琉球結界戦線(05)
祠の奥に鎮座する白いシーサーは、まるで人の訪れを長い間待ち続けていたような雰囲気を漂わせていた。大理石の肌にはひびひとつなく、陽の届かない地下にもかかわらず、その体表は光を内から発しているかのような滑らかな艶を持っていた。ただ、瞳だけはくぼみを残したまま、何も映していない。その空洞が異様に深く、見ていると吸い込まれそうな感覚になる。
帆夏はゆっくりと膝をついて、白いシーサーの正面に座った。両手を膝に置き、指先が小さく震えているのを抑えながら、慎重に口を開いた。
「この子が……“真核”だとしたら、私たちが今まで回ってきたノードは、すべてこの子を守るための外郭だったってことになる。つまり、このシーサーが“覚醒”しなければ、どれだけ周囲の結界を再起動しても、全体は完成しない」
「じゃあ、目を光らせるってのがその“起動”ってことか」
直輝が祠の入り口に立ちながら訊いた。明け方の光が背後から差し込み、彼の影がシーサーの顔にかかる。その瞬間、空洞の瞳がかすかに反応するように、ほんの微かに熱を帯びた。
「光に反応してる……?」
「違う。“気配”よ」
帆夏が静かに言った。
「直輝、さっき、“お前にとって守るべきものは?”って言ったとき、答えに詰まってたよね」
「……ああ」
「けど、あのあと。戦って、選んで、回ってきた。今、もう一度聞かせて。あなたが守りたい“那覇の今”って、何?」
祠の中の空気が、沈黙のように重くなる。直輝はゆっくりと歩を進め、白いシーサーの前に立った。崇めるでもなく、畏れるでもなく、ただ“対話するように”。
彼は数秒の間、目を閉じて、心の中を覗き込んだ。そして、はっきりとした声で答えた。
「俺は……“変わり続けること”を守りたい。この街がどんなに古くても、どれだけ文化を継いできたとしても、今ここに生きてる人たちが、毎日違う自分を生きてる。それが“那覇の今”だ。昨日の続きじゃない、“今日を選ぶ自由”がある。それがあるから、俺はこの街に居ていいと思えた」
その言葉に反応するように、白いシーサーの口元がわずかに開き、空洞だった瞳に光が宿りはじめた。ほんの微かな金色の輝きが中心に浮かび、そのまま左右に広がるように“輪郭”が描かれた。
「動いた……」
帆夏の声は驚きというより、納得に近かった。
「この子の瞳に必要なのは、祈りでも知識でもない。“今ここに立つ理由”だったんだ」
光が徐々に強まり、地下の祠全体が淡い金の霧に包まれていく。その光は温かく、けれど何かを浄化するような力強さも持っていた。
「起動を……確認。中枢核シーサー、稼働率36%……55%……72%……」
帆夏の手に握られた結界符が熱を帯び、空中で小さく弾けた。その火花が宙に浮き、シーサーの肩口に焼き印のように沈み込む。
「リンク成功。“那覇の今”が核と接続された。これで、結界全体が“私たち”のものになる」
その瞬間、地上全域に広がる霊的な圧が緩やかに崩れていった。市内のシーサー像のいくつかが一斉に光を帯び、これまで不気味に黙していた石獣たちが、まるで一斉に呼吸を始めたかのように目を開いた。
「繋がった……!」
悠平が墓の外で声を上げた。「結界の流れが変わってる。霊の圧力が“反転”して、向こう側へ戻されてる」
「じゃあ……」
「まだ終わりじゃない」
その声は、背後から聞こえた。白いシーサーの祠の奥、かつて通じていたであろう洞窟の崩れた先。その隙間から、“人間の形をした霊”が現れた。
「ここにあるのは、お前たちの守る“今”かもしれない。でも、それが“奪ってきた過去”だってこと、忘れるな」
その霊の瞳は、かつてシーサーに“祈りを捧げた誰か”のものであるように見えた。怒りでも悲しみでもなく、ただ、語り継がれることなく埋もれた記憶の残滓。
帆夏は一歩前に出て言った。
「その過去も、私たちの“今”の中にある。忘れない。けど、飲み込まれるわけにもいかないの。私たちは、今日を生きてるから」
霊は黙った。まるでその言葉の中に、自分の存在意義を問い直しているかのように。そして次の瞬間、空気が静かに震え、霊の姿はゆっくりと霧に溶けていった。
直輝が振り向く。
「これで……守れたか?」
帆夏は頷いた。
「ううん、違う。“選んだ”の。これからも、毎日。街を、言葉を、人を」
シーサーの瞳は完全に輝きを取り戻し、結界は完成した。
那覇の夜が、ようやく本当に明け始めていた。
(次:06へつづく)