琉球結界戦線(04)
夜明け前の空は重く、那覇の海から吹き上がる湿気が街の隙間という隙間に染みわたっていた。すでに三つ目の結界ノードが起動されたはずの市内では、かすかに空気の濁りが収まり始めていた。だが、油断はできない。結界が張り直された分、霊的な侵食も苛立っている。まるで抑え込まれた獣のように、違う隙間から喉を鳴らし始めていた。
直輝はその変化を、皮膚感覚で察していた。これまでの人生で霊に対する“知覚”など一度もなかったはずなのに、今は湿度の中に混じる目に見えない変調を肌で感じ取ることができるようになっている。それが“学んだこと”なのか“鍛えられた感覚”なのか、自分でも分からない。ただ、霊の気配を知覚できるようになったことと同時に、彼は自分の中に眠っていた“行動への覚悟”をようやく掘り起こした気がしていた。
「直輝、次の場所、南風原だって」
帆夏がそう告げた。制服のまま肩に結界符を結んだ彼女は、夜を徹してすでに二度目のノード修復を終えていたというのに、その姿に疲れは見えなかった。強い、というより、責任を背負うことに迷いがない。彼女は人の感情に強く引かれるからこそ、自分の選択に対してはいつも確信していたいのだ。感情の共有を求める性質が、誰よりも冷静に見える彼女の根底に、燃えるような“怖れ”と“信念”を共存させていた。
「南風原のノードって、確か旧軍司令部跡の裏手……だよな?」
「うん。洞窟構造の中に“地底結界”が組まれてる。そこに霊が逃げ込んでる。時間稼ぎにはちょうどいいってわけ」
「そいつら、逃げるってことを覚えたのかよ。まるで意志があるみたいに」
「あるよ。最初から。マブイグミは人の未練や執着で構成されてる。つまり、人間に似た知性の塊ってこと」
そこへ悠平がやって来た。半袖のシャツに長ズボンという不思議な格好で、それでも涼しげにタオルを首にかけている。
「行く前に、ちょっとだけ寄りたい場所がある」
「どこ?」
「俺のじいさんの墓。多分、結界コードの基盤が仕込まれてる」
「墓にか?」
「うちの家系は元々“奉納石工”。祭祀と石碑の管理を任されてた。だから、じいさんの墓石に何かしら“鍵”があるはずだ。霊と結界の距離を縮めるための、な」
その言葉に帆夏は頷いた。
「直輝、行こう」
そのまま三人は小さな車に乗り込み、南風原の裏手にある墓地へ向かった。早朝の墓地にはまだ夜の気配が残っていて、空には青と灰色がまばらに滲んでいた。
墓は、想像以上に古かった。御嶽を模した石積みの中央に立つ墓標。その前に立った悠平は、無言で線香を立て、拝礼を済ませた。そして、ゆっくりと墓石の下部に指を添える。
「……やっぱりだ。ここに“文字”が刻まれてる」
そこには、風化した石の間にわずかに残る楔形の刻印があった。
「これは……旧琉球統一前の“祭名”。つまり、個人ではなく“封印者の名”だ。じいさんは本当は……“鍵守”だった」
「鍵守?」
「封印の器を保つ役目。つまり、この墓そのものが“最後のノード”だ」
直輝の背筋に電流が走った。
「じゃあ、俺たちが回ってるノードって……すべてここに流れてる?」
「そう。中央の封印は首里城に見せかけて、真の封印は“ここ”にある」
その瞬間、地面が震えた。小さく、だが確実に。遠くから聞こえるような唸り声。それは海からではなく、地下から上がってくる振動だった。直輝が身構える。だが、それよりも早く、帆夏が符を取り出して地面に貼りつけた。
「“出る”。これはマズい。結界が引き寄せた霊の圧が強すぎる。中に封じてた“何か”が反応してる!」
悠平が墓石に両手を当てた。「動かせる。こっち側に“開き”がある。直輝、来い!」
直輝はためらわなかった。その時にはもう、自分が“後ろに引く”ことに意味がないと知っていたからだ。石をずらすと、下には小さな石の階段が伸びていた。その先にあったのは、小さな祠のような空間。だが、その中心に“何か”が鎮座していた。
それは、白いシーサーだった。全身が大理石で彫られ、赤い琉球染めの模様が生々しく刻まれていた。だがその瞳だけが——空洞だった。
「この子が……“本体”?」
帆夏が震える声で言った。
「そう。この子が、“すべての結界の主核”。この目を“光らせる”ことができれば、全ての侵食は止まる」
「でも、どうやって?」
その問いに、誰も答えられなかった。
祠の外では、再び地鳴りが始まっていた。
全ての結界がこの一点に向かって流れ込む。
選ばれたのは、彼ら自身。
答えは、まだない。
(次:05へつづく)