◇本気の怒り◇
空へ弾き出されたカインの身体、その姿を追ってカボチャは飛び出した。
いくらカインの身体能力が人並外れているとは言え、直前に殴られたのが頭だったのか、遠目にも気絶しているのが分かる。
この高さからそのまま地面へ叩き付けられればいくらなんでも無事ではすまない。
「カインー!」
景色の全てが目に映らぬ程の速さで、カボチャはカインに追い付いた。
だがそこへ追い討ちをかけてカインの大剣が二人に迫る。柱へ突き刺さっていた大剣をマハルが二人目掛け放ったのだ。
すぐさま身を翻し、カボチャは大剣を弾こうとした。だが大剣はマハルの風に守られ微動だにしない。
「っなに!?」
既に地面は目の前なす術なし、爆音とともに巨大な爆風が上がる。
もうもうと上がる砂埃の中、身動ぎし先に目を覚ましたのはカインの方だった。
「いってぇ……」
何がおきたのかと辺りを見回し、柔らかな感触に何かが自分の下敷きになっている事に気付く。
人間でいけばまだ十代くらいの子供の手足が……はっとしてカインは起き上がった。
「か、カボチャ! カボチャーーー!!」
◇◇◇
カインの身体を庇って、自分の意識が遠のいていく――その時、あの屋敷の匂いが浮かんだ。
『そこの〝お前〟これを旦那様の元へ持って行け。落としたら分かっているな?』
香水の匂いが鼻を衝く。たぶん〝女〟からの手紙だ。
書斎の扉を開けた瞬間、旦那様はそれをもぎ取るように受け取り、言った。
『いつまで居るつもりだ。さっさと出ていけ』
片手で野良犬を追い払うように。それがこの男のいつもの態度だ。僕はずっと、あいつが嫌いだった。
けれど、もっと厄介なのは奥様だ。
『さ、着替えましょう。今日のあなたにはこの色が似合うわ。ほら、髪ももっと整えて』
鏡の前で、フリルとレースのドレスを何着も着せ替えられる。どれも奥様の趣味そのもの。
まるで人形。喋ることも許されず、ただ衣装を纏わされるだけ。
部屋の隅では、女中たちがひそひそと囁いていた。
『……奥様ったら、あの気味の悪い子供のどこがいいのかしら』
『子供? それもどうか怪しいわ。全く歳を取らないそうじゃない』
『男のくせに女物を着て喜ぶなんて、あぁ私もあんな素敵なドレス、一度でいいから着てみたいわ』
『やだ、睨まれた。相変わらず目付きの悪い子』
女中たちの勝手な恨み言なんて、いつものことだ。
ドレスを脱ごうとして気付く。少しだけ開いた扉の隙間から、ねめつくような視線。旦那様だ。
――その日から、旦那様の態度が変わった。
食事の配膳で通るたび、必ず一度は目が合う。
普段は声もかけてこなかったくせに、妙に優しい口調で呼ぶ。あの頃は意味が分からず、そのたびにぞわりと背筋が冷えた。
それからしばらくして。旦那様の浮気が奥様にバレ、どうしてか、こちらに白羽の矢が立った。
『あの手紙、あなた知っていたのでしょう! なのに、どうして私に黙っていたの!?』
弁解をする暇もない。言ったところで誰が信じる。奥様の白い手が頬を強く打った。
『私が知らないとでも思う? あの人のあなたを見る目付き、急に優しくなったのよ。二人で秘密を共有して仲良くなったのかしら? まさか、家の中にまで〝そういう相手〟がいたなんてね。ああ恥ずかしい……屋敷中で笑い者じゃない』
奥様が歪んだ笑みを浮かべる。その奥にあるのは、愛情ではなく、徹底した支配欲とプライドだった。
『さっさと出て行きなさい。見てるだけで腹が立つ!』
使用人たちが現れ、怒号とともに引きずり出される。違うと叫んだところで状況は変わらない。
納屋に投げ込まれ、大人数の人間に殴られ、蹴られ、傷だらけで藁の上に転がった。
その夜には旦那様も現れた。
『よくもバラしたな。ごろつきだったお前を引き取って、あんなに目をかけてやったのに!』
嫌悪と憎悪に支配された醜悪な顔。
『なんだその目付きは、このっ化け物が!』
旦那様が片手を振り上げた、その瞬間。
体の奥底から、自分でも知らない〝何か〟が溢れ出し、視界が朱色に染まった。
