琉球結界戦線(02)
夕暮れの那覇市内、天久の高台に位置する海岸寺跡地は、もともと風の強い場所だった。だが今その風は、何かを押し戻すように不規則で、金属のようにひりついた冷気を帯びていた。潮風に混じる気配の正体は、確実に“霊”のものだった。直輝たちが到着した時には、崖の上に据えられていたシーサーが、既に倒れ伏し、赤い苔のようなものがその口元から垂れていた。
「これが……“侵食”か」
悠平が低く唸るように言った。帆夏は崩れたシーサーに近づき、慎重に両手を合わせた。小さな祈りの動作だったが、風がぴたりと止まった。静寂の中、帆夏が目を閉じて手のひらをかざすと、空間がわずかに青白く揺れた。
「まだ間に合う。基盤コードの結界線が完全に切れてない。これなら修復できる……」
「どうやって?」
直輝が訊くと、帆夏はポーチから取り出した“結界符”をシーサーの台座に貼りつけた。符には古琉球の文字で「結」「心」「真」と三つの印が重ねて記されていた。
「この符は、意志の断片を媒介にして結界の波動を再結晶させる。要するに“その場にいる人の決意”を力に変える装置。けど、これは一人じゃ動かない。最低三人以上が“何を守るか”を同時に意識しなきゃ、力が偏って爆散する」
「えげつないシステムだな……結界の中に、心を問うってのか」
「霊的な秩序は、あくまで“生きた人間”の認識が軸になる。だから、“正しい選択”より、“選ぶ覚悟”が問われるの」
その時、坂の下から駆けてくる気配があった。
「遅れてごめん!あとから加わるの、好きじゃないんだけど……!」
声と共に現れたのは、美佳だった。金のピアスを揺らし、どこか不機嫌そうな顔つきのまま、しかしまっすぐな足取りで崖に上がってきた。
「なんか“結界”がどうとか“霊”がどうとか聞いたけどさ。私さ、霊感ってもんないのよ。けどね、ひとつだけ信じてることがある」
美佳は崩れたシーサーの横に立ち、指をその目元に軽く触れた。
「“こいつが笑ってる限りは、ここに災いは入ってこない”。それがばーちゃんの口癖だった。だからこの子が壊れたって聞いて、来るしかないと思った」
「……理由としては、十分」
帆夏が小さく笑い、彼女の手に結界符の端を渡した。
「じゃあ、三人。“選んで”」
直輝、美佳、帆夏の三人が、崩れたシーサーの前で肩を並べた。風がまたひときわ強くなり、赤い苔の残滓が空中に舞い上がる。あたりの空気が歪み、まるで空間そのものが沈みこむような重圧が背中を押した。
「何を守る?」
帆夏の問いかけに、直輝は即答できなかった。
学ぶことに関心がなかった自分。何かを深く考える癖をつけられなかった自分。でも今だけは、言葉が必要だった。
「……この街の“今”。変わり続ける“今”が、俺にとっての“本物”だから」
「私は、“誰かが信じた笑顔”。それを守りたい」
「私は、“意思”。自分で選ぶってことを、この場所で守りたい」
その瞬間、三人の前で結界符が燃え上がった。だが熱はなく、爆風もなかった。ただ、深い波紋のような衝撃が空間に走り、倒れたシーサーが再び青白く発光した。
「起動……確認。海岸ノード、復元率92%。出力安定」
帆夏が小さく呟いた。
その背後で、悠平がポケットからなにかを取り出す。小さな金属製のカードキー。それは、先代の“結界管理者”だった祖父の遺品だった。
「次は久茂地。そこも異常値出てる。今夜中に“二箇所目”も抑えるぞ」
「六人でやれるか?」
「やれる。“誰かに任せる”って世界が終わったんだよ。今は“自分で混ぜる”時代だろ?」
「それ納豆の話かよ」
誰かが笑った。
だが、確かにこの笑いは“結界”の中でしか生まれない。
街を守るとは、ただ過去の遺産をなぞることではない。
それを“今”の言葉と意思で繋ぎ直すこと。
新しい琉球の“コード”は、ここに組まれ始めていた。
(次:03へつづく)