◇マハルの花嫁◇
混沌の只中――。
あの声が響いた瞬間、辺りを支配していた全ての攻撃が、一斉にかき消えた。
切り裂く暴風も、百本の矢も、カボチャを地に縫い留めた風も、マハルを苦しめた呪術さえも。
それら全てが、まるで幻のように封じられ、瞬時に消滅する。
そして代わりに襲いかかったのは、空から押し潰すような重力。
二人は呻き声を漏らしながら地面に叩きつけられ、その身をめり込ませる――。
そのすぐそばに姿を現したのは、宝玉の実によって動けないはずだったシュケルだった。
地面へと静かに降り立つと、二人の頭上まで歩き、足を止める。
見上げたマハルとカボチャは、驚きと戸惑いの眼差しを向けた。
「フフフ、何故? と問う顔ですね」
カボチャは(なんで僕まで……!)と無言で睨みつける。
「おやおや、喧嘩両成敗という言葉をご存知ありませんか? お二人とも、さすがにやり過ぎですよ」
かつて森だった場所は、今や見る影もない。
荒れた大地は、当初のふた回り……いや十回り、それ以上に広がっていた。
ここが人里からおいそれと近寄れないほど離れていて、本当に幸いだったと言うべきか。
とはいえ、森の生き物たちは内心、涙していることだろう。
「それでは暫し、お仕置きの時間といたしましょう。どちらが先がいいですか?」
いつものように瞼を穏やかに閉じ、そりゃもう幼子を宥めるような声色と物腰。……なのに、伝わってくるこの謎の威圧感。
なんだか分からないがとにかくマズイ、と直感するマハルと、頭をかきむしりたい衝動に駆られるカボチャ。
シュケルは魔力量でいけばカボチャに劣るくせに、魔力の扱いが段違いに上手い。技量が違うのだ。悔しいが、だからこそ実力はカボチャ以上と言ってもいい。
(だからコイツが嫌なんだよ!)
「ご希望があれば添いますが?」
だが重力で無理矢理地面に押し付けられている二人には、まともに返答する余裕などない。
「……仕方がありませんね。では、まずはマハルから」
「!」
「フフフ、安心してください。私の承諾を得ずに宝玉の実を使った件に関しては、この際、百歩譲って目を瞑りましょう」
譲るな、とカボチャは怒鳴りたかった。
「ただ、ずいぶんと――」
カボチャを一瞥するシュケル。
一度は真っ二つにされていたかも知れないその身体は、暴風の刃でズタボロ。一部を切られた長髪に、血の滲む頬。首元にはくっきりとマハルの手の痕。そして、何度も死にかけたカイン。
「……彼らを、いたぶってくれましたので」
「ぐあっ!」
ドスン、とマハルの身体がさらに地面へめり込んだ。
「それ相応のお礼を、させていただきたいですね」
しゃがみ込み、じろりと覗き込むシュケル。今度はカボチャの方へ向き直る。
「カボチャ、重力というのは、こう使うのが効果的ですよ。この機会に覚えておくといいでしょう。フフフ――もっとも、貴方には難しいかも知れませんが」
(それくらい、いくらなんでも出来るわボケッ!)
怒鳴りたくとも、唸る声しか出せない。
「さてはて、次はいかがいたしましょう。ご要望は、なんなりと」
もちろんマハルも、苦しげに呻くのがやっとだ。
涙眼の二人がどうなったかは――まぁ、想像にお任せするとして。
いい加減、見かねた声がそれを制止した。
「そこまでにしてやれ」
現れたのは、この場で誰よりもガタイが良く、若干露出気味の黒衣の男。ついでにこの場で一番、髪が短い。
何を隠そう、魔王セオドアだ。
左腕にタージを抱き上げ、そのままシュケルのもとへ歩み寄る。
「お前もやり過ぎだ、シュケル」
その背後から、ひょこっとカインが姿を現した。
「ほんとほんと、俺も一発殴る気うせちまったじゃんか」
「見ろ、この娘の顔を。事情が事情だけに、止めに入ることもできずといった様子だぞ」
確かにタージは瞳を潤ませ、あわわあわわと言うのが相応しい顔でおろおろとしている。
「フフフ、私ではなく、魔王さまを恐れているのでは?」
「なるほど確かにな。余は大柄なうえ顔も怖い、醜い痣もある。女子供からしてみれば、そう思われても仕方あるまい」
などと本人は言っているが、実のところ、かなりの男前である。カタカナで言えばハンサムだ。
ただ顔の右側から腕先にかけて広がる浅黒い痣にばかり視線が奪われるせいで、気づかれにくいのが惜しいところ。
しかも、本人にもまったく自覚がない。
その事実を初めて指摘したのは、何百年と付き合いのあるシュケルでも、カボチャでもなく、まだ出会って数十年のカインだった。
「お、お怪我は……さ、さっきは、し、死んでしまうかと……」
しゃくりあげながら言うタージに、マハルはうろたえた顔で手を伸ばす。
