バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第1章 お嫁さんごっこ

春の光がやわらかく降りそそぐ。
王都アウリディアの城庭は、花々がいっせいに咲き誇り、まるで絵本の中の世界のようだった。

その中央――白い噴水のそばで、五歳の少女リシェリア・アウリディアは鏡をのぞき込みながら、髪飾りの角度を慎重に直していた。
まだ小さな手なのに、その所作は妙に丁寧で、侍女たちをいつも感心させる。

「リシェリア様、本当におきれいですよ。まるで小さな花嫁のようです」
「……花嫁、ですか」

言われて、リシェリアはほんの少し笑みをこぼした。
今日はいよいよ、王太子殿下との“婚約の儀”が行われる日。
形式上とはいえ、国を守る“聖血の子”として、彼女の名は王国中に知られていた。

胸の奥が、少しくすぐったい。
王妃さまも、王さまも、きっと見守ってくださる。
王太子殿下も、少し照れながら迎えてくれるのだろう。

そう想像したとき――。

「リシェリアーっ!!」

外から、元気すぎる声が響いた。
それはもちろん、王太子レオニール。
まだ六歳。自分がこの国の中心だと信じて疑わない年頃である。

「リシェリア! 早く庭に来い! “お嫁さんごっこ”するぞ!」

……お嫁さん、ごっこ?

鏡の前で固まるリシェリア。侍女たちは顔を見合わせ、なんとも言えない笑みを浮かべた。

「……婚約の儀、ではなくて?」
「うん! ごっこ遊びだ!」

扉の向こうから、王太子の元気な声。
リシェリアは少しだけ目を伏せて息を吐いた。

(……まあ、まだお子さまですもの。遊びという言葉のほうがしっくりくるのかもしれませんわ)

そう自分を納得させ、白い靴を履き直して庭へ出た。

噴水のそばでは、花の冠をかぶった小さな令嬢――マリーネ・バルツァが、くるくると回っていた。
淡いピンクのドレスをひるがえし、まるでお姫様になったような顔。

「ねぇ、レオ様! わたし、お姫様みたい?」
「うん! すっごくかわいい! 今日の花嫁はマリーネだな!」

レオニールが嬉しそうに笑うと、マリーネは一層顔を赤らめる。

その様子を少し離れた場所から見ていたリシェリアは、首をかしげた。
(……あれ? 今日、私が“お嫁さん”になる日では……?)

「レオニール殿下?」
「あ、リシェリア! 来たな!」

王太子は振り返り、ぱっと笑った。
次の瞬間、当然のように言い放つ。

「よし、じゃあリシェリアは仲人な!」

「……なこうど?」

「そう! 俺とマリーネの結婚式を仕切る人! 神父みたいなやつ!」

……。

沈黙が一瞬。リシェリアは小さく瞬きをした。
隣で見ていた侍女が思わず「まあ……」と口を押さえる。

リシェリアは胸の奥にふわりと浮かぶ違和感を、丁寧に押し込めた。

「……わかりました。では、仲人として、きちんと務めを果たしますね」

小さくお辞儀をし、微笑む。
年齢に似合わぬ落ち着き方に、レオニールは「すげぇな!」と笑い、何の疑いもなく次の準備に取りかかった。

――こうして、“お嫁さんごっこ”が始まった。

花嫁役のマリーネは、得意げにドレスの裾を持ち上げてくるくる回る。
花婿役のレオニールは、冠を逆さにかぶって「王冠だ!」と笑う。
そして――。

「ユリウス! おまえは神父な!」

木陰で本を読んでいた小さな少年が、顔を上げた。
ユリウス。レオニールの腹違いの弟で、まだ四歳。
けれど瞳の奥に静かな光を宿す、不思議な子だった。

「……わかった」

小さな声で頷き、そっと本を閉じる。
その様子を見て、リシェリアは少しだけ心が動いた。

(神父役……本物の神学書を読んでいるのに、遊びの役にされてしまうのね)

そっと近づき、リシェリアは声をかけた。
「ユリウス様。“誓いの言葉”を考えるのは、あなたでしょう?」
「……うん。でも、難しい言葉でもいい?」
「ええ、意味がわかれば。少しなら手伝います」

小さなふたりが、庭の隅で紙を広げた。
ユリウスの筆は迷いなく動き、子供らしからぬ美しい文字を綴る。
リシェリアはその文を覗き込みながら、時折頷き、時折笑う。

「……“永劫の契りにおいて魂を結び、女神の御心のもとに二つの灯を掲ぐ”……。とてもきれい」
「そうかな」
「ええ。誰もが意味を知らずに使う言葉に、あなたはちゃんと意味を与えているのね」

リシェリアの声は、春風のようにやさしかった。
ユリウスは頬を赤らめ、視線を逸らす。

――しかし。

「できたかー?」
ドカドカと足音を響かせて、レオニールが駆け寄る。
紙をひったくるように取り上げて読み上げた。

「……えーと、なんだこれ。“永……えい……?” なにこれ! 難しすぎる!」
大声で笑う王太子。マリーネも、きゃははと笑う。
「ねぇレオ様! これ、全然わかんないね!」
「だろ! ユリウスのやつ、また変な本のマネしてるんだ!」

笑い声が弾ける。
ユリウスは俯いた。けれど、リシェリアは紙をそっと受け取り、静かに言った。

「……とても、きれいな言葉ですわ」

その瞬間、ユリウスが目を見開いた。
リシェリアの瞳がまっすぐ彼を見ている。
誰も理解してくれなかった言葉を、理解してくれた人が初めて現れた。

「あなたの言葉、好きです」

春の風が、二人の間を通り抜けた。

その空気を壊すように、レオニールがむっとした顔で言う。
「なあ、リシェリア。遊びなんだから、難しいのとかいらねぇよ」
「……遊びの中にも、本当のことはあるのですよ」
「……なにそれ?」
「女神様も、きっとそうおっしゃると思います」

リシェリアがにこりと笑うと、レオニールは口をとがらせて背を向けた。

そして“式”が始まった。
花びらを撒きながら、マリーネは嬉しそうに歩く。
レオニールは「俺が王様だー!」と叫ぶ。
ユリウスは静かに“誓いの言葉”を読み上げ、リシェリアは丁寧に仲人を務めた。

その姿は、まるで本物の儀式のようで――どこか滑稽でもあった。

けれど、誰も気づかない。
この“遊び”が、後に国を揺るがす始まりになることを。

式が終わり、マリーネは誇らしげに胸を張った。
「ねぇ、リシェリア様! わたし、どう? 王妃に向いてる?」
「……ええ、とてもお似合いです」
リシェリアは微笑んだが、その声は少しだけ遠かった。

(……婚約者って、こういう扱いをされるものなのかしら)

小さな胸の奥に芽生えた、言葉にならない痛み。
それをまだ、彼女は名づけることができなかった。

ただ、花びらが風に舞い上がる中で――。
ユリウスがそっとリシェリアの方を見ていた。

誰よりも静かに、誰よりも真剣に。
そのまなざしは、子供のものとは思えないほど深く澄んでいた。

リシェリアは気づかぬまま、花冠を整えて笑う。
春の陽射しがその金の髪を照らし、女神の祝福のように輝いた。

その光景は、ユリウスの心に焼きついたまま離れなかった。

――そして彼は、幼い心に一つの誓いを立てた。
この人が泣かないように、自分は強くなる。

それが、後にアウリディアの歴史を変える最初の一歩になることを、誰も知らなかった。

しおり