琉球結界戦線(03)
夕暮れの那覇市内、天久の高台に位置する海岸寺跡地は、もともと風の強い場所だった。だが今その風は、何かを押し戻すように不規則で、金属のようにひりついた冷気を帯びていた。潮風に混じる気配の正体は、確実に“霊”のものだった。直輝たちが到着した時には、崖の上に据えられていたシーサーが、既に倒れ伏し、赤い苔のようなものがその口元から垂れていた。
「これが……“侵食”か」
悠平が低く唸るように言った。帆夏は崩れたシーサーに近づき、慎重に両手を合わせた。小さな祈りの動作だったが、風がぴたりと止まった。静寂の中、帆夏が目を閉じて手のひらをかざすと、空間がわずかに青白く揺れた。
「まだ間に合う。基盤コードの結界線が完全に切れてない。これなら修復できる……」
「どうやって?」
直輝が訊くと、帆夏はポーチから取り出した“結界符”をシーサーの台座に貼りつけた。符夜の那覇は、昼間の喧騒が嘘のように静まる。観光客で賑わっていた国際通りも人の気配が消え、商店のシャッターが音を立てて閉まり始めると、都市の裏面がゆっくりと姿を現すようだった。風の向きが変わるたびに潮の香りが混じり、湿った空気が肌にまとわりつく。
その空気に、何か異物が混ざっていた。霊的な“圧”とでもいうべきもの。喉の奥がざらつくような、金属と血を混ぜたような匂いが漂っていた。
久茂地交差点の裏手。コンクリートの高層ビルと古い木造の空き家が並ぶ異様な構成の街区に、そのノードはあった。かつて公民館として使われていた平屋建ての建物の裏庭。その地面に、割れた石柱とともに、崩れたシーサーが転がっていた。
「ここも“倒れてる”か……」
直輝が呟きながら前に出た。足元に散らばる破片を避けながら、慎重に崩れたシーサーの台座を確認する。先ほどと同じ赤い苔のような物体がこびりつき、すでに“中”から何かが溢れ出した痕跡がある。
「時間がない。封印の本陣にまで影響が出る前に、こっちも起動する」
帆夏はそう言いながら結界符を準備する。だがそのとき、彼女の手が止まった。
「……結界線が、二重に裂かれてる」
「どういうことだ?」
「誰かが、すでにここに触れてる。“もう一つの選択”がされてるってこと。“正しい封印”が二通りあって、それを“喧嘩”させてる」
「つまり……」
「“嘘の起動者”がいる」
その場の空気が変わった。まるで空間そのものが“誰かの意志”に監視されているかのような圧力。静かだった風が、ひとつにまとまって押し寄せてくる。
「直輝、左!」
帆夏の叫びと同時に、直輝は身体を反転させた。その背後から、音もなく迫ってきていたのは“人の形をした影”だった。だが顔も指も、明確な形を持たない。ただ立っている。ただ“そこにいる”だけで、周囲の空間を引き裂いていた。
「霊障じゃない、“コード違反者”……!」
美佳が叫ぶ。彼女の目には、現実にないものが映っていた。その視線の先、シーサーの破片がひとりでに浮かび上がり、空中で逆回転するように組み上がり始める。まるで、誰かがこの場所を“別の意志”で修復しようとしているかのように。
「このままじゃ、“別の結界”が上書きされる!」
「それってどうなる?」
「こっちの意思じゃなく、相手の選んだものが固定される。“誰か”が、那覇の境界を乗っ取ろうとしてるの!」
「ふざけんなよ……!」
直輝はシーサーの台座へ飛び込んだ。その瞬間、周囲の空気が一変した。影が大きくうねり、抵抗するように空間を歪める。地面が爆ぜ、光の筋が走る。
「選べ!この場所に“何を守る”かを!」
帆夏が叫ぶ。
だが直輝の頭の中には、守るべきものが瞬時に浮かばなかった。この場所に何があるのか?誰のために?自分は那覇の何を知っている?何を救おうとしている?
