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第60話 ここに来て逃げる事の意味

 運用艦『ふさ』が出港してから一週間。

 予想通り誠はひたすら『吐き気』と格闘して医務室に寝たきりだった。

「誠さん。もう出かけても大丈夫ですよ。ドクターもそう言っていました」

 かわいらしいカーリーヘアーを揺らしながら艦所属の見慣れない看護師達と誠の介抱に当たっていた神前ひよこは、狭苦しい病室に閉じ込められて退屈していた誠にそんな優しい声をかけてきた。

「そうだね。胃もだいぶ軽くなったし……ちょっと出かけてくるよ」

 誠は心から優しいひよこの言葉に感動すら覚えながらベッドから起き上がった。

 ベッドに縛り付けられ、慣れない低重力の中で吐き続ける毎日。

 そんな一週間を過ごした誠は何とか誠にとっての天敵である低重力状態に慣れ、医務室から出た。

 そして気分を変えて得意の絵でも描こうと『展望ルーム』にたどり着いた。

 巨大な窓の外には果てしなく続く『宇宙』があった。

 そこに置かれた長いベンチに、この『特殊な部隊』の隊長の『やけに若く見える駄目中年、四十六歳、バツイチ』、嵯峨惟基特務大佐の姿を誠は見つけた。

「おう!神前!大丈夫か……って大丈夫じゃなさそうだな」

 嵯峨は手を振って広い展望ルームの端から誠に声をかけた。

 誠は食事ができないので受けていた右腕の点滴の跡を気にしながら、タバコをふかしている嵯峨のところに歩いて行った。

「何とか慣れてきました。でも、隊長。ここはタバコを吸っていい場所なんですか?」

 そんなひねくれた誠の問いを嵯峨は完全に無視した。

「いいじゃん。俺の『特殊な部隊』なんだから。それより、神前。結局逃げずに乗ったんだ……この(ふね)に」

 嵯峨の呆れたような口調の意味を理解し、誠はそれ以上に呆れた。

「自分の部下に『乗ったんだ』って……逃げればよかったんですか?まるで逃げて欲しかったみたいな言い方じゃないですか、その言い方」

 完全に自分が『逃げる』ことが前提で話している嵯峨にそう言って抗議した。

「逃げるってのは勇気がいるんだよ、実際。意気地なしは逃げられないの。すべての人生をリセットする覚悟の無い『子供』は逃げることができないわけだが……神前は自分の行動に責任が持てる『大人』だから逃げればいいじゃん。宇宙酔いに弱い上に元々パイロット向きじゃないことは分かってるんだから俺達の戦いに付き従う義理はお前さんにはねえよ」

 嵯峨はタバコをくわえてそう言って誠を見つめた。その目は完全に誠を馬鹿にしていた。

「僕の逃げ道は全力で潰す……って言ってませんでしたっけ?そんな話クバルカ中佐がしてましたよ」

 自棄になった誠はそう言って嵯峨をにらみつけた。

「神様じゃねえからな、俺は。できることとできないことがある。お前さんが本気で逃げたらどうにもならねえよ。今からでも『逃げたい』なら、東和共和国のアステロイドベルトにある基地にでも送ろうか?手配してやるよ?」

 そんなふざけたことを誠に言う、嵯峨の目は完全に死んでいた。

「逃げません!僕は社会人です!ちゃんと与えられた仕事はします!」

 『脳ピンク』の『駄目な喫煙者』である嵯峨から目を逸らした誠は、その視線を外に向けた。

 誠は大きな窓の隣の表示板に目をやった。

 そこは、この外の景色が遼州第二惑星『甲武』付近だと表示されていた。

「社会人でも逃げるときは逃げていいんだよ。お前さんが逃げた結果、俺達『特殊な部隊』の面々が死のうがどうしようが関係ねえじゃん。所詮、俺達は他人だったという事実が残るだけ。お前さんを仲間にできなかった俺の心の中に後悔が残るだけだ。お前さんの知ったことじゃないよ」

