なら、その日まで、わたしはあなたの“まんなか”に立って待っています」
噴水の水音が、ふたりの言葉を包み込んだ。
風が花びらを舞い上げ、空へと運んでいく。
その光景は、まるで女神が祝福の幕を閉じるかのようだった。
背を向けたリシェリアの足元には、白い花弁が静かに積もっていく。
ユリウスはその一枚を拾い、手のひらに握りしめた。
(――必ず、また会える。
その時、今度こそ“仲人”ではなく、“共に誓う人”として)
ユリウスの胸の中に、そんな言葉が灯った。
秋風が吹き抜ける。
遠くで鐘が鳴り、光がゆっくりと傾いていく。
こうして、“お嫁さんごっこ”は幕を閉じた。
だが、それは終わりではなく、始まりだった。
神に選ばれた子どもたちの小さな約束が、
やがて王国の運命を変える“誓い”になることを、
まだ誰も知らなかった。


