第二話 振り込め詐欺の電話を受けて、騙された振り作戦で犯人をおびき出した有紀。逮捕しようとしたが男の力にはかなわない。
第一章:静かな夜の電話
谷口有紀は、新宿の喧騒から離れた小さなアパートの一室で、久しぶりの非番の夜を過ごしていた。婦人警官として新宿署に勤める彼女の日常は、駐車違反の摘発や交通安全キャンペーンのポスター貼りといった地味な業務に追われる日々だった。最近、駐車違反の摘発件数が減少し、上司の佐藤警部の鋭い視線と「谷口、数字が足りんぞ」という小言が彼女の耳にこびりついていた。そんなストレスから解放された今夜、時計の針は23時を少し回ったところだった。部屋の明かりはすでに落とし、薄いカーテン越しに街灯の淡い光が差し込む中、有紀はベッドの上で毛布を引き寄せ、目を閉じようとしていた。彼女のアパートは新宿署から電車で20分ほどの住宅街にあり、築20年の2Kの間取りだった。玄関を入ると狭いキッチンスペースがあり、その奥に6畳ほどの居間が広がる。居間には古いソファと小さなガラステーブル、壁際にテレビ台と本棚が置かれ、壁には交通安全キャンペーンのポスターがテープで貼られていた。キッチンのカウンターにはコンビニのサンドイッチの空きパッケージが無造作に置かれ、冷蔵庫の低いうなり音が静かな部屋に響く。居間の奥には引き戸で仕切られた寝室があり、シングルベッドと小さなタンスが置かれた簡素な空間だった。普段は制服の硬い感触に慣れている有紀だが、今は柔らかい綿のパジャマに身を包み、ようやくリラックスできる瞬間を迎えていた。その静寂を切り裂くように、突然、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。古いコードレス電話の電子音が、狭い部屋に鋭く反響する。有紀は一瞬、身体を硬直させた。時計をちらりと見ると、23時17分。こんな時間に電話をかけてくる相手など、普通ならいない。彼女の両親は遠く福岡に住んでおり、友人も夜更かし派は少ない。署からの緊急連絡の可能性が頭をよぎったが、非番の夜にわざわざ個人宅に電話をかけてくることは稀だった。「こんな時間に誰だよ……」有紀は小さく舌打ちし、ベッドから身を起こした。少し乱れた黒髪を片手でかき上げながら、電話の置かれたナイトテーブルに手を伸ばす。彼女の指は細く、爪は短く切り揃えられ、警官としての実用性を優先していた。受話器を手に取る瞬間、眠気でかすれた意識が一気に引き締まる。婦人警官としての鋭い感覚が、身体の奥から呼び起こされた。「はい、谷口ですが。」声は少し掠れていたが、冷静さを保つよう意識していた。電話の向こうからは、男の声が聞こえてきた。落ち着いた、事務的な口調だった。「もしもし、谷口さんのお宅ですか? こちら、新宿警察署刑事二課の者です。」有紀の眉がわずかに動いた。刑事二課といえば、詐欺や知能犯を扱う部署だ。彼女の所属する交通課とは普段ほとんど接点がない。頭に一瞬、交通安全キャンペーンの打ち合わせや、署内の書類ミスに関する連絡だろうかという考えが浮かんだ。だが、こんな深夜にそんな話で電話をかけてくるはずがない。彼女の警戒心が、静かに、しかし確実に高まった。「はい、谷口ですけど……何か用ですか?」声に感情を込めず、相手の出方を探る。男の声は変わらず事務的だったが、その言葉は有紀の予想を一瞬にして打ち砕いた。「実は、違法薬物販売グループが逮捕されましてね。押収された顧客名簿の中に、谷口さんの名前があったんです。」一瞬、頭が真っ白になった。違法薬物? 顧客名簿? ありえない。有紀は酒もタバコもやらず、薬物など触れたことすらない。婦人警官として、法の執行者として、そんなものに縁があるはずがない。だが、すぐに彼女の訓練された頭脳が冷静さを取り戻した。