「た、タージ……?」
弱りきった声で名を呼ぶも、タージは涙をこらえながら叫んだ。
「いくら、わたくしと婚姻を挙げたくないからとて……こんな、こんな関係のない方々を無理矢理巻き込み、犯罪まがいのことをするなど……あんまりではございませぬか!」
タージは岩の小槌を出現させ持ち上げた。
「ま、待てタージ!」
「問答無用です!」
涙声のまま断ち切られ、マハルは思わずムッと頬を膨らませた。
「そもそもソナタのせいではないか……!」
何やら喧嘩を始めた二人をよそに、カインは埋まっているカボチャへと近寄った。
「カボチャ〜、大丈夫か?」
「こ、れが大丈夫に見えんのか……?」
カボチャが弱々しく呻く。
カインは「全然」と即答しながら、ふと横から伸びてきた白い手に気付いた。
その手は、カボチャの腕をつかみ、ズルズルと無理やり引っ張り上げる。
「フフフ、大袈裟ですねぇ。きちんと手加減してさしあげたというのに」
カボチャは半ば引きずり出されながらも、恨みがましくじろりと睨みつける。
その視線の先――シュケルの服の胸元は不自然に裂けていた。
カボチャはその胸ぐらを鷲掴む。
「シュケル、これは……いったいどういうことですか?」
シュケルはカボチャの手をやんわりとほどきながら、あくまで穏やかな調子で語り出す。
「身動きこそ取れませんでしたが、魔力を封じられているわけではありませんでしたので、体調を回復させながら、体内にある宝玉の実を時間をかけて消滅させていました」
そんなことをさらりと口にする。
「幸い二時間も猶予がありましたので、異界に連れて行かれさえしなければ何も心配はいりません。最悪魔王様に私の時間のみを戻していただければ問題ありませんし……だと言うのに」
シュケルはあからさまにやれやれと首を振った。
「いくら帰るよう頼んでも全く聞く耳を持ってくれないのですから、二人には困ったものです。お陰で他に手が回りませんでした」
「は、はああああ!?」
散々人に苦労かけさせておいて、この言いぐさ。
なんだってこんな奴の為に焦ったり怒ったり心配したりしたのか。
カボチャの顔が怒りから赤くなったり青くなったり、やっぱり赤くなったりする。
するとカインが「あぁ」と申し訳なさそうな声を出す。
「ホントごめんなシュケル。城に戻れって、魔王呼んで来てって事だったんだろ? 俺全然気付かなくてさ~。確かに城に戻ったら直ぐにセオドアを頼ってたわ」
「フフフ、お気になさらず。そうなるだろうと思ってはじめから水晶へ頼んでおりましたので」
「確かに、水晶が余の所へ来たな」
そして此方へ来て見れば、矢の大群が地上の二人を狙い、カボチャは首を絞められ、片方は呪術をかけられ、シュケルは身動きとれず、カインは倒れており、少女は飛び出す。
何処から手をつければいいか分からない状況に迷わず時を止めたのだと魔王は言う。
「それでシュケルへ声をかけてみれば〝首を長くしてお待ちしておりましたよ〟と嫌み混じりに言われてな」
「私は〝ですが、助かりました〟とも申し上げましたが」
あのタイミングで、ちょうどシュケルの体内にある宝玉の実が消滅しようとしていた。
これでは間に合わない――そう思った、まさにその時。魔王が時を止めたタイミングは本当に絶妙だった。
しかも魔王はシュケルの時間だけは止めず、むしろ動かした。
そのお陰で宝玉の実は完全消滅。
魔王はカインの容態を確認し、問題ないと分かるとマハルの作った風の籠、その中にいるシュケルへ近付き「どうするつもりだ。余が引き受けるか?」と尋ねた。
するとシュケルはそれを断り、フフフと笑って「あとは私にお任せください」と一言。
魔王は「そうか」と言うとタージとカインを回収し、時を動かした。
――そのあとは知っての通りだ。
(つまり、最初っから僕は、僕たちは、必要なかったと言うことですね。むしろ場をかきむしりややこしくしただけだと、面倒事増やしやがってと言いたいんですね……!)
カボチャが心の中で盛大に地面を殴り付けた。
「だったら、だったら最初っから追いかけてくんなと言わんかいボケ!」
「そうは言っても伝える暇がありましたか?」
「うぐっ」
「それに何を言ってもきかないのは分かっておりましたので」
「うぐぐっ」
ぐうの音も出なくなるカボチャ。
「ごめんなシュケル~」
カインは眉をハの字にして、苦笑する。
「フフフ、謝る必要はありませんよ。少なくとも異界への足止めになりました。カインが来てくれなければ私は今頃こちらにいなかったかも知れませんので」
(おいちょっと待て、僕は!? 僕の存在は!?)