目覚めると静寂――倒れた旦那、開いた鍵、眠るように死んだ屋敷の者たち。
反射的に逃げ出す。息も絶え絶えに、夜を越え、何日もかけて魔族領へ。
――自分は人間ではない。魔族であると、本能が告げている。
身一つ、無一文。魔族領内に入り、生きるためならなんでもやった。
村や町を転々とし、盗んで、暴れて。
『――これはこれは、フフフ、お楽しみは終わりましたか?』
その日は私兵に捕まり、粗末な小屋に軟禁され、身の危険を感じて暴れた。
村の通りには、半殺しにした私兵が血を流してあちこちに転がる。
最後の一人が呻き声を上げたので、とどめとばかりに足で顔を踏みつけた。
――その時だ。そいつが現れたのは。
真っ白な髪に、真っ白な布地。司祭のような出で立ち。
穏やかに瞳を閉じ、不敵な笑みをたたえるその男が。
『……コイツらが僕を妙な目で見たのが悪いんだ』
そいつは軽く視線を周囲へ移し、そのままじっとこちらを見つめた。
『なるほど、確かに可愛らしい見目ですね。やっていることはともかく』
『……』
『それにしてもその魔力量、あなたには身に余るようですが』
『だったらなんだ』
『名はなんと?』
『そんなもの、ない……』
『そうですか』
『なんだよ。貴様も僕をバカにするのか?……だったら』
身構えたその時には、頭から何かを被せられ、視界が霞んだ。
『そこの店にあった物ですが……フフフ、悪くないですね』
なんとか穴が空いている箇所を見つけた。
『カボチャ……そう、今日から貴方を〝カボチャ〟と呼ぶことにしましょう』
文句を言う前に、男は背を向けて歩き出す。
『――さぁ、行きますよ〝カボチャ〟』
◇◇◇
「……カボチャ、カボチャ!」
カインの下敷きになる小さな子供の身体。
肩を剥き出しにした橙の上衣に、黒い下衣の功夫服。
その頭には、あのお馴染みのパンプキンの被り物。
けれど、そこにはカインの大剣が突き刺さっていた。
すぐに気付いた。カボチャが自分を庇ったのだと。
「うあああ!」
カインがその大剣を引き抜くと、既に割れていたパンプキンの被り物が左右へと散らばる。
剣先にはべっとりとした血が付着していた。
「あぁっ」
自分の剣でカボチャがと、あらわになった幼い顔立ちを両手に包んで、怪我はどこかと手探りで探す。カボチャの黒く長い髪がバラバラと散乱した。
「起きて、起きろよ」
取り乱しているからかも知れないが、外見にさほど異常は見付けられない。パタパタと手の平で血色の良い頬をはたくと、その愛嬌のある太眉をしかめ、うっすらと瞼が上がった。
「……っうるさいですね。くそっ頭がぐらぐらするぞ」
カボチャは直ぐに起き上がって、少しつり上がった大きな瞳でカインを確認すると、何処にも異常がないことに心底ほっとした。ギリギリ重力で落下の威力を緩和したのがきいたらしい。
だがカインはそうはいかない。カボチャの耳から血が滴っているのだ。
視線を下ろすと、普段は毛先を一つに束ね長く伸ばした厚い黒髪は、左耳の辺りだけ斬れて髪型が不自然な形に乱れている。
「こんな、せっかく綺麗な髪なのに、血だらけだよ」
「まったく……こんなのわけないですよ。髪と耳がちょっと斬れただけです」
本当はちょっとでは済まなかった。
カボチャは剣だけは避けきれなかったのだ。いや違う、確かに顔と身体をズラし避けたはずだった。
だがマハルが剣に纏わせた風圧で顔の左側、ちょうど左の目尻の辺りから足先に向かって真っ二つに斬られた。
マズイと思った。真っ二つになった身体もそうだがこの風圧がカインにまで及んだら取り返しがつかない。
しかしそれも束の間、カインの身体には既に防御結界が施され、カボチャの身体は一瞬にして元に戻った。
魔王セオドアのように時を戻したのでは決してない。
防御術、治癒術、回復術の三つを同時に展開し、治癒術、回復術に関しては応用もきかせ、なおかつ即効性が高い、こんな芸当をあの一瞬でやってのけるなど、カボチャはこの北の国で一人しか知らない。
(シュケルのやつ……動けないんじゃなかったのか?)