この手の電話は、最近署内で話題になっていた特殊詐欺の手口に酷似していた。高齢者をターゲットに、銀行口座やキャッシュカードを騙し取る詐欺グループが暗躍しているという情報が、朝のミーティングで共有されていたのだ。「はい?」有紀はわざと間延びした声で答え、相手の反応を伺った。内心では、すでにこの電話が詐欺だと確信しつつあった。男の声が続ける。「谷口さんのキャッシュカードが偽造され、悪用された可能性があります。今お持ちの銀行の通帳とキャッシュカードをこちらで預からせて頂きますので、一緒に暗証番号を教えていただけますか。」有紀の唇に、薄い笑みが浮かんだ。バカすぎる。婦人警官の自宅に、こんなあからさまな詐欺の電話をかけてくるなんて。彼女の脳裏には、署内で耳にした詐欺グループの手口が鮮明に蘇った。犯人はまずターゲットを不安にさせ、個人情報を引き出す。その後、偽の公務員や金融機関の職員を装った人間が直接家を訪れ、カードや現金を騙し取る。典型的なパターンだ。だが、同時に、別の考えが彼女の胸に湧き上がった。
ここで犯人を捕まえれば、手柄になる。
駐車違反の摘発件数が少ないと、佐藤警部から毎日のように嫌みを言われる日々。署内の評価も、最近は芳しくなかった。もしこの詐欺犯を現行犯で逮捕できれば、彼女の立場は一気に変わる。交通課の地味な婦警から、刑事課も顔負けの敏腕警官として注目されるかもしれない。「分かりました、今用意します。」有紀はわざと従順な、か細い声を装った。電話の向こうの男の反応を確かめるため、彼女は一瞬息を止めた。男の声には、微かな安堵が混じっているように聞こえた。「これからすぐ金融庁の職員が取りに伺いますので、渡していただけますか。」案の定、典型的な詐欺の手口だ。金融庁の職員が深夜に個人宅を訪れるなど、ありえない。有紀の確信はさらに強まった。彼女は本庁に連絡して応援を呼ぶことも一瞬考えたが、すぐにその考えを振り払った。相手は恐らく一人だ。婦警としての訓練を受け、合気道初段の腕前もある自分なら、単独で十分逮捕できる。応援を呼べば、手柄は分散してしまう。このチャンスを独り占めしたかった。「はい、了解しました。いつ頃来ますか?」有紀は穏やかな口調で尋ね、内心で次の行動を計算し始めた。男は少し間を置いて答えた。「30分ほどで伺います。それまでカードと通帳を用意しておいてください。」電話が切れると、有紀はすぐにベッドから飛び起きた。心臓が軽く高鳴り、緊張と期待が交錯する。彼女はクローゼットからジャージを引き出し、素早く着替えた。動きやすい服装で、かつ犯人を油断させるために、わざとラフな格好を選んだ。髪をゴムで軽くまとめ、部屋の明かりを少し落として雰囲気を整える。ナイトテーブルの引き出しから、警察手帳と手錠を取り出し、ジャージのポケットにしまった。
犯人が来るまでの30分。彼女は部屋の中を歩き回り、頭の中でシミュレーションを繰り返した。ドアを開ける瞬間、犯人の動き、隙を作る方法。そして、逮捕のタイミング。すべてを計算し尽くす。
窓の外では、新宿の夜が静かに息づいていた。遠くで聞こえる車のクラクションと、時折響く救急車のサイレンが、彼女の決意をさらに固めた。
今夜、谷口有紀はただの婦人警官ではない。詐欺師を捕まえるハンターになるのだ。
第二章:訪問者