「……俺には、まだ分からない。でも!」
振り返りながら叫ぶ。
「それを“奪われる”ことだけは、絶対に嫌だ!」
その叫びが、シーサーの台座に伝わった。破片が震え、符が青く光る。
「守れ、“意思”を!」
その瞬間、周囲の空気が弾けた。影が裂けるように後退し、空中に浮いていたシーサーのパーツがばらばらに砕け、崩れ落ちた。
再起動されたノードから、静かに結界の波紋が広がる。
帆夏が確認するように呟いた。
「久茂地ノード、復元率88%。出力安定」
美佳が息を吐いた。
「なんで“私たち”がこんな戦いしなきゃいけないんだろうな……」
「でも、他に誰がやる?」
まみの声だった。いつの間にかその場に立っていた。彼女は制服のまま、濡れた髪をタオルで拭きながら言った。
「私はここにいる。責任って、そういうことだから」
その声に、誰も反論しなかった。
六人の影が、久茂地の闇に重なっていた。
この街は、まだ守れる。
その“責任”が、彼らの“誇り”になり始めていた。
(次:04へつづく)には古琉球の文字で「結」「心」「真」と三つの印が重ねて記されていた。
「この符は、意志の断片を媒介にして結界の波動を再結晶させる。要するに“その場にいる人の決意”を力に変える装置。けど、これは一人じゃ動かない。最低三人以上が“何を守るか”を同時に意識しなきゃ、力が偏って爆散する」
「えげつないシステムだな……結界の中に、心を問うってのか」
「霊的な秩序は、あくまで“生きた人間”の認識が軸になる。だから、“正しい選択”より、“選ぶ覚悟”が問われるの」
その時、坂の下から駆けてくる気配があった。
「遅れてごめん!あとから加わるの、好きじゃないんだけど……!」
声と共に現れたのは、美佳だった。金のピアスを揺らし、どこか不機嫌そうな顔つきのまま、しかしまっすぐな足取りで崖に上がってきた。
「なんか“結界”がどうとか“霊”がどうとか聞いたけどさ。私さ、霊感ってもんないのよ。けどね、ひとつだけ信じてることがある」
美佳は崩れたシーサーの横に立ち、指をその目元に軽く触れた。
「“こいつが笑ってる限りは、ここに災いは入ってこない”。それがばーちゃんの口癖だった。だからこの子が壊れたって聞いて、来るしかないと思った」
「……理由としては、十分」
帆夏が小さく笑い、彼女の手に結界符の端を渡した。
「じゃあ、三人。“選んで”」
直輝、美佳、帆夏の三人が、崩れたシーサーの前で肩を並べた。風がまたひときわ強くなり、赤い苔の残滓が空中に舞い上がる。あたりの空気が歪み、まるで空間そのものが沈みこむような重圧が背中を押した。
「何を守る?」
帆夏の問いかけに、直輝は即答できなかった。
学ぶことに関心がなかった自分。何かを深く考える癖をつけられなかった自分。でも今だけは、言葉が必要だった。
「……この街の“今”。変わり続ける“今”が、俺にとっての“本物”だから」
「私は、“誰かが信じた笑顔”。それを守りたい」
「私は、“意思”。自分で選ぶってことを、この場所で守りたい」
その瞬間、三人の前で結界符が燃え上がった。だが熱はなく、爆風もなかった。ただ、深い波紋のような衝撃が空間に走り、倒れたシーサーが再び青白く発光した。
「起動……確認。海岸ノード、復元率92%。出力安定」
帆夏が小さく呟いた。
その背後で、悠平がポケットからなにかを取り出す。小さな金属製のカードキー。それは、先代の“結界管理者”だった祖父の遺品だった。
「次は久茂地。そこも異常値出てる。今夜中に“二箇所目”も抑えるぞ」
「六人でやれるか?」
「やれる。“誰かに任せる”って世界が終わったんだよ。今は“自分で混ぜる”時代だろ?」
「それ納豆の話かよ」
誰かが笑った。
だが、確かにこの笑いは“結界”の中でしか生まれない。
街を守るとは、ただ過去の遺産をなぞることではない。
それを“今”の言葉と意思で繋ぎ直すこと。
新しい琉球の“コード”は、ここに組まれ始めていた。
(次:03へつづく)