 嵯峨はそんな独り言を言って静かにタバコをくゆらせていた。

「まるで僕に逃げてほしいみたいなこと言うんですね」

 誠は嵯峨とは目を合わせずに外の小惑星を眺めていた。

「人間はね、生きていればなんとかなるの。命がある限り何回でも『生きなおせる』の。ただ、すべてを捨てて逃げ出すときにはこれまでの貯金をすべて『チャラ』にしなきゃならねえんだ。それはかなり勇気のいる話だよ。そんなことをできる人間を俺は尊敬するね。『お釈迦様』なんかじゃなきゃできねえ大した偉業なんだよ、本気で逃げるってことは」

 『お釈迦様』は誠も家の宗旨が『真言宗智山派』なので知っていた。

「逃げることが『偉業』なんですか?そんな『お釈迦様』のしたことに匹敵するような!」

 戸惑いながら誠は喫煙中の嵯峨の顔を覗き込んだ。

「そうだよ、逃げることは『偉業』だよ。無茶な戦いから逃げずに戦えば『あの世』に逃げることができるんだ。でも、決戦を避けて逃げてもいずれは本当の『戦い』がそこに訪れる。結局、人間逃げきれねえもんなんだな。逃げるってのは本当に難しい。だからお前さんも俺達が危ないようなら迷わず逃げな。俺達はお前さんを責めないよ」

 誠の視界の中で、嵯峨はそう言ってほほ笑んだ。

「隊長達を見殺しにしても怒らないってことですか?」

 自分を卑怯者に仕立てようとする『特殊』な部隊長に向かって誠は自分の疑問をぶつける。

「そうすれば、お前さんは俺達みたいな『特殊な馬鹿』のことを覚えていてくれる。死んだあとにそう言う人間がいてくれるなら、俺達みたいな馬鹿は安心して死ねる……まあ、今回の俺達は死ぬのは無しみたいだな。それより一方的に人を殺しそうだ。そしてその殺す人間の数ではお前さんが一番多くの人を殺すことになる……それでも逃げないの?」

 誠の顔を真正面に見てそう言った嵯峨の目は少しうるんでいた。

「すまんな、ちょっと昔のことを思い出してな……逃げて意味のある奴は逃げるべきだ。お前さんも逃げることに意味がある。俺は千倍の敵と戦うことを強制された事が有る。もうすでに敗戦が決まっていた状況下でだ。俺は戦いながらいかに終戦後に部下をどうやって逃がすかということだけを考えて戦っていた。結果、その戦いの決着がつく前に終戦を迎えた。もしあの時、俺が戦って勝つことを考えたら俺の部下は全員死んでいた。俺は今でもその戦い方を誇りに思っている……そんな俺が言うんだ。それでも逃げないのか?」

 珍しく慌てた様子の嵯峨を見て、誠はどこか親近感を感じていた。

「隊長。僕は逃げません!」

 誠はそう言ってこぶしを嵯峨に突き付けた。

「そうかい、臆病なんだな」

 意表を突いた嵯峨の言葉に誠は再び言葉を失った。

「逃げる方が臆病者です!」

 
挿絵


 当たり前の自分の言葉を聞きながら、嵯峨は目を逸らしてタバコを床に押し付けて火を消す。

「それは世の中を知らない『赤ん坊』の言うセリフだ。『撤退』、『縮小』、『撤収』、『敗走』。どれも勇気がねえと立派にはできねえんだぜ。いつの時代でも戦場ではその『撤退戦』の最後尾を最強の部隊が担うってことになってるんだ。お前さんの同級生の一般企業に就職した奴もいずれ『拡大しすぎた事業からの撤退』とかいう『逃げ』の仕事を押し付けられるの。ほとんどは『討ち死に』して会社をクビになる。世の中つれえんだわ……軍や警察もおんなじ。逃げることには勇気と決断がいるんだよ。最強の戦士にしか任せられない仕事なんだ」