谷口有紀はリビングのソファに腰を下ろし、目の前の小さなガラステーブルに置かれた古いコードレス電話を見つめていた。電話が切れてから約30分が経過し、時計の針は23時47分を指していた。部屋の中は静まり返り、窓の外から聞こえる遠くの車のエンジン音だけが、夜の静寂をわずかに破っていた。新宿署の婦人警官として鍛えられた彼女の感覚は、緊張と期待で研ぎ澄まされていた。詐欺犯を捕まえるチャンス。この一撃で、駐車違反の摘発件数が少ないと上司に小言を言われる日々に終止符を打つことができるかもしれない。有紀はジャージの上からポケットを確認し、警察手帳と手錠がしっかりと収まっていることを確かめた。彼女はわざとラフな服装を選んだ。濃紺のスウェットパンツと、肩口が少し色褪せた白いTシャツ。普段の制服姿とは違い、隙のある「普通の女性」を装うことで、犯人を油断させる狙いがあった。髪は後ろで無造作にゴムでまとめ、顔には化粧っ気がない。鏡に映る自分の姿を見て、彼女は小さく頷いた。これなら、ただの主婦か独身女性に見えるだろう。彼女はリビングをゆっくりと歩き、部屋のレイアウトを再確認した。2Kのアパートは狭く、玄関から入るとすぐにキッチンスペースがあり、その奥に6畳ほどのリビングが広がる。リビングにはソファとガラステーブル、壁際に小さなテレビ台と本棚があるだけだ。寝室はリビングの奥にあり、簡素なシングルベッドとナイトテーブル、タンスが置かれている。犯人が部屋に上がることを想定し、有紀はどの位置でどう動けば逮捕がスムーズかを頭の中でシミュレーションしていた。玄関近くの壁には、彼女が警官学校時代に獲得した合気道の段位証明書が額縁に入って飾られているが、暗い部屋ではそれが目立つことはないだろう。突然、玄関のチャイムが短く鳴った。ピンポン、という音が部屋に響き、有紀の心臓が一瞬強く脈打った。彼女は深呼吸をして冷静さを取り戻し、ゆっくりと玄関に向かった。ドアスコープから外を覗くと、そこには背広を着た若い男が立っていた。20代後半くらいだろうか。短く整えられた黒髪に、安っぽいグレーのスーツが妙に目立つ。ネクタイは少し曲がり、シャツの襟元にはうっすらと汗のシミが見えた。男は手に小さな黒い鞄を持ち、落ち着きなく周囲を見回している。その視線は、どこかぎこちなく、緊張しているようにも見えた。有紀は一瞬、男の外見を脳に刻み込んだ。身長は175センチほど、?せ型だが肩幅はしっかりしている。顔は整っているが、目元の落ち着きのなさが詐欺師らしい狡猾さを漂わせていた。彼女はドアの鍵を静かに外し、ゆっくりとドアを開けた。冷たい夜の空気が室内に流れ込み、彼女の肌を軽く撫でた。「こんにちは、金融庁の者です。」男は丁寧に頭を下げ、名刺のようなものを差し出した。有紀はそれを受け取り、ちらりと目をやる。名刺には「金融庁 調査課 佐々木健太」と印刷されていたが、フォントが安っぽく、紙質も薄い。明らかに偽物だ。彼女は内心でほくそ笑みながら、名刺をポケットにしまった。後で証拠として提出すればいい。「どうぞ、お入りください。」有紀は穏やかな声で答え、男を玄関に招き入れた。男は一瞬躊躇するように彼女を見たが、すぐに靴を脱ぎ、スリッパも履かずに靴下のまま上がってきた。その動作はどこか雑で、靴の踵が玄関のタイルに軽くぶつかる音がした。有紀は男の後ろ姿を観察しながら、ゆっくりとドアを閉めた。鍵をかける音をわざと小さくし、男に警戒心を与えないよう配慮した。「キャッシュカードはこれで全部です。暗証番号は全部同じで、紙に書いておきました。」有紀はテーブルの上に用意しておいた古いキャッシュカード3枚と、適当に書いた暗証番号のメモを差し出した。カードはすべて使っていない口座のもので、万が一渡しても実害はない。彼女は男がカードを受け取る瞬間、その指の動きと表情をじっと観察した。男の手はわずかに震え、カードを手に取る動作がぎこちなかった。目には一瞬、獲物を手に入れたような光が宿ったが、すぐに事務的な表情に戻った。「ありがとうございます。念のため確認させていただきますね。」男はカードを黒い鞄にしまいながら、部屋の中を見回した。その視線は家具の隙間や引き出しにちらりと向き、明らかに何か探している様子だった。