「そっか良かった~!」と笑うカインにシュケルは穏やかに礼を言う。
その様子に、これだからコイツはとムカムカムカムカしながらカボチャはその矛先をマハル達へ向けた。
「そっちはそっちでいつまで喧嘩してるんですか!」
すると二人はその場に正座と胡座をし、だってと言って互いを指差す。
「マハル様が……!」
「タージが……!」
二人同時に言い分を話そうとするのをシュケルが止める。
「フフフ、落ち着きなさい。それにマハル、年下の婚約者を泣かせるなど恥ずかしいとは思いませんか?」
実はタージはマハルより五つ下なのだ。この事実に関して何故シュケルが知っているのかと言うと、カインが砦のバルコニーに現れる前にタージと二人で会話を交わし、その時にシュケルが尋ねたからである。
マハルはギクッとし押し黙った。
「タージさん、貴女からどうぞ」
シュケルに促され、タージは居ずまいを正して話し出す。
「わたくしは、わたくしはずっと幼少の頃からマハル様だけを想って今日までまいりました。将来のために早い方が良いと両親らに勧められ、十二の頃に母体化の赤の実を取り込み、一度はこの身体を手にし、十五の頃に理由も教えてもらえず、マハル様に元に戻せと言われた時も、文句の一つも言わず黒の実を体内に取り込みました――あ、ちなみに黒の実は赤の実の逆の効果があり、この実(み)も便利です」
急に出てきた新アイテムの存在に一同は「便利なのか……?」と面食らう。
だがそれよりも、十二の頃にやら十五の頃にやらという話の方が衝撃だった。
「え、ちょっと待って、シュケルが動けなくなったあれを?」
カインは顔面蒼白におそるおそる尋ねる。
「はい」
頷いたタージにカインは気分が悪くなるのを覚えながら、マハルに何か言おうとして待てと言うようにカボチャにその口を手で塞がれた。
「そのあと数ヵ月も経たず、やはり以前の方がまだ良かったと言われて、わたくしは直ぐにこの身体へと……こんなに、こんなにマハル様の望むようにと努めて参りましたのに、わたくしを煩わしく思うだけでは飽き足らず、他の方を巻き込むなど」
目を真っ赤にさせて、はらはらと涙を流すその姿に一同、同情しない訳がない。
詳細を知らぬ魔王も、なんとなく事情を察してカボチャ達と一緒にマハルをじとーと見詰めた。
「マハルと言ったか……お前、恥ずかしくないのか」
「魔王さまの言う通りです。なんかもう本当に怒りを通りこして軽蔑と呆れとこんな男やめとけって感情しかわかないです」
「俺もカボチャと同じ」
弱ったマハルは違う違うちょっと待てと慌てて話し出す。
「そうではない! ワタシはただ、最初はただワタシのせいで身体を変えたのが忍びなく嫌なら身体を戻してよいと、けれど戻ったら戻ったでタージがやたらと妙なやからに好かれ始め妙な虫がつかぬようにとするにも限界が、だが今の身体になったらなったで余計、そもそもタージにはワタシ以外にも数えきれぬ程の許嫁が……!」
おっと、雲行きが怪しくなってきた。
「それは、わたくしが赤ん坊の頃に父様が勝手にいろんな方と……御家の仲に傷をつけるわけにもいかず致仕方なく、ですがわたくしはマハル様一筋!」
「嘘をつけ、百はいただろう相手が!」
「いえ、父様いわくもっといると、手当たり次第に約束したそうなので正確な数はちょっと……」
「なっ!?」
マハルは思わず絶句した。
「えぐいですね」
「そこまでくると本命は本当に自分なのか、疑心暗鬼にもなるだろうな」
「俺も心折れるかも」
カボチャ、魔王、カインは今度は可哀想な眼でマハルを見詰める。
「と、とは言え、全て婚姻前に清算いたしました! そう申したではありませぬか!」
「と言いながら、最後の思い出にと迫られて断りきれずに流されそうになったのはいったい誰か、ワタシが割って入らねばどうしていた!」
「誤解です!」
「そもそも清算したと言うなら何故、式の前夜にワタシは数人の男女に命を狙われねばならなかったのか」
「そ、そんな」
初耳だったのかタージは口元をおさえて眼を丸くした。
「だいいちこれまでにも……えぇいお前の周りにはろくな者がいない!」
完全にブーメランだが一同は今だけは黙っておいた。
「だからワタシは、どうせ夫婦(めおと)になるなら運命の相手が良いと、かねてからの想い人の元へ……それの何が悪い」
罰が悪そうに顔を背けるマハル。