耳の辺りを触ると確かに赤い血が手にべっとりとへばりついた。
(治りきってない……くそっアイツ無茶しやがったな)
カインを改めて見ると上でやりあった痕だろう。白と青の上衣と紺色の下衣がそこかし破れ、カボチャよりやや褐色がかった肌には、打撲の痕が浮かび、口元が少し切れて本人は無意識に手の甲で血を拭っていた。カインの真っ直ぐな青い瞳がカボチャを心配げに見つめ、目が合うと少し首をかしげて愛嬌良くニッと笑う。
カボチャの腸が煮えくり返った。
完全に侮っていた。そう、所詮子供と思い侮っていた。
だがマハルの風は容赦なくカボチャを真っ二つにできるのだ。
相手が使うのは決して魔力などではない。けれど己が持つ力の扱い方はカボチャよりも巧みだ。おまけに何もかもが速い。
「小僧の分際で……」
カボチャは赤い瞳をぎらりと燃やし、立ち上がった。
まだ砂塵の残る視界の中、その小さな身体から空気が一変する。重く、圧し潰すような力が辺りに満ちていく。
カインを殺そうとし、シュケルをここまで追い詰めた怒りが、臨界に達していた。
まだ視界の先にいるマハルを睨み据えたまま、カボチャは唇の端をほんのわずかに歪めて言い放つ。
「生意気ですね」
その声音は低く、感情を押し殺しているのに、なぜか耳に焼き付く。
地面が呻くように沈んだ。
森が揺れる。見えぬ力――重力が、この場のすべてを圧し潰そうと蠢いていた。
「何百年ぶりに……少し、本気で相手にしてやりますよ」
拳を鳴らす代わりに、辺りの地面が陥没する衝撃音がいくつも上がった。
◇◇◇
十字の柱の上で剣を放ったあと、マハルは地上の様子を伺っていた。
もうもうと上がる砂と土埃のせいで様子がにわかに分かりづらい。ただあれだけやればさすがに死んだだろうと、そう思っていた。
だが突然上がったいくつもの衝撃音。それと同時に空高く上がるいくつもの巨大な砂柱。
一瞬にして辺りが茶色く染まり、視界が悪くなる。
「目眩ましか、小癪な」
その場から離れようとして、突如真横に子供ほどの人影が現れゾッとする。とっさに躱したが空気とも思えぬ何かが耳を霞め、背後の森から衝撃音が上がる。
振り返れば巨大な何かで押し潰された風穴が空いていた。
「なんだ!?」
間髪容入れず人影が背後に迫るのを直感し、躱した。
警戒し先程より大きく距離をとったつもりだが、またしても見えない何かにぶつかる寸前だった。
辺りを揺らすほど爆ぜるような音。背後を見れば案の定風穴は先程の攻撃より倍になっている。
少なくともマハルには覚えのない力だ。目に見えない攻撃、まさか風を操るのか、そうとも思ったが、マハルたち風の大陸の民のように自然の力を操るのとはまったく異なる何かだと、それだけは分かった。
ならば考えたところで無駄だ。例え力の源が何か分かったところで、どうとも出来るとは思えない。
やることは一つ。
「まずは視界に捉える!」
マハルはシュケルの元へ素早く戻ると、柱を中心に巨大な竜巻をおこし、周囲の森林へと押し広げた。
茶色く染まる視界が徐々に開け、台風の目のように穏やかな景色が広がる。寂れた大地は竜巻に押し退けられ一層綺麗に掃除された。
何もなくなったその地上の大地に、何者かが一人佇んでいる。激情に燃える瞳を迷いなく此方へ向けながら。
「……子供か?」
そうそれは、まだ十代前半の小柄な少年だった。
夕陽に染まったような、肩を露わにした橙の上衣に、風を孕んで揺れる七分丈の黒い下衣。
足元では、地を踏みしめる布靴のまわりに、わずかに風が立つ。
静かに立ち尽くすその姿からは、内に燃え盛る怒りがひたひたと滲み出ていた。
予想だにしなかった相手にマハルは眉を潜める。てっきりさっきまでいたふざけたパンプキン姿の方だと思っていたのだ。
だがその子供から得体の知れない何かを感じた。得体の知れない力を……。
それはその小さな身体からとめどなく溢れ出すように、強大に膨れ上がる何かだ。
「薄気味の悪い」
マハルが舌打ちをした時、その子供がマハルと同じ高さへゆっくり上がってきた。
マハルとは違う風ではない何かの力で、それがこの少年が纏う朱色の何かだと言うことだけは分かる。
「おい貴様、よくも二人に手を出してくれたな」
その声に聞き覚えがある。
「それに分かったぞ、風だけじゃないな。貴様、自然から力を借りてるんだろう。その中で風と仲がいいだけだな」
信じられないがあのふざけたパンプキン姿の声だ。
こちらは相手の手の内が分かっていないと言うのに、この子供はこちらを的確に当てて来た。だが……。
「――だったらなんだ」
それを知ったところでなんになるのだと。
「確かにそうですね。けど……」
とたんに距離を詰められた。