有紀は男の動きを冷静に分析しながら、次の展開を待った。「ところで奥さん、旦那さんはご在宅ですか?」男の質問に、有紀は一瞬眉をひそめた。独身の彼女に夫などいるはずがないが、この質問は犯人が彼女の状況を探っている証拠だ。彼女は一瞬考え、策略を思いついた。「旦那は今、出張中なんです。海外で、来週まで帰らないんですよ。」有紀はわざと寂しげな声で答え、肩を少し落として弱々しい雰囲気を演出した。実際には、彼女は恋人もおらず、仕事一筋の生活を送っていたが、犯人を油断させるためにはこの嘘が有効だと判断した。男の目が一瞬光ったように見えた。その反応に、有紀は内心で確信した。こいつ、完全に私が一人だと思い込んでる。「じゃあ、今、家には奥さん一人なんですか?」男の声には、かすかな期待のようなものが混じっていた。口元に浮かんだ薄い笑みが、どこか不気味だった。有紀は心の中で舌打ちしたが、表面上は穏やかな表情を保った。「はい、そうですけど。何か問題でも?」彼女はわざと声を震わせ、怯えたような仕草を見せた。男の目がさらに輝き、鞄を握る手が一瞬強く締まった。彼女は男の隙を伺いながら、次の行動を計算していた。逮捕のタイミングは、犯人がカードや現金を手に持った瞬間が理想だ。窃盗罪を現行犯で押さえれば、言い逃れはできない。「念のために、部屋の中を見せて頂けますか。いや、疑っているわけじゃないですけど、あくまで手続きの一環なんで。」男の言葉に、有紀は内心で勝利を確信した。部屋に上がらせれば、犯人の逃げ道を塞げる。彼女の手はポケットの中で手錠を握り、いつでも取り出せる準備ができていた。「はい、構いません。どうぞ、こちらです。」有紀は穏やかに答え、男をリビングに案内した。男は部屋に入ると、ゆっくりと周囲を見回した。視線がテレビ台の引き出しや、本棚の隙間にちらりと向かうたび、有紀の胸には緊張と期待が交錯した。男の靴下がフローリングを擦る音が、静かな部屋に小さく響いた。「寝室はどちらですか? 一応調べさせていただきます。」男の声には、どこか押し殺したような興奮が混じっているように感じられた。有紀は一瞬、背筋に冷たいものが走ったが、すぐに冷静さを取り戻した。寝室に誘導すれば、さらに密室での逮捕がしやすくなる。彼女は小さく頷き、寝室のドアを指差した。「こちらですけど。どうぞ。」寝室のドアを開けると、簡素な部屋が現れた。シングルベッドには薄手のグレー毛布が畳まれて置かれ、その脇には小さなナイトテーブルと、木目調の古いタンスがあるだけだ。カーテンは閉まっており、街灯の光が薄く差し込む中、部屋はほのかに暗かった。男の視線がタンスに留まり、一瞬、口元に笑みが浮かんだように見えた。有紀は男の後ろに立ち、両手をポケットに入れたまま、その動きを一瞬も見逃さなかった。彼女の心臓は静かに、だが力強く鼓動していた。詐欺師を捕まえる瞬間が、すぐそこまで迫っていた。
第三章:罠の深まり
男の視線がタンスにちらりと向かうたび、彼女の胸には勝利への確信が膨らんだ。「現金があるようでしたら、預からせて頂きます。銀行のATMから出たお金に偽札が混じっている可能性があるので、調べる必要があるんです。」男の声は事務的だが、どこか押し殺したような興奮が滲んでいた。手に持つ黒い鞄を軽く握り直し、彼女の方を一瞥する。その目は、獲物を値踏みするような光を帯びていた。有紀は内心でほくそ笑んだ。現金を渡せば、窃盗罪が確定する。逮捕の証拠が一つ増える完璧な展開だ。「分かりました。ちょっと待ってくださいね。」有紀は穏やかに答え、タンスの引き出しに近づいた。彼女はわざとゆっくりと動き、男の反応を伺った。一番下の引き出しを開け、封筒に入った30万円の現金を手に取る。これは彼女が最近、親戚の結婚式のために用意していたものだったが、今は罠の餌として最適だった。