「運命?」とカインは呟く。
するとそれに反応したのはタージの方だった。
「はい、マハル様は昔からシュケル様に助けられた事に恩義を感じ、彼との出会いは運命だったのだと話しておりました。大人になったら初恋の人を迎えに行くのだと」
いったいその話をどんな心境でわざわざ許嫁に話していたのか謎である。
だいぶ話がややこしくなって来たが、ずっと穏やかな物腰で、話に耳を傾けていたシュケルが口を開いた。
「マハル、貴方の気持ちはありがたいのですが、貴方も本気ではなかったのでしょう」
するとマハルはバッとシュケルへ振り向いて違うと弁解する「ワタシは本気で!」だがシュケルは首を振った。
「そうだとしても私が困るのですよ。何故なら」
シュケルは魔王の腕を引く。
「私はこの方と心を許しあった仲なので」
――場が、凍った。
「フフフ、そうですよね。魔王さま?」
「あぁ確かに、余もお前がいなくなると困る」
カインは涙目であわあわと(どういうことだよ!?)とカボチャへ助けを求めるが、カボチャも(こっちが訊きたいですよ!)と瞳を戸惑わせる。
流石のカインも〝心を許した仲〟というのがどういう意味か分からないほど、鈍くも疎くもバカでもなかった。
(え、え、俺自分が魔王の恋人だと思ってたけど違った!? 俺の勘違い!?)
(シュケルと魔王さまが!? いやない、絶対ない! あってたまりますか!)
だが、混乱し過ぎて二人は何も言葉に出来ない。
マハルは「そんな……」とその場へ手を付き、その端正な顔立ちに絶望の色を浮かべた。
そんなマハルに、シュケルは視線を合わせて屈む。
「マハル、貴方の初恋の相手になれて私も嬉しい限りです。ただ初恋と言うのは実らないからこそ良い思い出になるもの……それに」
シュケルはタージを見た。
「貴方にはもう既に、心から大切にしたい者が、本当はいるのではないですか?」
「え?」とタージは息をのむ。
マハルはゆっくりと起き上がる。眼をそらしながらも、タージへぎこちなく手を差し伸べた。
「帰るか……」
一瞬だけその言葉の意味に戸惑って、けれど直ぐ、タージは喜んで手をとった。
そんなこんなで、砦の中にある鏡の前へ集まる一同。
マハルは面々と順に目を合わせると「すまなかった」と頭を下げた。シュケルには申し訳もたたないと。
シュケルは「お気にせず。よくあることです」とこたえる。
まるで何事もなかったかのように。それにマハルは片眉を下げ、じゃあと踵を返す。
カインは「今度から相手の話はちゃーんと聞くんだぞ~!」と、手を振り。
カボチャは「……正直これでいいのか、全く府に落ちませんけどね。なんなら戻ってから上手くいくのか心配なくらいですけど、とりあえずもう二度と相手の意にそぐわない事はしないように」と、少しげっそりした顔で言う。
魔王は魔王で「伴侶を大切にな」と、腕を組み軽く手を振った。
マハルはタージと手を取り鏡へ向かう。
――結局、シュケルに指摘された事は全て図星だったのだ。
けれど正直こうなる事はどこかで分かっていたのかも知れない。それにしても初恋の相手は自分との約束さえも覚えていなかったと、少し寂しく思う。
こちらへ来た時と同じように鏡が夜空のような紺色に揺らめいた。
「マハル」
背後からシュケルの穏やかな声がかかる。
「――本当は、覚えておりましたよ。あの約束を」
マハルが振り向いた時には――もう既にその姿はなかった。
あるのは見覚えのある煌びやかな大きな楕円の鏡。
戻って来たのだ。風の大陸へ……。
誰かが二人の姿に気付いて、周りへ声をかけ、ざわざわと血相を変えて集まってくる。
マハルはタージの手を少しだけ強く握って言った。
「一つだけ、間違っていたぞ」
「え……?」
タージは不安げに見上げる。
「……初恋の人を〝迎えに行く〟などと、言った覚えはない。ただ、〝会いに行く〟と言っただけだ。初恋などと、一度も言っていない――昔も、今も」
マハルの声は何かを絶ち切るように、そしてタージへ何かを伝えていた。
物凄く回りくどいその言葉。
一瞬、何を言われたのか分からなかったタージだが、じわりとその意味に気づいて、嬉しさから瞳に涙がにじむ。
彼女は、くしゃりと笑って目元を拭う。
「……はい、はい!」
小さく、でもまっすぐに頷いて、両手でマハルの手を包み込む。
そして――マハルも、そっとその手を握り返した。