琉球結界戦線(00)
那覇の空は、いつだって強い。湿度を孕んだ風が昼夜を問わず街を包み、空気は重たいのに、どこか懐かしく、深く息を吸いたくなる。古くからの住宅街と、観光地として整備された国際通りが地続きで存在するこの街には、現代と霊的な過去とが交錯していた。だが、それが文字通り“侵食”を始めていることに、まだほとんどの住民は気づいていない。
直輝が異変に気づいたのは、空港近くの埋立地で撮影していたドローン映像を確認していたときだった。彼は趣味で廃墟や未整備区域の空撮をするクセがあり、その日も貨物ヤードの裏にある立入禁止区域を飛ばしていた。そこに映っていたのは、地面を覆う黒い“影”だった。広がる影は、建物や車両の輪郭を吸い込むように飲み込んでいき、やがて画面がブツリと途切れた。
「……バッテリーじゃねぇな、これ。電磁干渉か?」
彼は眉をひそめながら、スマホの再生ボタンを何度も押した。しかし再生中の映像は同じ場所で止まり、再生バーは“記録不明”の文字を繰り返すばかりだった。
「まぁ、いっか。明日また飛ばせば……」
そう思った矢先、部屋の外で何かが倒れる音がした。直輝は立ち上がり、窓の鍵を確認し、玄関のドアスコープを覗いた。誰もいない。だが、彼の背後、机の上に置いてあったはずのシーサーの置物が、床に落ちていた。真っ二つに割れていた。
「あれ……?」
それはただの陶器製の土産物だった。那覇に住んでいる家のほとんどが玄関や門柱に“置いている”存在、観光グッズとして全国に出回るその獅子像が、割れた。
翌朝、登校すると、校内でも妙な話が広がっていた。誰かの自転車が“影の中に沈んで消えた”とか、夜の部室棟で“赤い眼のシーサーに睨まれた”とか、明らかに都市伝説じみた怪談が複数、しかも日に日に“事実として語られる”ようになっていた。
「直輝、お前……昨日、映像撮ったって?」
声をかけてきたのは帆夏だった。いつも凛としていて、感情を表に出すタイプではないが、今日の彼女は少しだけ声が荒れていた。
「見せてくれない?あんたが撮ったっていうヤツ」
「……誰に聞いた?」
「悠平から。昨日の放課後、あんたが再生できないって文句言ってたの、近くで聞いてたって」
「おいおい、あいつ盗み聞きかよ……まぁいい。これだ」
スマホを渡すと、帆夏は無言で再生した。しかし、映像はあの影を映した直後、突然フリーズし、そこから黒画面に切り替わる。
「……この“歪み”」
彼女は小さく呟いた。
「この波紋……“霊圧”の圧縮反応じゃない。まるで、何かが逆に、“霊を吸い込んでる”みたい」
「は? 何言って――」
「いいから放課後、つきあって。神里の石垣のとこ、最近変なんだ」
その言葉に、直輝は眉をひそめた。帆夏がこんなふうに主導して行動を求めてくることは滅多になかった。それだけで、この異変がどれだけ現実に近いのかを思い知らされた。
放課後、彼らは神里の路地裏に足を踏み入れた。赤瓦の屋根、琉球石灰岩で作られた古い垣根、その奥にある誰も住んでいない空き家の門に――“巨大な黒い歯型”が残っていた。壁の一部がまるで火薬を仕掛けられたように焦げ、だが火の跡ではない。熱を感じないまま、焦げている。
そして、門の隅にあったシーサーが、完全に逆さになっていた。口を大きく開き、瞳だけがかすかに光っていた。
「直輝、あれ、“起動してる”」
帆夏の声が震えていた。
「シーサーは、護り神でもあるけど、“封印器”でもあるの。霊圧を押し込めてる。なのに、今あれは“外に出そうとしてる”。……内側から、結界を破ろうとしてる何かがいる」
「……まさか、観光地の守り神が“兵器”とか言わないよな?」
帆夏は、目だけで頷いた。
「那覇のシーサーはね、“琉球結界群”のノードなんだよ。それぞれの家に置かれてるのは、結界を均等に貼るためのセンサー。もしそれが割れると、結界網がゆがむ」
「で、俺んちのシーサー……昨日割れた」
ふたりの間に、言葉が落ちた。
「つまり、侵食が始まってるってこと」
そう結論した直後、地面の下から重く響く“唸り声”のような震動が、二人の足元を駆け抜けた。
そして、石垣の向こう、空き家の中庭で、ふいに“唸り声”が実体を伴って吠えた。
「ウァァァァ……ォオオ……!」
空が、鳴った。
琉球の結界が、破れかけていた。
(次:01へつづく)