32.日ノ本一、怒らせてはならない存在
雉猿狗は自室の椅子に腰かけて本を読んでいた。そして、本から顔を上げて軽く息を吐き、丸いガラス窓から夜の奥州の森を眺めると扉が数回叩かれる。
「あ……桃姫様。おかえりなさいませ──」
ギィ──と音を立てて開いていく扉に向けて声を発しながら本を閉じ、椅子から立ち上がった雉猿狗。
しかし、その扉の先に立つのは夜狐禅ただ一人のみであった。
「──夜狐禅様……桃姫様は、どちらに……?」
「……雉猿狗様、僕から一つだけお願いがございます──」
不穏な気配を察知して冷たい声を発した雉猿狗に対して、夜狐禅が淡々と言葉を発した。
そして雉猿狗は、夜狐禅のぐるぐると渦を描きながら発光する紫色の瞳を睨みつけるように凝視してしまう。
その瞬間、強い目眩がした雉猿狗は咄嗟に視線を逸らすが既に"術中"にハマった雉猿狗は床の上にドサリと音を立てて倒れ込んだ。
「──しばしの間、御休みくださいませ、雉猿狗様……」
夜狐禅はそう告げると部屋に入り、雉猿狗の体を廊下まで運んだ。そして、廊下で待っていた壁に一つ目のついた妖怪、目壁兵衛(めかべえ)を見上げる。
それは、墨庭園をごろごろと転がっている小さな目壁兵衛たちが集合して壁の大きさにまで結合したものであった。
目壁兵衛は、砂や小石の大きさから巨岩の大きさまで、その集合する数量によって大きさを変える妖怪であった。
「……目壁兵衛様、雉猿狗様を地下牢まで運んでください。約束通り、好物の花崗岩は庭園に積んであります」
「──グガガガ……」
夜狐禅の言葉を聞き届けた目壁兵衛は体全体から低い唸り声を発すると、ドタン──と後ろに倒れて四つん這いになった。
夜狐禅は雉猿狗の体を目壁兵衛の"顔の上"に乗せると自身もその上に乗って座り、目壁兵衛は地下牢まで四ツ足でのしのし歩いて長廊下を進んだ。
「……ん、んん……」
ポタ、ポタ──と天井の岩壁の隙間から水滴が垂れて雉猿狗の顔に当たると、雉猿狗は翡翠色の瞳を開いた。
「……起きられましたか、雉猿狗様」
簡素な寝台の上で目覚めた雉猿狗に牢屋の鉄格子越しに声を掛けたのは夜狐禅であった。
「……夜狐禅様には……他者を眠らせる力があるのですね……」
寝台から上半身を起こした雉猿狗は、暗い地下牢の中で夜狐禅に冷たい声を発した。
「……久々に使いました。頭目様の許しがなければ使えないのです」
「……そうですか……その力を使って人里で悪さを働いていたのですね──」
雉猿狗は内心に強い怒りを込めて言葉を発すると、それを感じ取った夜狐禅は言って返した。
「申し訳ございません……手荒であることは承知していますが、頭目様の"野心"を達成するためですので」
ぬらりひょんの"野心"──その言葉ですべてを理解した雉猿狗。何より、ぬらりひょんに初めて会ったときから桃姫に対するその"野心"は見え隠れしていたのである。
夜狐禅の言葉を聞いた雉猿狗は深いため息をついたあと、可能な限り明るい声音を心がけて口を開いた。
「──さて、夜狐禅様。ここから出しては頂けないでしょうか?」
「申し訳ございません。頭目様からの御命令ですので、夜が明けるまでは、出せません」
夜狐禅は内心では苦々しく思う今の感情を表に出さないように心がけながら言って返した。
「そうですか──ならば仕方がありませんね──」
夜狐禅の言葉を受けた雉猿狗はあっけらかんと言いながら寝台から立ち上がると、夜狐禅に対して背中を向けた。
そして、翡翠色の瞳に走る黄金色の波紋を見る見るうちに肥大化させていった。
「──牢屋ごと吹き飛ばします──離れたほうがよいですよ──」
「……え?」
静かな声でそう告げながら、黄金色に光り輝く神雷を全身から放ち始めた雉猿狗の後ろ姿を見て、夜狐禅は間の抜けた声を漏らした。
黄金色の雷光によって、暗い地下牢が陽の下のように明るく光り輝いたその時、雉猿狗は鉄格子に向けて振り返りながら口を開いた。
「──日ノ本最高神、天照大御神より授かりし、この神の御業を視よ──神術──神雷暴爆(じんらいぼうばく)ッッ──!!」
「……ひっ!」
振り返った雉猿狗の姿を見て悲鳴を上げた夜狐禅。全身が激しい稲光に包まれ、黄金色の両眼が怒りに燃えて鋭く尖っている雉猿狗。
その姿は、普段見慣れた温厚な雉猿狗ではなく、"鬼子母神"という表現が相応しい、桃姫を奪われて憤怒に燃えた神の化身たる形相であった。
そして、その全身から撃ち放たれた怒りの雷撃は、牢屋の鉄格子を壁ごと吹き飛ばし、粉々に打ち砕いて大穴を開いた。
「……ち、雉猿狗……様……」
咄嗟に地下牢の隅まで下がり、階段に繋がる扉に背中を押し当てた夜狐禅が悲鳴のような声を喉から漏らした。
一歩、また一歩と大穴から足を進めて出てきた雉猿狗がバリバリ──と全身から強烈な稲光を放ったまま夜狐禅の元まで歩み寄る。
「──獣の魂を持つ者の好(よしみ)です。夜狐禅様、あなたを傷つけたくはありません──どうぞ、退いてくださいませ──」
「……は、はい……」
雉猿狗の激しい怒りを宿しながらも丁寧に告げる声音に対して、夜狐禅はただ恐れ慄き、頷きながら階段に続く扉への道を譲るしか出来なかった。
「──ぬらりひょんは、いずこに──?」
「……す、墨庭園から続く……奥座敷、です……」
扉の前に立った雉猿狗が夜狐禅に静かに尋ねると、雉猿狗の放つ雷光によって顔を明るく照らし出された夜狐禅は震える声で答えて返した。
「──かしこまりました──」
「……あの……雉猿狗様……鍵は、こちらに……」
夜狐禅は重厚な造りの鉄扉を睨みつける雉猿狗に対して、黒い着物の中から地下牢の鍵を取り出して雉猿狗に手渡そうとする。
「──鍵など不要──ハアッッ──!!」
雉猿狗は地下牢の閉じた鉄扉に稲光を放つ片手を押し当てると、掛け声一つで鉄扉を吹き飛ばし、長廊下に続く階段を上って行った。
「……ほ、本当に……僕と同じ、獣……なのか……?」
夜狐禅は呆然とその背中を見送ったあと、雉猿狗によって破壊された地下牢の残骸を見回した。
「……頭目様、僕たちは……"日ノ本一、怒らせてはならない存在"を、怒らせてしまったのかもしれません……」
夜狐禅は恐れ慄くようにそう声に漏らすと、恐怖のあまりその場にへなへなとへたりこんでしまった。