封筒から札束を取り出し、男の方を振り返る。彼女の手はわずかに震えているように見せかけ、怯えた女性を演じた。「これで全部です。30万円あります。」有紀は封筒を男に手渡した。男の手が一瞬震えたように見え、彼は札束を丁寧に数えるふりをして、ゆっくりと鞄にしまった。その動作はぎこちなく、指先が紙幣の縁をなぞるたびに、わずかに汗が滲んでいるのが分かった。有紀は男の顔をじっと観察した。口元に浮かぶ薄い笑みと、目元の落ち着きのなさが、詐欺師の焦りと欲望を露わにしていた。「念のため、引き出しは全部調べさせて頂きますよ。」男はそう言うと、タンスに近づき、一番上の引き出しを無造作に引き開けた。そこには有紀の下着が雑に畳まれて収まっていた。白やベージュのシンプルなコットンのものが中心だが、その中に一組だけ、異質なものが目立っていた。真っ赤なレースのパンティー。薄い生地が肌を透かし、挑発的なデザインが一目で分かるものだった。これは彼女が以前、暴力団の内偵捜査でキャバクラに潜入する際に、通販で購入したものだった。普段は絶対に履かない、派手な下着だ。男の手がためらいなくその赤いパンティーに伸び、両手で広げてじっくりと眺めた。レースの縁を指先でなぞり、口元に薄い笑みを浮かべる。その笑みは、欲望と嘲笑が混じったような、ぞっとするものだった。有紀の背筋に一瞬、冷たいものが走ったが、すぐに冷静さを取り戻した。「奥さん、随分色っぽい下着を履いてるんですね。最近下着泥棒が多いので、証拠に持っていきますからね。」男の声には、隠しきれない下卑た欲望が滲んでいた。彼はパンティーを畳み直し、鞄にしまう動作をわざとゆっくりと行った。その動きは、まるで有紀を挑発するかのようだった。有紀は内心でほくそ笑んだ。下着を盗めば、窃盗罪にさらに罪状が上乗せされる。彼女の計画は順調に進んでいた。「そうですか……。でも、ちょっと恥ずかしいです。」有紀はわざと頬を赤らめ、目を伏せて弱々しい声で答えた。男の目がさらに輝き、彼の姿勢がわずかに前のめりになった。完全に油断している。有紀はベッドの脇に隠しておいた手錠の位置を頭で確認し、逮捕のタイミングを計った。男が下着を鞄にしまい終えた瞬間、彼女は一気に仕掛ける準備を整えた。ポケットの中で手錠を握り、親指で留め具をそっと外す。合気道初段の技量を活かし、素早く男の腕を押さえ込むイメージを頭に描いた。「動かないで! 私は婦人警官です! 窃盗の現行犯で逮捕します!」有紀は鋭い声で叫び、一気に手錠を取り出した。彼女の動きは素早く、男の右腕を掴もうと身を乗り出した。だが、その瞬間、男の反応は彼女の予想を遥かに超えていた。まるで予期していたかのように、男は驚くべき速さで身を翻し、有紀の腕を背中で捻り上げた。彼女の合気道の技が通用しないほどの力と速さだった。男の握力は鉄のように固く、有紀の細い手首に食い込んだ。鋭い痛みが走り、彼女の手から手錠が床に落ち、金属音が部屋に響いた。「離してください! 人を呼びますよ!」有紀は必死に叫んだが、声は震え、力強さを欠いていた。男の冷たい笑い声が、彼女の耳元で低く響いた。「黙れ。大人しくしろ。」男の声には、欲望と嘲笑が混じり合い、ぞっとするような冷たさがあった。彼の息が有紀の首筋に当たり、彼女の肌が鳥肌で震えた。男の手は彼女の腕をさらに強く捻り上げ、抵抗を封じるように身体を押さえつけた。有紀の心臓は激しく鼓動し、頭の中で警報が鳴り響いた。状況は一瞬で逆転していた。彼女の計算は完璧だったはずなのに、どこでミスを犯したのか。詐欺師のはずの男が、なぜこんな力と速さを持っているのか。寝室の薄暗い光の中、男の目が獲物を捕らえた獣のように光った。有紀は必死に抵抗を試みたが、男の力は圧倒的だった。彼女の婦警としての訓練と合気道の技は、この男の前では無力だった。彼女の胸に、初めて恐怖が芽生えた。だが、同時に、負けられないという決意もまた、彼女の心の奥で燃え上がっていた。この男を捕まえる。それが彼女の使命であり、プライドだった。部屋の空気が重くなり、静寂の中で二人の荒い息遣いだけが響いた。有紀の目は、床に落ちた手錠に一瞬向かった。まだチャンスはある。彼女は歯を食いしばり、次の動きを計算し始めた。
