バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

琉球結界戦線(01)

 石垣の向こうから聞こえた唸り声は、ただの動物の咆哮ではなかった。地面の底から響くような重低音と共鳴し、耳ではなく骨に伝わってくる異様な波動を帯びていた。それはあきらかに“言語ではない意思”だった。警告でも脅しでもない。ただ、存在を知らせるような音。それが逆に、生理的な恐怖を掻き立てた。

 直輝はその場に立ち尽くしながらも、視線を前方へと向けた。崩れかけた門の奥、苔むした石畳の先に、黒い塊がぬるりと揺れていた。輪郭がはっきりしない影。まるで煙と液体が混じったような、重力を無視して滲む存在。だがそれは、間違いなく“目”を持っていた。人間とは違う、けれど意志の宿った眼光が、彼らを見下ろしていた。

 帆夏が息を呑んだ。

「出てる……もう半分以上“実体化”してる。ここ、もたない」

 直輝は思わず後ずさりながら言った。

「何なんだよあれ……幽霊か?獣か?」

「“マブイグミ”の成れの果て。“抜け落ちた魂の塊”よ。沖縄には昔からそう呼ばれてる。肉体のない記憶や感情が、積もって積もって、まとまりになったもの。それが負の感情でできてる場合、霊障を越えて実体を得る。そして——“結界を喰う”の」

「結界を……喰う?」

「うん。結界っていうのは、空間の“織り目”みたいなものでね。シーサーはその目印。けど、今あれは裏返ってる。“護り”じゃなくて“出口”になっちゃってるの」

「じゃあ封じ込める手段は……」

「ある。“起動キー”があれば。那覇市内の七つの神場にそれぞれシーサー結界中枢がある。そのうち三つのノードを再起動できれば、中央制御核——“首里城の封印陣”が再稼働する。けど……今は中枢座標が全部沈黙してる」

「それってつまり……?」

「私たちで“全部回らないといけない”ってこと」

 直輝は思わず笑った。危機的な状況の中で、なぜか滑稽に思えたのだ。自分はたかが空撮マニアで、学校でも勉強そっちのけの落ちこぼれ扱い。それが今や“都市の結界起動チーム”の一員にされようとしている。

「なあ、帆夏。お前……これ、どこまで知ってた?」

「ある程度は。私の家系は“結界維持補佐”。父も祖父もシーサー結界のメンテナンスに関わってた。でも、霊の実体化までは前例がなかった。これは……異常なの。しかも、私ひとりじゃ止められないって、はっきり分かった」

 その目は強かった。誰かに背中を押されたわけではない、自分で選び、自分の足で踏み込んでいる目だった。直輝はその目を、少しだけ羨ましいと思った。

「なら、協力するさ。けど俺、正直この手の知識、さっぱりだぞ?」

「いいの。あんたは、“変われる”から。変化に強い人間は、霊的な乱れに対抗しやすい」

「どんな根拠だよ……」

「直感。というか、“相性”ってヤツ」

 そのとき、遠くからバイクの音が近づいてきた。路地裏を滑るようにやってきたのは、陽射しの下でサングラスを外しながらヘルメットを取る悠平だった。彼は前にいる影に一瞥をくれたあと、何のためらいもなくこう言った。

「ヤバそうなもんに目をつけられてるらしいじゃん。手伝う。ついでに、俺にも説明しろ」

「……来ると思ってたよ」

 帆夏がふっと笑った。

「あとで神場を回る。“次に行く場所”は決めてある?」

「天久の海側。“崖のシーサー”が倒れたって話を聞いた」

 悠平は頷き、タオルで首筋を拭きながら言う。

「あと三人くらい、声かけといたほうがいい。たぶん、もう“敵”はこの街に根付いてる。マブイの成れの果てが個別に動いてるなら、最低でも六地点同時対処が必要になる」

 帆夏は頷き、スマホを操作した。

「じゃあ美佳、卓、まみにも連絡入れる。たぶん……この結界、ただの防御じゃない。“選別装置”なんだよ。何を守り、何を祓うか、それを“私たちの意思”で決めるもの」

 直輝はその言葉に、はじめて背筋が伸びた気がした。守るだけじゃない。結界は、選ぶためにある。意思のない封印ではない。“生きた霊的境界線”。それを動かすのは、道具ではなく人間自身なのだ。

 黒い影は、いまだ石垣の向こうで蠢いている。

 だが、それに対抗するための“コード”が、ようやく結ばれようとしていた。

(次:02へつづく)

しおり