 誠も企業の『事業縮小』や『リストラ』の話はテレビで見て知っていた。『策士』である嵯峨がそれを『戦場』としてとらえているのも理解できた。

 しかし、誠には嵯峨のように『逃げる』ことへの嫌悪感がぬぐい切れずにいた。

「じゃあ……僕は……」

 迷う誠に嵯峨は冷たい視線を投げながら、胸ポケットから取り出したタバコに火をつける。

「じゃあ、言うわ。さっき『遼州同盟』の偉いさん達から、俺達『特殊な部隊』に正式な命令が届いた。『甲武国』の『近藤貴久中佐』の乗艦『那珂』を奴さんごと沈めろ……って無茶なこと言うな……ちゃんと『殺人許可』は出てるそうだ。死んだ『甲武国』の軍人は全員『犯罪者』として『処刑』された扱いになるそうだ。意地でも同盟司法局は近藤中佐を犯罪者に仕立て上げたいんだろうな。本来ならこれは甲武国の国内問題として処理するべき事案だ。それを俺達が動く……司法局のスポンサーである『東和共和国』の偉いさんはどうやっても遼州同盟一の軍事大国である甲武国を蹴落としたいらしい」

 誠を見つめたまま嵯峨はそう言った。その目はいつも通り死んでいた。

「『近藤貴久中佐』を……乗艦『那珂』ごと沈める……」

 この『特殊な部隊』に配属になったばかりの誠にも、それがあまりに過酷なミッションであることは余裕で想像ができるものだった。

「そう、今回の演習はただの口実だ。同盟司法局の目的は甲武国不安定化を企む『ある男』の意図を挫くこと。その為に『那珂』には沈んでもらう……世の中そんなもんさ」

 嵯峨はそう言って苦笑いを浮かべた。誠はその言葉のあまりの残酷さと軽さについて行けなかった。

「なんだい、ビビったかい?今なら逃げてもいいぜ。俺は気にしねえよ……『偉大なる中佐殿』……クバルカ・ラン中佐はどうだか知らねえがな」

 あまりのことの重大性におびえる誠の目の前ににやけた若い男がいた。自称四十六歳、バツイチ、コブツキ。そして脳内はピンク色の『駄目人間』。それだというのに、その言葉には実に計り知れない『重み』があった。

「クバルカ中佐が……僕を……『斬る』んですか?」

 恐る恐る誠は尋ねた。嵯峨は静かに|首《こうべ》を横に振った。

「アイツはそんなに『ひどい上官』じゃねえよ。あいつは見たまんま、『永遠の8歳児』なんだ。かわいい女の子なんだよ。『不傷不殺』。それがあいつの信条なんだ。アイツは以前、アイツが参加した戦いに負けて敗者になった。その戦いでアイツを倒したパイロットはあえてアイツを殺さずに『友達になりたい』とか抜かしたんだ。その様子を見ていたそのパイロットの上官だった俺も度肝を抜かれたね……アイツはそのライバルである俺の部下のパイロットの背中をいつも追いかけている」

 誠は嵯峨の言葉でランが先の『遼南内戦』の敗戦国の英雄だったことを思い出した。

「その時からアイツの戦い方は決まってるんだ。部下を危ない目に逢わせたくない。人を傷つけるのが大嫌い。そんな優しい奴なんだよ、あいつは。アイツの超えるべきパイロットは常にそう言う風に戦ってきたのは、そいつの上司だった俺が一番よく知ってるからね。お前さんも優しいな。お前さんとラン。どちらも似た者同士だ。さっき逃げろと言った口で言うのもなんだが、そんな優しいお前さんに『偉大なる中佐殿』の期待を裏切ることができるかな?」

 タバコをくゆらせながら言う嵯峨を見て誠は困惑した。

 いまだ会ったことのない嵯峨の娘とは、いつも目にしている小さな幼女に見えるランのことではないか、誠はそう思った。

「裏切れないです……僕は……期待にこたえたいです……『特殊な部隊』のみんなの……」

 無理やりの笑みを浮かべながら誠はそう言い切った。

『僕が逃げたせいで、もしみんなが死んだら? 僕はその責任を背負えない。隊長が言うように僕は逃げられない『臆病者』なんだ。だったら、やるしかない』

 誠の心にはそんな決意が去来していた。

「……そうか。じゃあ、『偉大なる中佐殿』……クバルカ・ラン中佐から作戦の詳細を聞いてこい。あいつもこの命令については知ってる。あいつなりに考えて、お前さんの『素質』を生かせるようにしてくれるはずだ。間違いなく『人類最強』の上司だよ、あいつは」

 嵯峨の言葉に誠は静かに敬礼した後、この展望ルームを後にした。


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