第四章:逆転の夜
谷口有紀は寝室の床に押し倒され、詐欺師を装った男に組み伏せられていた。新宿署の婦人警官として鍛えられた彼女の心臓は、緊張と怒りで激しく鼓動していた。薄暗い部屋の中、男の荒々しい息遣いが響き、彼女の手首を強く掴む力が痛みを伴った。男は彼女を動けなくしようとしていたが、有紀の頭は冷静さを保ち、状況を打破する方法を必死に模索していた。「黙ってろ。言う通りにすれば、痛い目にはあわずに済むぜ。」男の声は低く、威圧的だった。彼は有紀の腕をさらに強く押さえつけ、彼女の動きを封じようとした。彼女のジャージの裾が乱れ、冷たいフローリングが膝に触れた瞬間、彼女の胸に婦警としてのプライドが燃え上がった。この男を逃がすわけにはいかない。彼女は訓練された合気道初段の技と、犯人を捕まえる強い意志を頼りに、反撃の機会を伺った。男が彼女の肩を押さえつけるために一瞬力を緩めたその刹那、有紀は全身の力を振り絞った。彼女は素早く右肘を後ろに突き出し、男の脇腹に鋭く命中させた。男が「うっ」と低く呻き、身体がよろめく。彼女はその隙を見逃さず、床を蹴って身体を回転させ、男の手を振りほどいた。合気道の訓練が活きた瞬間だった。「動くな! 婦人警官だ! 暴行と窃盗の現行犯で逮捕する!」有紀の声は鋭く、部屋に響き渡った。彼女は床に落ちていた手錠を素早く拾い上げ、男の右腕にカチリとかけた。金属音が静寂を切り裂き、男が抵抗しようとしたが、有紀は膝で男の背中を押さえ、完全に動きを封じた。彼女の息は荒かったが、目は勝利の光で輝いていた。「離せ! くそっ!」男は叫んだが、声には力がなかった。有紀は冷静に男の左腕も押さえ、両手首に手錠をかけた。彼女はポケットから警察手帳を取り出し、男の前に突きつけた。「新宿署交通課、谷口有紀。観念しなさい。」男は床にうつ伏せのまま、肩で息をしながら悪態をついたが、もはや抵抗する力は残っていなかった。有紀は立ち上がり、乱れたジャージを整え、部屋の隅に置かれた電話に駆け寄った。新宿署に連絡し、応援を要請する。電話の向こうで、佐藤警部の声が驚きと賞賛を込めて応答した。「谷口、よくやった! すぐに応援を送る。動くなよ!」電話を切った後、有紀は男を見下ろした。男の黒い鞄には、彼女が渡したキャッシュカードと現金、そして引き出しから持ち出した下着が入っていた。これらはすべて、男の罪を立証する証拠だ。彼女の唇に、薄い笑みが浮かんだ。駐車違反の摘発件数が少ないと上司に小言を言われ続けた日々は、これで終わりだ。彼女は単独で詐欺師を逮捕し、手柄を立てたのだ。数分後、応援の警察官がアパートに到着した。サイレンの音が夜の静寂を破り、赤と青の光が窓の外で瞬いた。有紀は男を警官たちに引き渡し、現場の状況を簡潔に説明した。鞄の中の証拠品は丁寧に回収され、男はパトカーに連行された。新宿署に戻ると、佐藤警部が珍しく笑顔で彼女を迎えた。「谷口、刑事課に推薦してやるよ」との言葉に、彼女の胸は熱くなった。この事件は署内でたちまち話題となり、谷口有紀の名前は一躍知れ渡った。彼女はただの交通課の婦警ではなく、犯罪者を捕まえた英雄として、新たな一歩を踏み出した。窓の外では、新宿の夜が静かに続き、彼女の勝利を祝福するかのように、遠くで街の明かりが瞬いていた。