「ちょっとは動揺したろ!」
コンマ一秒避けるのが遅れた。目の前に迫った愛嬌のある少年の顔が、高圧的かつ巨大な力の威力で霞む。
それが先程から森に風穴を空けている攻撃だと、紙一重で逃れてから気付く。
またも青々とした森林に大穴が空いた。先程とは比べ物にならないほどの巨大な。
その度に地鳴りが響き、生き物が逃げ惑う。だが穴が明いた箇所には生き物の死骸すら残っていない。
マハルは自身の肩にかけた藍白色の羽織を見た、その左袖が跡形もなくなっている。
「洒落にならん」
けれどいったい何をしているのかは分かった。単純にありあまる自身の力を全力に込め、殴りにきているだけ。だが結局それが分かったところでなんになる。
まともに食らったら確実に死ぬ、それだけだ。
「――よくよく考えてみれば、別に貴様から解毒法を聞き出す必要もない。魔王さまに元に戻して貰えばいいんですよ。シュケルの身体の時間だけを」
少年は小さく呟きながら、マハルを真っ直ぐ指差した。
「だからお前、生きて帰れると思うなよ」
◇◇◇
「うーわぁ、あそこにいたら危なかったなぁ」
ゴツゴツとした砦の螺旋階段から、カボチャとマハルの攻防をカインは観戦していた。
(あそこにいたら、本当に危なかった。カボチャの奴、本気で怒ってる……)
カボチャがぶちギレて直ぐ、これはマズイと悟ったカインは邪魔だと言われる前にスタコラさっとこちらに逃げていたのだ。
そして不思議と攻撃が砦まで及ぼうとも砦にはまるで見えない壁でもあるかのように傷一つつかないので、カインも安心して様子を見てられた。
「さすがにあれには加われないもんな~……ちょっと悔しいけど」
あそこにいるとカボチャの邪魔になってしまう。
「野獣と魔獣と下級魔族くらいなら俺でもなんとかなるんだけど」
当たり前のようにカインは言うがこの世界の一般論ではそれもなんとかなる方がおかしい。
「さて、と……!」
ゴツゴツとした岩肌に手を置いて、カインは城の頂を見上げる。
磔にされたシュケルがいる十字の柱、そこにもっとも近いのは……。バルコニーらしき所で人影が動いた。
「……行ってみるか」
カインは螺旋階段の腰壁に飛び乗り駆け出した。
並外れた身体能力で、ぴょんぴょんと上へ上へと近道をし、あっという間に迫ったバルコニーへ飛び上がる。
すると揺蕩う波のような紫の髪、褐色の肌には桃色の上衣、丈の短い黒の下衣の背中が見えた。あの十字の柱に向かって何やらどでかい岩の小槌を振り上げている。
カインはその姿のとなりに着地した。
「なにしてんの?」
耳元で声をかけるとその者は「キャー!」と甲高い声で驚く。持っていた巨大な小槌を落とし、どすんとした音が辺りに響いた。そしてワタワタと腰壁まで距離を取り顔面蒼白に叫ぶ。
「お、お許しください!」
耳元で声がした事によっぽど驚いたのか、両耳を押さえて半泣きでそんな事を言うのでカインは焦る。
「えぇえ、ごごごめん!」
そこではたと気付く、遠目には分からなかったがどうみても十代後半の女の子だと。それもかなりの美少女。
「うわぁごめん! 驚かせるつもりじゃ!」
だが聞こえているのかいないのか、彼女は端正な面立ちを哀しげに歪めて訴える。
「違うのです。わたくしはただあの者を解放しようと……このような事態黙って見ておれませぬ」
「え?」
「あなたはあの者の仲間なのでしょう? わたくしはあの者に危害を加えるつもりはございませぬ。ただ、あのお二人の仲睦まじい姿をこの眼に焼き付ければ諦めがつくと……なのに、このような仕打ちとは、あまりに酷うございます」
黒水晶のように大きな瞳に涙を浮かべ、はらはらと泣き出す美少女。
「せぬ? 酷うございます?」
あまり馴染みのない口調に話の内容がすんなりと呑み込めない。
すると今度は馴染みのあるフフフと微笑する声が聞こえた。
「彼女は私を助けたいのだそうですよ」
顔を上げれば柱に磔にされているシュケルと眼があう。いや実際はシュケルは眼を閉じているので、あってはいないが、まぁとにかくそういうことだ。
「シュケル!」
「カイン、よくここまできましたね」
「シュケル大丈夫? いや大丈夫じゃないよな!」
腰壁まで駆け寄って身を乗り出す。
隣の彼女はびくりと肩を震わせ、思わず後ずさった。
「フフフ、大丈夫と言えば嘘になりますが、問題はありませんよ」
「えぇ、でも」
「それよりそちらのお方ですが、マハルの世界からきたそうです」
「え、異界から?」
カインが振り替えると、彼女は身なりを整えその場に膝をつき、三指をつく。
「地の大陸、長(おさ)の娘、タージと申しまする」
そして、申し訳なさそうに言った。
「……マハル様の、許嫁にございます」